ミライとカコ
VictimFrog.com
第1話 始まりのノート
屋野心愛は目覚まし時計のアラーム音に肩を揺らされた。
まだカーテンの隙間から差し込む朝の光は弱く、夏の気配が部屋をじわじわと包み込む前の、静かで冷たい時間帯。小さな寝息と、遠くで始まりつつある街の鼓動。
その中で、心愛は目を開けて天井を見上げた。
(――恋愛なんて、興味ない。ていうか、めんどくさい。そんなことより、子どもたちの笑顔の方がずっと大事。)
心の中で繰り返されるのは、何度も自分に言い聞かせてきた信条。
そう思っていれば、きっと惑わされずにいられる。誰かに期待することもないし、誰かの裏切りに泣くこともない。
ぐっと伸びをして、心愛はベッドから起き上がった。
鏡の前に立ち、歯を磨く。ブラシのリズムに合わせて、今日という一日が始まっていくのを感じながら、鏡越しに自分に微笑んだ。
「今日も頑張ろ。」
それは呪文のような、あるいはお守りのような言葉だった。
保育園の園庭には、朝の陽射しが降り注いでいた。
子どもたちの歓声が空へと舞い上がり、ブランコがきしむ音、砂場のバケツが転がる音、それぞれが賑やかに混ざり合う。
その中で、屋野心愛は白い帽子をかぶりながら、砂遊びに夢中な園児たちを見守っていた。
「屋野先生、今日も子どもたち……元気すぎですね。」
隣に並んだのは先輩保育士の手賀淳一。
やや長めの前髪を風に揺らしながら、どこか疲れたような、それでも柔らかい声で話しかけてくる。
「ですね。でも、それが一番ですよ。」
心愛は振り向かずに答えた。
手賀はその横顔をちらと見た。
(――今日も、変わらず優しい笑顔だな…。だけど、その笑顔の奥にあるものに、僕はまだ触れられていない。)
ほんの一瞬、空気が変わる。けれど、心愛はそんな視線に気づかぬふりをした。
夕暮れ時、保育園のロッカールーム。
仕事を終えた保育士たちが次々と帰っていくなか、心愛だけが静かにロッカーの中を整理していた。
制服から私服に着替え、バッグに手を伸ばしたとき――。
「……あれ?」
布の隙間から、何かが滑り落ちた。音もなく、ふわりと床に着地したそれは、一冊の古びたノートだった。
表紙に書かれていたのは、マジックペンで書かれた文字――「ミライ」。
「……ん? これ、私のじゃ……ない、よね?」
記憶をたどっても、こんなノートを自分が持っていた覚えはない。心愛はそっとしゃがみこみ、それを拾い上げた。
ノートは、どこか懐かしさのある紙の匂いをまとっていた。持ち主の手垢が染み込んでいるようで、重みさえ感じる。
夜、自宅の部屋。
時計の針は20時を回っていた。
シャワーを浴びて夕食を簡単に済ませた後、心愛はリビングのローテーブルに座り込み、さきほどのノートを静かに開いた。
最初のページには、整った字でこう書かれていた。
『これは、未来のあなたが書いた日記です。』
「……は?」
思わず声が漏れる。冗談のようで、冗談に思えない何か。
ページをめくるたびに、どこか自分の筆跡に似た文字が、淡々と恋の記録を綴っていた。
「山之口 悠輝」「歌舞伎町」「初めてのキス」――
心愛の知らない、でも、どこか“自分の記憶”のような言葉たちが並んでいる。
「……誰? 悠輝って……ホスト?」
苦笑しそうになった口元が、ふと止まる。
ページを繰る指先が、わずかに震えていた。
( ――恋愛なんて興味ないはずだったのに。なのに、これを読んでる私は……なにを期待してるの?)
ノートを閉じることができなかった。
心愛は、知らず知らずのうちに、自分の“知らない未来”を追いかけ始めていた。
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