残響、ソラリスの涯てで

火之元 ノヒト

残響、ソラリスの涯てで

​【第一楽章:最強のデュオ】


 ​スタインウェイの黒い躯体から放たれた音は、色を持っていた。


 ​月代湊の指が鍵盤の上を滑るたび、一条凪の網膜には鮮やかな色彩が咲き乱れる。冒頭のアダージョは深い海の底のような群青。続くプレストは、夜明けの空を切り裂く金色の閃光。そしてクライマックスのフォルティッシモは、燃え盛る恒星の深紅。


 ​ここは国立ソラリス音楽学院、第ホール。湊が弾いているのは、凪が昨夜書き殴った新曲『黎明のプロメテウス』。常人には理解不能な和音と、人間の指の限界を試すような超絶技巧が詰め込まれた、無茶苦茶な楽譜。それを世界でただ一人、完璧に解釈し、具現化できるのが湊だった。


 ​最後の一音がホールに響き渡り、やがて完全な静寂が訪れる。満席の聴衆は、まるで魔法から醒めやらぬように、一瞬の沈黙の後、割れんばかりの拍手を送った。


​「ブラボー!」


 ​鳴り止まない喝采の中、湊は静かに立ち上がって一礼する。凪は客席の最前列で、腕を組みながら満足げに口角を上げていた。


​「どうだ、俺の曲は。最強だろ」


 ​舞台袖で合流するなり、凪は湊の肩を力強く叩いた。汗で湿った湊の背中からは、まだ熱気が立ち上っている。


​「曲じゃない、僕の演奏が、だろ」


「へえ、言うじゃん。お前の指は、俺の音を一番綺麗に鳴らすための最高の楽器だからな」


 ​悪びれもなく言い放つ凪に、湊は苦笑を返す。これが二人の日常だった。


 ​音を色として捉える共感覚者、一条凪。楽譜も理論も飛び越え、脳内に溢れる色彩を五線譜に叩きつけるだけで、誰も聴いたことのない音楽を生み出す天賦の才。


 その音を完璧に理解し、血の滲むような努力で培った技術で現実の音へと変える秀才、月代湊。


 ​学院の寮で同室の二人は、生活のほとんどを共にしていた。凪が夜中に閃いたメロディを叩き起こされて聴かされ、湊がそれを朝までかかって楽譜に起こす。凪が散らかした部屋を湊が黙って片付け、湊が練習で疲れ果てていると、凪がどこからか買ってきた栄養ドリンクを無造作に差し出す。


 ​互いが互いの半身であるかのように、二人の世界は完璧に調和していた。


「二人でいれば、宇宙の果てにだって行ける」


 いつか凪が言ったその言葉を、湊も本気で信じていた。この男の隣にいれば、自分はどこまでも高く飛べると。


 ​ある夜、凪がまた新しい曲を書いていた。湊がベッドで譜面を読んでいると、凪のペンが止まり、不意に窓の外を見た。


「なあ、湊。俺の音ってさ、時々、世界を震わせる気がしないか?」


「大袈裟だな。まあ、聴衆の心は震わせているんじゃないか」


「それだけじゃねえよ」


 凪はそう言うと、ピアノの前に座り、一つの和音を強く鳴らした。ポーン、と澄んだ音が響いた瞬間、窓際のウォーターグラスがカタカタと微かに揺れ、水面に小さな波紋が広がった。


 ​湊は息を呑んだ。共鳴、と言ってしまえばそれまでだが、凪の音には時折、こうした科学では説明のつかない現象が伴った。学院に古くから伝わる「プライマル・サウンド」の伝説。聴く者の魂を根源から揺さぶり、世界すら変えるという究極の音。凪の奏でる色彩は、その片鱗を宿しているのかもしれない。


 ​「すげえだろ」と、凪は悪戯っぽく笑う。湊は凪の隣に座り、同じ鍵盤にそっと指を乗せた。


「ああ。君は本当に、すごいよ」


 その言葉に、嘘は一欠片もなかった。この時はまだ。



​【第二楽章:不協和音】


 ​転機は、国内で最も権威ある「全日本音楽コンクール」で訪れた。


 ​伝統と格式を重んじるその舞台で、二人が披露した『黎明のプロメテウス』は、一種の事件だった。あまりに革新的で、感情の奔流そのもののような演奏は、若い聴衆の一部を熱狂させたが、審査員たちの表情は最後まで硬いままだった。


