第14話 赤色の告白
あの夜の出来事は、三者の関係性に、修復不可能な、しかし決定的な変化をもたらした。黒羽研究ラボでの絶対的な危機と、シノンの予期せぬ介入。それは、三人の間にこれまで存在した見えない壁を、静かに、だが確実に破壊したのだ。
次に屋上に集った時、空気は以前とは全く異なっていた。
夕焼けが、空と雲を、まるで激情をぶちまけたかのように、鮮烈な赤色に染め上げている。その光は、これまでこの場所を支配していた静謐さとは相容れない、激しい情熱と変化の予感を孕んでいた。
エミルは、安堵していた。ルカが無事だったこと、そして、自分たちを縛っていた黒羽家の脅威を、シノンが退けてくれたこと。その安堵は、彼女の心に温かい光を灯した。だが同時に、その光の隣には、小さな影が落ちていた。あの日、ルカはシノンに守られた。自分ではなく、ルカが。その事実は、エミルの胸の奥に、チクリとした微かな痛みを残していた。それは、彼女がまだ名前を知らない、焦燥という名の感情だった。
シノンは、いつもと同じように紅茶を淹れていた。だが、その横顔を照らす夕日の赤色は、彼女のガラス玉のような瞳の奥に、これまで見えなかった人間的な深みを与えているように見えた。玄真に「個人的な感情」を指摘された時の一瞬の揺らぎ。あの時、確かに砕けた理性の鎧の破片が、今も彼女の内側で静かに光っている。
そして、ルカ。
彼女は、黙り込んでいた。いつものように挑発的な言葉を発することもなく、ただじっと、自分の手の中にある紅茶のカップを見つめている。黒い手袋に覆われた指先。他者との断絶を象徴していたはずのその手袋が、今はただ、彼女の内に渦巻く混乱を隠すための、か弱い盾のように見えた。
沈黙を破ったのは、そのルカだった。
「…別に」
彼女は、誰に言うでもなく、呟いた。
「礼なんて、言ってないわよ」
その声は、ぶっきらぼうで、拗ねた子供のようだった。だが、その言葉とは裏腹に、彼女の視線はシノンへと向けられている。ありがとう。その一言が言えない、彼女の不器用なプライド。
シノンは、その視線を受け止めると、僅かに、本当に僅かに、唇の端を緩めた。それは微笑みと呼ぶにはあまりに微細な変化だったが、確かに肯定の形をしていた。
「ええ。聞こえませんでした」
その応答は、ルカのプライドを守るための、完璧な配慮だった。シノンは、ルカの言葉の裏にある本当の意味を理解した上で、それを聞かなかったことにしたのだ。それは、これまでの分析的な対応とは全く異なる、人間的な、あまりにも人間的なコミュニケーションだった。
ルカは、ぐっと唇を噛んだ。見透かされている。だが、それは以前感じたような、魂の裸を見られる恐怖ではなかった。むしろ、その全てを理解された上で、そっと受け入れられているような、未知の感覚。胸の奥が、熱くなる。
彼女は、衝動的に、立ち上がった。そして、屋上のフェンス際まで歩くと、眼下に広がる学院の景色を見下ろした。夕日が、彼女の黒いドレスの輪郭を、燃えるような赤で縁取っている。
「…壊すだけの自由は」
ルカは、背を向けたまま、吐露した。それは、誰に聞かせるともなく、自分自身に言い聞かせるための、独白だった。
「もう、退屈だって、思い始めてるのよ」
その言葉に、エミルは息を呑んだ。
ルカが変わろうとしている。彼女を縛り付けていた、破壊衝動という名の孤独の檻から、自らの意志で出ようとしている。それは、喜ぶべきことのはずだった。だが、エミルの胸の内に広がったのは、安堵よりも強い、焦燥感だった。
ルカが、先に進んでいく。シノンとの間に、自分が知らない繋がりを築いて、自分を置いて、どこかへ行ってしまう。
「この場所も」
ルカは、フェンスを掴む手に力を込めた。
「あのジジイどもから、ただ逃げるための隠れ家じゃなくて…」
彼女は、ゆっくりと振り返った。その瞳は、夕日の光を反射して、真紅に燃えているようだった。そして、その視線は、まっすぐにシノンを射抜いていた。
「…あの場所を、守るのも悪くない」
それは、彼女の不器用な感謝であり、そして、新たな決意の表明だった。
もう、他者を突き放すための力は要らない。壊すための自由は要らない。
この、奇妙で、居心地の良い、三人の関係性。この、夕焼けに染まる屋上という聖域。それを、自分の意志で「守りたい」。
彼女の魂が、初めて、他者との共存を求めて叫んだ瞬間だった。
シノンは、その告白を、ただ静かに受け止めていた。彼女の瞳は、ルカの内面で起きている劇的な変化を、正確に観測していた。データとしてではない。一つの魂が、自らの殻を破って生まれ変わろうとする、その尊いプロセスとして。
エミルは、二人の間に流れる、濃密な空気に耐えられなかった。
ルカが、シノンに認められている。自分よりも、深く。
自分は、ただ癒すことしかできない。シノンには、それも拒絶された。なのに、ルカは、シノンを変え、そしてシノンに認められている。
羨ましい。
その、黒く、醜い感情が、初めてエミルの心に芽生えた。
夕日は、その最後の光を放ち、地平線の向こうへと沈んでいった。世界は急速に、赤から紫へ、そして深い藍色へとその貌を変えていく。
三者の関係性もまた、この燃えるような赤色の告白を境に、もう二度と元には戻れない、新たな段階へと移行したのだ。
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