第2話 2つのノート

読みかけのノートの上に、心愛の指先が震えていた。

「ミライ」と記されたその古びたノートは、まるで未来を見透かすように、心愛の心を揺さぶる言葉を次々と突きつけてくる。


ページを一枚めくるたび、知らない自分がそこにいた。

まるで誰かの物語の登場人物になったような感覚。


「……彼に出会った瞬間、運命が動き出す……?」


心愛は小さく読み上げた。自分の声が、どこか遠くから聞こえてくるような錯覚に陥る。


「……その先にあるのは恋じゃない。選択だ……?」


言葉の意味を探るように目を細めたとき、ふと視線がページの隅に引っかかった。


そこには、かすれた文字でこう書かれていた。


「――過去を知れば、未来は変わる。」




心愛は、その言葉の意味を咀嚼することができなかった。

思考が、現実と非現実の境界で宙ぶらりんになる。


そのとき、不意にテレビから声が聞こえてきた。


「――そのホストの名は、山之口 悠輝。

圧倒的なカリスマと笑顔で、誰もが心を許してしまう男。」




ニュース番組の特集コーナー。画面には、黒髪を整えたスーツ姿の男が映っていた。

上品な笑み。芯のある瞳。どこか嘘がないように見えるのに、全てが演出にも感じられる――不思議な男だった。


「……この人が、“悠輝”……?」


心愛の声は、誰に向けるでもなく、ただ呟きとなって空間に溶けていった。


店内の喧騒から少し離れた静かな控室。

革張りの椅子に腰を下ろし、山之口悠輝は静かに一冊の黒いノートを開いた。


表紙には「カコ」。

その中には、脚本のように、誰かの行動や感情が丁寧に記されていた。


「……彼女は今日、ノートを読み終える。次に起きるのは――」


そこで読み上げるのをやめ、悠輝はページをそっと閉じた。目を閉じ、少しだけ深く呼吸をする。


『これが“運命”だとするなら、それを変えるには……“彼女”が必要だ。』




言葉には出さず、心の中でその言葉を繰り返す。

彼は、未来を知っている。

けれど、“変えたい”と願うことが、いつから始まったのかは――もう思い出せなかった。


晴れた空。けれど、心愛の心には、昨日から重たい影が残っていた。

笑顔を絶やさず子どもたちと接しながらも、何かが上の空だった。


「屋野先生、なんか元気ないですね。何かあったんですか?」


声をかけてきたのは、先輩の手賀。

彼の優しいまなざしに、心愛は一瞬だけ本音を見せそうになった。


「あ……いえ、ちょっと、変な夢を見ちゃって。」


夢――そう言い訳をしてみる。あのノートのことを話すには、現実感がなさすぎた。


「……無理しないでくださいね。屋野先生、いつも頑張りすぎるから。」


その言葉が、思いのほか優しくて、心愛は少し戸惑った。


「ありがとうございます、大丈夫です。」


微笑みで返す。それはいつもの心愛。けれど、内側では、何かが確実に揺れていた。


きらびやかなネオンが、人々の孤独をかき消すように瞬く夜。

心愛は一人、ホストクラブ『GLORIA』の前に立っていた。


手には「ミライ」のノート。ぎゅっと力が入る。

足がすくみ、扉に手をかけることができない。


『こんな場所に来るなんて、私らしくない。

けど……このままじゃ、ダメな気がして。』




胸の奥から、そんな声が聞こえた瞬間――


「初めてですか? ホストクラブ。」


穏やかな声が背後から届いた。

振り返った先にいたのは、テレビで見たそのままの男――悠輝だった。


スーツ姿。笑みは柔らかく、どこか包み込むような気配を漂わせている。


「……あなたは……」


「悠輝。ここのホストやってる。」


その瞳が、まっすぐに心愛を見つめていた。


ふたりの視線が交差する。

時間が一瞬、静止する。街の喧騒さえ遠のいていくような感覚。


『これが、“ミライ”に書かれていた出会い。

だけど――』




心愛は、自分の運命が今動き出したのだと、無意識に悟っていた。


夜風が静かに髪を揺らす。

屋上でひとり、悠輝は空を見上げていた。


ポケットから黒いノート――「カコ」を取り出し、ページを開く。

そこには、また“誰かの人生”が、未来をなぞるように書かれていた。


『“カコ”に従えば、“ミライ”は同じ結末を繰り返すだけ。

けれど。彼女なら――変えられるかもしれない。』




そう思う根拠はない。ただ、直感だけがそう告げていた。

過去を、ただなぞるだけではいけない。

そのために、あの“出会い”はあったのだから。


風が吹き、ページがめくられていく。

一冊は「ミライ」、もう一冊は「カコ」。


ふたつのノートが、それぞれの運命を記していくように、空中で交差する。

どこかでリンクし、どこかでズレていく――けれど、決して無関係ではいられない。


画面の中、心愛の後ろ姿。

別の場面では、悠輝が夜の街を歩いている。


『これは、“未来”を選ぶ物語じゃない。

“過去”と向き合い、“未来”を変えるための選択――』




ふたつのページが、やがて静かに閉じられた。


そして、運命は、音もなく新しいページを開こうとしていた――。

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