第2話
「ごめんなさいねぇ。あの子、なかなかそういうこと言わないから。
肝を冷やしてしまったでしょうに」
透明な、それでいて芯のある美声。
ハイノとよく似た容姿を持つ彼女の名は、ヘレネ・ヴァイスコップ。
この研究所を支配するヴァイスコップ姉弟の片割れ。ハイノの双子の姉である。
傲慢極まりない弟とは全く違う、心優しい聖母のような女性だ。
声や心だけでなく、浮かべる微笑みすら美しい。
まさに、理想の具現とも言える素晴らしい女性である。
「あ、いいえ。
もう慣れましたから……これでも、三年目ですよ、俺」
「ああ、そうね。
来月で三年。
三年。
随分と長い年月がたったわ。ねぇ、ハイノ」
「興味ない。
こんな力仕事しか能のない助手擬きなんて、いてもいなくても変わらないさ」
「まぁ、お姉ちゃん。
貴方をこんな弟に育てた覚えはありませんよ」
その言葉にハイノは舌打ちをし、ペンを動かす手を止める。
豆だらけの指を差し向けた。
「うるさいなぁ。
姉さんの頼みがなかったらお前なんてとうの昔に追い出していたんだからな」
「沢山いいこともあったのに。
冷たい弟ね」
呆れたように肩をすくめる姉にあからさまな悪態をつき、ハイノは顔を歪める。
そして机に向き直り、万年筆で紙面を引っ掻くのだった。
ヘレネはすっかり辟易したように肩をすくめる。
「ごめんなさいね。
うちの子、論文の執筆でカリカリしてるの。
心もカリカリ、紙の上にもカリカリ」
いえ、いいんです。
とローデリヒは愛想笑いをした。
どんなに苛立つことがあったとしても、ヘレネが近くにいるだけで、鈴の声を聴いているだけで、もう正直なんだって許せる。
むしろ、天国のようだと感じる。
だが、不意に思い当たった。
今かの博士が必死になって書いている論文。提出する学会が無ければ意味がないのでは?
道楽者の多いパトロンが、ハイノの堅苦しい論文を読み込んだのだろうか。
違和感すら覚える。
そう思いへレネに尋ねてみると、黒檀の髪を揺らし首を傾げた。
「どうやらね、アテがあるらしいの
。言っていたでしょう、新しいパトロン。
その人に渡すんですって」
知っているんですか?
思わずでたローデリヒの疑問に、へレネは小さく声をひそめ、薄い唇で呟いた。
アレキサンドリア、だって。
「アレキサンドリア⁉︎」
ローデリヒは思わず素っ頓狂な声をあげる。
ヘレネは頷くが、その表情はどこか憂いを帯びていた。
それもそのはず。この地域、いわゆるゲルマン民族の住まう地域は、前述した戦争の影響で、何百年も前からアレキサンドリアからの交流を断絶させられていた。
その歴史は深く一桁世紀の時代まで遡るとか。
歴史学に興味のないローデリヒの知識はこの程度だ。
『ドイツの研究者は、過去の歴史からアレキサンドリアと険悪な関係にある』ただそれだけを把握している。
彼のような疎い者であっても知っている、これは列記とした事実なのだ。
噂によれば、当国の研究機関に属しているだけで、彼らからは凄惨な目で見られるとか何とか。
「なぜ、ハイノさんはアレキサンドリアに。
自国の学会に提出するのが、この国で学問を学んだものとしての責務でしょう」
「その辺は、どうにもわからないわ。
私も詳しくないもの。
でも、あの子にも考えがあるはず。
それだけはわかる。
間違いないの。
だから、今は見守っておきましょう。ね?」
「…………」
ローデリヒは返事をする気にはなれなかった。
不可解だ、あまりにも不可解だ。
かの研究者に貢献と言う言葉はないのか、恩という言葉を知らぬのか。
「ごめんなさい。
いつも振り回してしまって」
「謝らないでください、ヘレネさん。
俺はこの身をお二人とその研究に投じると、ここに来る時に決めていましたから」
「ローデリヒくん」
彼の言葉に安堵したのだろう。
ヘレネは穏やかに微笑み、強張っていた表情を崩した。
その様は、まるで大輪の花が綻ぶようだ。
美しい。
福音の具現だ。
思わずローデリヒは見惚れてしまう。
「ありがとう。
貴方がいてくれて、本当によかったわ」
「いえ、お礼を言われるまでも。
俺も自分の目的があって、お世話になっているので」
「優しいのね、君は本当に……」
白い手が伸び、ローデリヒの頭を撫でる。
暖かい、滑らかだ。そして、心地いい。
「は、え……」
「いい子いい子。
ふふ。
君といると、弟がまた一人増えたような気分になるわ」
「はは、弟、ですか、」
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