第3話

 弟。そうか、彼女は自分を弟のように思っている。


 家族のようだ。

 そう言われていることは満更でもない。

 が、自分の抱く感情とは別のそれを抱く事実に、ローデリヒはわずかな落胆を抱く。


 いっそ、ならば、他人でもよかったというのに。


 一人、勝手に落ち込んでいると、ヘレネは「そうだ」と思いつくように言った。            


「食材をね、今切らしているの。

 ローデリヒ君、後で一緒に買い物に行きましょう。

 折角だし、貴方の三年目祝いも兼ねて豪勢にしてしまいましょう!」


「え、いいんですか?」


「たまにはいいでしょう。

 私だって、美味しいものが食べたいもの。

 ふふ、それが本音」


 口元に人差し指を当て、ヘレネは無邪気に微笑む。

 ああ、天使とは正に彼女のためにある言葉ではなかろうか。


「昼過ぎ、部屋に呼びに行くわ。それまで自由時間。ね」


「は、はい……」     


 じゃあ、決まり。そう愛らしい笑顔を浮かべ、ヘレネは去っていった。

 小さな足で軽やかに去る後ろ姿。

 いつまでも見ていられる。ああ、なんて美しいことか。


 そうローデリヒは気分を巡らせ、夢見心地のまま階段の手すりを辿っていく。

 ばたりと部屋の扉を閉めると、堰を切ったように溢れ出す熱情に襲われ、蹲み込んだ。


「ああ……嗚呼、綺麗だ。

 今日も、綺麗だ……」


 火照る頬を抑え、うつむき、言葉をこぼす。


 ローデリヒは、肩周りに僅かに周囲を残る甘い残香に酔い、ベッドへと倒れ込んだ。


 ヘレネ・ヴァイスコップ。その容姿こそはハイノと瓜二つ。 だがそのよく伸びた背筋、頭ひとつ小さな背丈、柔らかに整えられた髪。

 同じ人間の胎から同時に産まれたとは思えない、精霊のような清らかで美しい女性だ。


 端的に言えば、ローデリヒは彼女に恋をしていた。

 それも、何年も何年も、成熟と熱を溜め込んだ情慕。

 我ながら倒錯的だと自嘲する程のそれは、彼が大学生だった頃に始まった。 


 まだ芽すら生えていない、科学者の種子であった頃。

 所属の専攻の教授に連れられ。

 ローデリヒはとあるパーティーへと訪れた。あ

 まり人付き合いが好きな性格ではないが、学会での伝手を手に入れる数少ない好機であったこと。

 そして、熱烈な博士の勧誘によって、仕方なく赴くことになったのだ。


 いざパーティー当日。

 当然のようにひとり蚊帳の外となったローデリヒ。

 彼は部屋の隅で出された料理をつつく羽目になっていた。

 最初からわかり切っていたことだ。

 平民生まれの、今までに一度も社交界に出たことのない人間が、パーティーでうまく立ち回れるわけがないのだ。


 ああ。少しだけ、情けない。


 そう心の中で呟き、ワインを呷った時。

 さらりと揺れる布が視線の端に入った。

 カーテンにしては不自然な動きをするものだ、とふと振り返ると、そこにいたのはドレスを纏う、スラリとした雪の精……いや、女性だった。


「あ、」


 一瞬で。一瞬で圧倒された。

 その所作の上品さ、黒檀のように深い黒髪。

 白い肌に紅い唇。

 スノーホワイトを思わせる彼女は、ローデリヒは時間を止められたかのような気分にさせた。

 実際、止まっていたかもしれない。


 あからさまに硬直するローデリヒに、その女性は言うのだった。  


「君、一人なの?」


 金糸雀の囀りを思わせる、歌うような透明な声。

 その声に目を醒ましたローデリヒは、途切れ途切れながらも、自分が学生であり、博士に連れられ半ば無理やりジャケットを羽織ったこと。

 皆の輪に馴染めず一人で食事をする羽目になっていることを話す。

 すると、コロコロと彼女は笑ったのだった。


「あらまぁ。

 見ない顔だと思ったら、大変な目に遭っていたのね。ふふ」


「まぁ、そうですね。

 ははは……」


 頬を指で引っ掻き、照れ隠しに目をそらす。

 微笑む彼女は胸が裂けるほどに魅力的であった。

 そのせいだろう。どうにも直視できない。

 まるで、童話から飛び出してきた姫君のようである。


「あの、」


 ご趣味はなんでしょうか。

 そう他愛ない話題を振ろうとした瞬間だった。


「やあ、ヘレネ。

 他に紹介したい奴がいるんだが……」


 遠くで、壮年の男がこちらに向かって声をかける。

 どうやら、彼女の知り合いであるようだった。

 親しげに声をかける姿に、一抹の羨ましさを覚える。


「はい、今行きます。

 じゃあね、またあとでお話しましょう」


「は、はい……! その、あの、」


 手を伸ばし、緊張のあまりローデリヒは下をもたつかせる。

 不思議そうに見つめる彼女に尋ねた。


「お、お名前は……」


 彼女は「ああ!」と手を合わせ、満面の笑みでいうのだった。


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