第8話 癒したいという衝動
共犯関係となってから、三度目のティータイム。
屋上の空気は、以前とは明らかにその質を変えていた。張り詰めていた緊張の糸は緩み、代わりに秘密を共有する者たち特有の、濃密で静かな一体感が漂っている。ルカは以前のようにフェンスに寄りかかることはせず、エミルの隣、シノンと向かい合う位置に座り、気怠げに足を組んでいた。
対話は、言葉少なに進んだ。シノンが提示する短い問いに、エミルとルカが自らの内面を観測し、感覚的な言葉で答える。それは、あの金色の嵐を再現するための、慎重な調律作業だった。
「あの瞬間の感覚を、色で表現するなら?」
「…金色、だけど、もっと透き通っていて…蜂蜜みたいな色」とエミル。
「黒よ。でも、何も見えない闇じゃなくて、全てが溶けている、温かい黒」とルカ。
シノンは、その矛盾した表現を、ただ静かに頷きながら端末に記録していく。彼女は、二人の感情が再びシンクロする一点を探っていた。だが、意図すればするほど、あの奇跡的な現象は指の間をすり抜けていくようだった。
エミルは、その対話の最中、ほとんど無意識に、自らの能力をシノンに向けていた。
これまでは、他者の負の感情、つまり「癒すべき傷」を探すために使ってきた力。だが、今は違う。シノンを知りたい。彼女のあのガラス玉のような瞳の奥で、何が起きているのか。彼女が観測している世界を、同じように感じてみたい。その純粋な興味が、エミルの意識をシノンへと集中させていた。
彼女の精神は、澄み切った湖面だ。エミルの意識がその表面に触れると、冷たく、そして完璧な静寂が返ってくる。感情の波紋ひとつない、絶対的な平坦。だが、注意深くその深淵を覗き込むと、エミルは気づいた。完璧に見えるその理性の結晶構造、その奥深くに、極めて微細な、髪の毛ほどの龜裂が走っているのを。
それは、疲労だった。
常人離れした思考活動を、休みなく続けることによる、精神的な構造疲労。膨大なデータを処理し、複数の勢力と対峙し、そして今、未知の領域へと足を踏み入れたことによる、極度の緊張。シノンの理性は、その負荷に耐えきれず、悲鳴を上げていたのだ。それは、痛みや悲しみといった、エミルがこれまで扱ってきたウェットな感情ではない。ただひたすらに張り詰め、今にも張り裂けそうになっている、乾いた張力だった。
衝動は、ほとんど反射的にやってきた。
―――癒したい。
この人の、この張り詰めた弦を、少しでも緩めてあげたい。この冷たい湖面に、一滴でも温かいものを注いであげたい。それは、彼女の存在価値そのものからくる、抗いがたい本能だった。
エミルは、自らの内側から、最も純粋で、最も温かい光のエネルギーを練り上げた。そして、それを祈りのような想いと共に、そっとシノンへと送る。それは、これまで幾度となく行ってきた、彼女の最も得意とする干渉だった。
だが。
その光は、シノンに届かなかった。
正確には、届いた瞬間に、霧散した。エミルの放った温かい感情エネルギーは、シノンの理性の城壁に触れた途端、まるで数学的にありえない数式がシステムによって棄却されるかのように、意味のないノイズとして処理され、消去されたのだ。
エミルの内側に、激しい動揺が走る。
初めての経験だった。彼女の癒しが、拒絶された。いや、拒絶ですらない。それは、存在しないものとして、完全に無視されたのだ。彼女の能力が、彼女の価値そのものが、この人の前では何の意味も持たない。その事実は、エミルの足元を揺るがす、静かな衝撃だった。
「…あの」
エミルは、思わず声を漏らした。
「貴女、疲れてる…のでしょう?」
その言葉に、ルカの唇の端が、面白そうに僅かに吊り上がったのを、シノンは見逃さなかった。シノンは、エミルが自分に対して干渉を試みたことを、もちろん正確に観測していた。そして、自らの精神がそれを自動的に無効化したことも。
「疲労は、継続的な活動によって生じる、正常な生理現象です」
シノンは、カップを口に運びながら、淡々と答えた。その声には、何の感情も含まれていない。
「観測されたデータの一つであり、特に問題視するべきものではありません」
「でも、辛いのでは…? 私が、少しでも…」
「感情は、分析の対象です」
シノンは、エミルの言葉を遮った。そのガラス玉のような瞳が、まっすぐにエミルを射抜く。
「癒しの対象ではありません。特に、観測者である私の感情は、実験結果に影響を与えかねない最も危険なノイズです。故に、常に制御され、客観視されなければならない。貴女の干渉は、その原則に反します」
それは、完璧な正論だった。そして、完璧な拒絶だった。
エミルの胸が、きゅっと締め付けられるように痛んだ。彼女の存在意義が、根底から揺さぶられる。癒すことができない相手。癒しを必要としない相手。そんな存在を前にして、自分はどうすればいいのか。どうやって、この人と繋がればいいのか。
初めて、エミルは自らの無力さを感じていた。
その様子を、ルカは黙って、しかし興味深そうに観察していた。聖女様の万能の力が、この氷の人形には通じない。なんという喜劇だろう。だが同時に、ルカはシノンへの興味をさらに深めていた。あれほどの精神干渉を、無意識レベルで完全に無効化するとは。その理性の壁は、一体どれほどの硬度を持っているのか。そして、その壁を、もし壊すことができたなら。
三者の間に、新たな、そしてより複雑な緊張関係が生まれる。
シノンに惹かれ、しかし自らの存在価値を否定され戸惑うエミル。
二人の関係性を面白がりながら、シノンという難攻不落の城をどう攻略しようかと目論むルカ。
そして、二人の感情の揺らぎを冷静に観測しながら、自らの内側に走る龜裂には気づかないふりを続ける、シノン。
紅茶の湯気が、三人の間で揺らめいていた。それはもはや、単なる境界の曖昧さの象徴ではない。三者三様の想いが交錯し、決して一つにはなれない、もどかしい距離そのものを、示しているようだった。
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