 ​結果は、落選。


 講評で、審査委員長を務める老大家は、マイクを通して冷ややかに言い放った。


「奇をてらっただけの自己満足。音楽への冒涜ですらある。若者はまず、先人への敬意と基礎を学ぶべきだ」


 ​楽屋に戻った湊は、全身の力が抜けていくのを感じた。自分の積み上げてきたもの全てが、権威という名の壁に叩きつけられ、無価値だと断じられたような無力感。血の滲むような練習の日々が、頭の中でガラガラと崩れていく。


 ​しかし、隣にいる凪は、けろりとした顔で鼻で笑った。


「だっせえジジイだな。見る目もねえくせに偉そうに。ま、凡人には俺の音楽は早すぎたってことだろ」


 そのあまりに無頓着な態度が、湊の神経を逆撫でした。


「……本気で言ってるのか」


「あ? 当たり前だろ。あんな奴らの評価で、俺たちの音楽の価値が変わるかよ」


「僕たちの、じゃない。君の音楽だ。僕はただの演奏者だ」


 棘のある湊の言葉に、凪は初めて少し驚いた顔をした。


「何言ってんだよ、湊。お前がいて、初めて俺の曲は完成するんだろ。俺たち、二人で最強じゃねえか」


 ​その言葉が、今の湊にはひどく空虚に響いた。


 最強? 負けたのに?


 凪は傷ついていない。彼の才能は、世間の評価などという物差しでは測れない高みに、最初から存在しているからだ。だが、努力でそこへ這い上がろうとしてきた湊は違う。評価されなければ、彼の努力は存在しないのと同じだった。


 ​決定的な亀裂は、その数日後に訪れた。


 学院のロビーで、偶然視察に来ていた世界的な指揮者、マエストロ・ヴェルナーが、凪が遊び半分で弾いていた即興曲に足を止めたのだ。


「素晴らしい……! この荒削りな輝き、まさに新しい時代の音だ!」


 ヴェルナーは凪の才能を絶賛し、その場で海外の音楽祭への招待を約束した。コンクールで凪たちを酷評した審査員たちが、慌ててヴェルナーに追従して凪を褒めそやす。手のひらを返したような光景に、湊は吐き気を覚えた。


​「やったな、凪! すごいじゃないか!」


 湊は笑顔で祝福の言葉を口にした。だが、その胸の内では、暗く冷たい感情が渦巻いていた。焦がれるような羨望と、醜い嫉妬。


 ​なぜ、君なんだ。


 僕は何年も、来る日も来る日も指が動かなくなるまで練習してきた。それなのに、君はいつもそうだ。まるで息をするように音楽を生み出し、いとも簡単に世界に認められる。


 僕の努力は、君の才能の前では、一体何の意味がある?


 ​凪の「やっぱり俺たち、最強だな!」という無邪気な声が、湊の心を深く抉った。


 その日から、湊の世界から少しずつ、音が色を失っていった。


 ​そんな湊の心の隙間に入り込んできたのは、学院の主流派から外れた、一部の過激な思想を持つ生徒たちのグループだった。


「月代くん、君ほどの才能が、腐った権威に潰されるのを見るのは忍びない」


 リーダー格の男は言った。


「今の音楽界は死んでいる。本物の音楽だけが、この停滞した世界を浄化できる。我々と一緒に、真の芸術革命を起こさないか?」


 彼らの語る理想は歪んでいた。しかし、権威に否定され、凪への嫉妬に苛まれていた湊の耳には、それが抗いがたい魅力を持つ福音のように聞こえたのだった。



​【第三楽章:決別のアダージョ】


 ​湊は変わった。


 凪が新しい曲を書いても、「気分が乗らない」と言って弾こうとしない。学院の公式な演奏会を「くだらない馴れ合いだ」と公然と批判するようになった。寮の部屋にいる時間も減り、凪の知らない仲間たちと過ごすことが増えた。


