心跳ねたら恋せよ人魚

山田ねむり

心跳ねたら恋せよ人魚

 ――僕は偶然、話題の転校生の秘密を知ってしまった。


「それは……、ウロコ?」


 二人っきりの生物準備室。

 鼻に香るは、初夏と埃と印刷したてのインクの匂い。映る景色は、セーラー服のスカートから覗く色白の素足。目の前の椅子に座る彼女が足先を水槽に沈めていた。


 いや、泳いでいるような、浮いているような。

 どう表現すれば良いのか分からない。


 まるで彼女は、人魚みたいだった……。


 それだけなら見惚れるだけで手に持っていた資料を床にぶち撒けたりしなくて済んだだろう。


「だ、大丈夫、ですか?」


 惚ける僕を他所に、慌てる彼女は濡れたままの足先を地面に付け、駆け寄る。彼女の脚は二本。ちゃんと人間だ。でも人間ではない所が目立って見えた。


「これは、その……。」


 窓越しの太陽光で色を変える複数のウロコが彼女の足先から膝下の辺りまで、幾つも張り付いている。何度眼を擦っても、間違いなく彼女の脚にはウロコが生えていた。

 

 釘付けになっている僕に、彼女は床に落ちた資料を拾い上げこちらに渡す。


「ごめんさない。気持ち悪いでしょ?」

「……。」


 渡された資料。

 それでも目が追うのは彼女の脚だ。


 その視線に気が付いたのか、彼女は空いた手で自分の脚を隠すとまた「ごめんなさい」と呟いて頭を垂れた。


「違うっ! 違うんだ……。」


 自分でも熱が込み上げてくるのが分かる。

 これはきっと夏の暑さのせい。


 太陽みたく赤に染まった僕と、青白く血の気の引いてしまった彼女。二人の間を通る空気は重く海水のように塩っぱくて口を開けやしない。 

 

 それでも、この状況を打破するには溺れ死を覚悟で口を開かなくては。潤む彼女の瞳は、蒼く優しい波のように僕の言葉を待っていた。


「君の脚、とっても綺麗。そう、言いたかったんだ。」

 

 口に出したのは良かったけれど、なんとなく照れくさくって顔を伏せてしまった。

 今思えば、この日の出来事が平凡な僕の人生を特別なものに変えたのだろう。


 


 小さな港町には、海に関する言い伝えや伝承がある事が多い。それは僕の住むこの町も例外じゃない。この地に生まれ育った者なら一度は聞く昔話があった。


 それが『人魚のウロコ伝説』だ。


 よくある作り話の昔話さ。

 そう思っていた。

 

 海に落ちた男を助けた人魚は、その男に恋をした。恋仲になった男と一緒になる為に、人魚は命を半分削って陸に上がる事を決心をする。そうして二人は、海辺の家で愛を育んだが当然、人魚が先に天へと召された。


 死の淵で人魚は「生まれ変わっても必ず貴方に会いに行くから」と言い、自身の脚に残っていた美しいウロコを男に渡し目印とした。以来、この港町では海岸でウロコを見つけたら幸せになれると信じられている。

 

「伝説の人魚は私のご先祖様らしいの。」


 彼女がそう言った。

 僕らが秘密を共有し始めて数日が経った頃。

 放課後は生物準備室で話をする様になっていた。

 

 話の内容は他人に言えない僕と彼女だけの人魚の話。

 

「でも君は、この町に越して来たばかりの転校生だろ?」


 僕の質問に彼女はため息混じりで「昔話の嫌な所は、その後の子孫達が描かれていない所ね」と呟いた。


「ウロコをね、欲しがる人が多かったらしいの。だから先祖は安住の地を探して旅をして、そうして静かに時間が過ぎるのを待ったの。」


 色素の薄い彼女は夏が苦手らしい。

 一日に数時間、海水に脚を付けていないと倒れてしまう。暑すぎて上手く呼吸が出来なくなるそうだ。

 

「人魚らしくて大変だね」と言ったら彼女は、ひんやりと冷たい手を僕の手のひらに乗せて「君は人間らしく汗を垂らして大変だね」と笑った。

 

「ここは私のご先祖様が住んでいた場所でね。一度でいいから来てみたかったんだ。」


 窓から見える海を眺めて彼女は想いを馳せる。

 放課後の学校は、部活に邁進する生徒の声と蝉の鳴き声で溢れているのに、僕には彼女の声しか聞こえない。


 それは彼女が人魚の末裔だから。

 きっとそうだ。

 彼女は僕を惑わす。


「ねぇ……。今晩、二人で昔話に出てくる海辺の家に行ってみない?」


 乗せられた手から心臓の鼓動まで伝わってしまいそうで、僕は二つ返事で頷いて手を離した。


 彼女はとても不思議な人なんだ。

 人魚の血が入っているからと言われればそれまでなのだけど。

 

 亜麻色の髪に海を思わせる深い青の瞳。

 日本人離れした容姿から纏う雰囲気は甘く冷たくて、他を寄せ付けない高嶺の花だった。


 クラスの皆が声を掛けるのを躊躇うほど、近寄り難い。誰に言い寄られても媚びないし、決して笑顔を見せない。そんな彼女は僕と喋る時だけ、笑みを溢す。


 なんで僕だけ……?

 期待しても、いいの……?


 僕の心は濁流に飲み込まれている。

 たったの数日で彼女に狂わされた。


 この気持ちを認めて声に出してしまったら、彼女は笑わなくなってしまうかも知れない。


 ――でも、僕は……。

 

 グッと手に力を入れて、今晩の待ち合わせで彼女に想いを伝えようと心に決めた。


「ごめんね、待った……?」


 待ち合わせの砂浜に、小波の音と混じる愛らしい声が響いた。振り返ろうとした僕の瞳を小さな手が遮った。


「ごめんね。そのままで、聴いて?」


 微かに震える手と声。

 間違いなく彼女だ。

 海水の匂いと彼女のシャンプーの香りが鼻をくすぐる。


「分かったよ。このまま、目を閉じてるから。」


 僕と彼女しかしない夜の砂浜。

 街灯なんてない。

 どうせ目を開けた所で何も見えやしないのに。

 そう思うと少し笑えた。


「今日の話の続きなのだけど、私のご先祖様の話でね、旅をしたって言ったでしょ。どこに行ったと思う?」


 彼女の問いに首を横に傾げだ。

 僕ならどうするだろうか?

 

 ウロコを欲しがる人々から逃げるならやっぱり海が無いところへ行くと思う。人魚なんて信じていなさそうな内陸へ。


「違う。その逆よ。」


 彼女の凍りつきそうな低い声が海辺に響いた。

 

「私達の祖先は海へ逃げたの。」


 思わぬ答えに声が喉に詰まる。


「私達は人魚に戻る事にしたのよ。海の中でひっそりと暮らす事を選んだの。」


 思わず開いた瞳の前に、彼女はいた。

 寄せては返す波打ち際に立つ彼女の表現は、暗くてよく見えない。あと少し雲が動いてくれたなら月明かりが彼女を照らしてくれただろうに。


「あの時、本当はね。わざと貴方に脚を見せたの。」


 思わず驚きの声を上げた。

 

「どうせ気持ち悪いって言われると思って。」


 そんな事、言うはずがないのに。

 彼女の寂しそうな声を聞くと、声が出てこない。

 

「私の知ってる人間はね、心底気持ちが悪いって顔をして、苦笑いして。それでも、ウロコだけは欲しがるの。」


 暗い海と同化した君は今、どんな顔をしているの?

 

 触れたいのに、声を掛けたいのに。

 これ以上近づけば彼女が泡になってしまいそうで怖かった。


 お願いだ。

 雲に隠れた三日月よ、彼女を照らしてくれ。

 僕に出来るのはそう祈るぐらい。

 もどかしさが、胸を焼く。


「場所がね、分からなかったの。人魚を愛した男が過ごした港町が。色んな所へ行って、その度に傷ついて。削った寿命も尽きるから、もう辞めようと思った最後の町で、君に出会ってしまった。」


 ふと、人魚伝説が脳裏によぎった。

 

 人魚は陸に上がるため、自身の半分の命を削って尾鰭を人間の脚にかえたのだ。もう二度と、人魚には戻れないと知っていながら……。

 

「君になんか会わなきゃよかった。海が私の家なのに、どうしてこんな脚で、陸で、君と過ごしたいと思ってしまうのよ。君になんか……。」


 泣き叫ぶ彼女をたまらず胸に抱いた。


「好きだよ。僕は、君が好きだ。」


 出会わなければ良かったなんて言わないで。

 

「君は、僕を嫌いかも知れないけど。僕は君が大好きだ。」


 三日月よ、もう僕らを照らさなくていい。

 僕ら二人の世界をどうか見つけないくれ。

 彼女を、連れて行かないで……。


「何処にも行かないで欲しい。僕と陸でさ、一緒に暮らそう?」


 教室の窓際に座る君は、いつも遠い目をしていた。薄々気がついてたよ、君は人が嫌いなんだって。


「僕、働くから。学校も辞めて、こんな小さな港町を出て君の好きな所で暮らそう?」


 生物準備室で見る君の脚に生えるウロコがどんどん多くなっているのを、君は隠していたんでしょう?


「君がいつか、僕を好きになってくれる日まで、待ってるから。」


 僕の気持ちは変わらないから。

 ずっとずっと、君を想うから。


「僕は大馬鹿者だけど、一途に君を愛せる有料物件さ。買っておいて損はないよ?」


 冗談混じりで笑い掛けると、釣られて彼女も笑った。今更、雲から顔を出した三日月が、神秘的に彼女の姿を演出し始める。


 亜麻色の髪は潮風と相まってキラキラと輝きを増し、深い海の瞳は晴天を思わせる澄み切った水色に。海水に浸かる彼女の脚はウロコが銀色に光を放っていて。


 その全てが彼女を海の妖精と思わせた。


「ねぇ、昔話を信じてる?」


 彼女の問いに強く頷く。

 

「いつまでも待っていてくれる?」


 言葉の代わりに最初で最後のキスを彼女に贈った。


 甘くて塩っぱい海の味。

 彼女の身体はひんやりと冷たくて、そんな所が最後まで君らしい。


「必ず貴方に、会いに行くわ。」


 そう言うと、彼女は自身の脚から一枚のウロコをちぎり僕の手のひらに置いた。

 

 別れを惜しむようにもう一度強く抱きしめると、小さく「愛してる」と言葉を返ってきた。僕も君の肩に顔を埋めながら「愛してる」と囁いた。


 本当は大声で叫びたかったけど、海に攫われて小声にしかなからなかったんだ。


「そんな所も君らしいね……。」


 彼女は満面の笑みを浮かべ、月夜の海に消えた――。

 


 あの晩の事を僕は、昨日の事の様に覚えている。彼女と別れてもう二十年が経つと言うのに。海辺の小さな家で、今日も海を見つめて君の帰りを待っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

心跳ねたら恋せよ人魚 山田ねむり @nemuri-yamada

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