 ​凪は戸惑っていた。自分の半身が、見知らぬ誰かに奪われていくような感覚。何が起きているのか、何度尋ねても、湊は曖昧に笑うだけではぐらかす。


 ​ある嵐の夜、ついに凪は我慢の限界に達した。深夜、レッスン室で一人、例のグループの思想的な曲を練習している湊を見つけ、ドアを乱暴に開けた。


「湊! いい加減にしろよ! 最近のお前、一体どうしちまったんだよ!」


 ​ピアノの音が止まる。湊はゆっくりと凪の方を振り返った。その目は、凪の知らない光を宿していた。静かで、どこか狂信的な光を。


「どうもしないさ。僕はただ、僕の信じる音楽を見つけたいだけだ」


「お前の信じる音楽ってのは、あんな独りよがりの不協和音か!? 俺たちの音楽はどうなるんだよ! お前のピアノがないと、俺の音は──」


 ​凪の悲痛な叫びに、湊はふっと寂しそうに微笑んだ。


「……君は光だ、凪。あまりに眩しすぎる。その光は時に、すぐ隣にあるものを焼き尽くすことに気づかない」


「何の話だよ……」


「僕はもう、君の隣で影でいるのはごめんだ」


 ​湊はピアノの蓋を静かに閉じた。その仕草が、永遠の別れを告げているように見えた。


「僕は学院を辞める。そして、僕たちのやり方で、本物の音楽を世界に届ける。腐った世界を、僕たちの音で浄化するんだ」


 ​その言葉に、凪は絶句した。


 浄化? それは、コンクールの審査員たちや、自分たちの音楽を理解しなかった者たちへの復讐か?


​「待てよ、湊! 行くな! そんなの間違ってる!」


 凪は部屋を出ていこうとする湊の腕を掴んだ。しかし、湊はその手を強く振り払った。かつて凪の作る複雑なメロディを、誰よりも優雅になぞったその指が、今は凪を拒絶していた。


​「離してくれ、一条くん」


 湊は凪を、初めて聞くような冷たい声で、苗字で呼んだ。


「もう君の音は聴きたくない」


 ​その一言は、鋭い刃物となって凪の心を突き刺した。


 世界で一番、自分の音を愛してくれていたはずの男からの、完全な拒絶。


 レッスン室の扉が閉まり、湊の足音が遠ざかっていく。凪は呆然と、その場に立ち尽くすしかなかった。窓を叩く激しい雨音が、かつて二人が奏でた完璧なユニゾンを嘲笑っているかのようだった。


 ​最強だった二人の世界が、完全に引き裂かれた瞬間だった。



​【終楽章:独奏と残響】


 ​数ヶ月後。月代湊は、宣言通り国立ソラリス音楽学院を自主退学し、その消息は途絶えた。


 一条凪は、学院に残った。相変わらず天才的な曲を書き続けたが、彼の曲を完璧に弾きこなせるピアニストは、もうどこにもいなかった。何人もの優秀な奏者が挑んでは、その複雑さと魂の要求する熱量についていけず、匙を投げた。


 ​凪の音楽から、鮮やかな色彩が消えた。それはまるで、光を失ったプリズムのように、虚ろで、どこか欠けている音だった。片翼を失った天才は、孤独な独奏者になった。


 ​ある雨の日。凪は目的もなく街を彷徨っていた。カフェの軒先で雨宿りをしていると、店内のスピーカーから、あるピアノ曲が流れてきた。アンダーグラウンドなネットラジオのようだった。


 音質は悪い。ピアノも調律が狂っている。だが、その音は紛れもなく――湊の音だった。


 弾いているのは、二人がまだ「最強」だった頃に作った、名前もない小さなワルツ。


 ​演奏は荒削りだった。憎しみや怒り、そして深い悲しみが音に滲んでいる。それでも、その指が紡ぐメロディの奥には、確かに音楽への愛が息づいていた。湊が、彼の信じる場所で、彼の音楽を続けていることを、凪は知った。


 ​凪はカフェを離れ、冷たい雨が降りしきる空を見上げた。


 湊はもう隣にいない。あの完璧な調和も、二人で見た色彩も、二度と戻ってはこない。


 それでも、心の中には、あのどうしようもなく眩しかった日々の残響が、確かに鳴り続けていた。


​「……最強、だったのにな」


 ​ぽつりと零れた言葉は、灰色の街の喧騒に溶けて消えた。


 それぞれの孤独な未来が、静かに始まろうとしていた。

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