第2話 光の癒しと闇の挑発

光は、境界を溶かす。


白羽診療室は、常に柔らかな光で満たされている。シノンの研究室にあるような、全てを解析する無機質な白色光ではない。磨りガラスの窓から透過し、淡い色の壁紙に反射して飽和した、乳白色の光。それは世界の輪郭を優しくぼかし、人と人との間にある見えない壁を、そっと取り払うかのようだった。


その光の中心に、白羽エミルはいた。純白のワンピースを纏った彼女は、向かい合って座る被験者の男性に、静かに微笑みかけている。部屋には抑制された心拍計の電子音と、エミルが焚いたアロマポットから立ち上る、微かな柑橘系の香りのみが存在した。


「…もう、疲れたんです。何もかも…」


男性が、か細い声で呟く。彼は別の研究機関の職員で、過度の精神労働により感情エネルギーの出力が著しく低下していた。いわゆる、心の枯渇状態。その瞳には、光が届いていない。


エミルは何も言わず、ただ頷いた。そして、ゆっくりと両手を差し出す。その所作には、何の強制力もない。ただ、そこにある泉に手を浸すかのような、自然な誘いがあった。男性はためらいがちに、自らの手をエミルのそれに重ねる。


触れた瞬間、エミルの内側に、冷たく重い感情が流れ込んできた。それは澱のように黒く、ぬるりとした感触を伴っている。絶望、疲労、自己嫌悪。負の感情の奔流が、彼女という器を満たしていく。常人であれば、その圧力に耐えきれず精神が汚染されるだろう。だが、エミルは違う。彼女の身体は、その毒を浄化し、光のエネルギーへと変換するための、特殊な触媒として設計されていた。


胸の奥が、ずしりと重くなる。代わりに、男性の表情から険が消え、強張っていた肩の力が抜けていくのがわかった。彼の瞳に、微かな光が戻り始める。


「あ…あたたかい…」


男性の唇から、夢見るような声が漏れた。エミルは微笑みを深める。彼女が与えているのは、彼女自身の熱ではない。男性が失っていた、彼自身の感情の熱を、呼び覚ましているに過ぎない。他者の癒しに貢献すること。空になった器を、再び温もりで満たしてあげること。その瞬間に、エミルは自らの存在価値を実感する。胸の重苦しさは、そのまま奉仕の喜びに直結していた。


「大丈夫です。貴方の中には、まだこんなに温かいものが残っていますから」


彼女の言葉は、真実だった。男性の心拍数を示すグラフが、安定したリズムを取り戻していく。心拍計の電子音が、先程よりも少しだけ明るい音階を奏でているように聞こえた。


セッションを終え、安らかな寝息を立て始めた男性にブランケットをかけると、エミルは静かに治療室を後にした。廊下で待っていたのは、白羽家の医療主任だった。彼女はエミルの顔を見るなり、その白い頬に浮かんだ僅かな疲労の色を敏感に読み取った。


「エミルさん、お疲れ様でした。素晴らしい成果です。彼の精神安定度は、予測値を15%も上回りました」

「はい、主任。よかったです」

「ですが…貴女は少し、与えすぎです。自己の境界を保つことも、忘れてはなりませんよ。貴女は我々の希望なのですから」


医療主任の言葉は、気遣いに満ちている。だが、その瞳の奥には、エミルを貴重な「資源」として管理する、冷静な光が宿っていた。それは、エミルが幼い頃からずっと向けられてきた光でもあった。


「いいえ。これが、私の価値ですから」


エミルは、そう言って微笑んだ。心の底からの言葉だった。他者の痛みを引き受けること。そうして、誰かの役に立つこと。それ以外に、自分の生きる意味を見出す方法を、彼女は知らなかった。


「…そうですか。貴女がそう言うのなら。さ、次のセッションまで少しお休みになってください。貴女の好きなハーブティーを用意させます」


医療主任は満足げに頷くと、エミルの肩を優しく叩いた。その手のひらの感触に、エミルは言いようのない安心感を覚える。自分は必要とされている。自分の能力は、人々を幸福にしている。その事実が、彼女のすべてだった。柔らかな光に満たされた廊下を歩きながら、エミルは次のセッションで癒すべき相手のことを、ぼんやりと考えていた。


***


闇は、境界を暴く。


黒羽研究ラボは、常に暗赤色の照明に支配されていた。それは血液の色を想起させ、生物の最も根源的な情動を刺激する。壁に埋め込まれた無数の機材から漏れる機械ノイズが、不規則な心拍のように空間を震わせ、空気には、カラメルを焦がしたような、甘く危険な匂いが漂っていた。


その闇の中心に、黒羽ルカはいた。身体のラインに沿った黒いドレスを纏い、肘まである黒い手袋をした彼女は、観察室のガラスの向こうにいる被験者を、愉しげに見下ろしている。


「…さあ、どうしたの? もっと正直になったらどうかしら」


ルカの声は、マイクを通して被験者のいる実験室に響く。その声は蜜のように甘いが、聞く者の鼓膜の奥に、鋭い棘を残す。被験者は、学院の規律を破った罰としてこの実験に参加させられている研究員だった。彼はプライドが高く、自らの過ちを認めることを頑なに拒否している。


「私は…何も間違っていない…!」


被験者の強がりを、ルカは鼻で笑った。彼女の能力は、エミルのそれとは正反対だ。他者の精神に深く潜り込み、理性という名の薄皮を一枚ずつ剥いでいき、その奥に隠された本音や欲望を、白日の下に引きずり出す。それは癒しではない。挑発であり、解剖だ。


ルカはコンソールのスイッチに指を伸ばす。実験室の空気に、ごく微量の特殊なアロマが混入された。焦げた砂糖の匂いが、一層濃くなる。被験者の脳に直接作用し、論理的な思考を司る部分の活動を抑制する効果があった。


「あら、そう。じゃあ、貴方が同僚の功績を妬んで、彼の研究データを密かに改竄したのも、間違いじゃないのね」

「なっ…!そ、それは…!」

「本当は、彼になりたかった。彼の才能が、彼の名声が、喉から手が出るほど欲しかった。そうでしょう?」


ルカの言葉は、被験者の心の最も柔らかな部分を、的確に抉り出す。彼女の瞳は、人間の嘘や建前を、レントゲンのように透過して見抜くことができる。黒い手袋は、他者の汚れた感情に直接触れないための、物理的かつ心理的な防壁だった。


ガラスの向こうで、被験者の顔が苦悩に歪む。彼の理性の城壁に、龜裂が走る音が聞こえるようだった。心拍数を示すグラフが、乱高下を始める。


「違う…!私は、ただ…学院のために…」

「ふふっ、まだそんな嘘をつくの。可愛いわね。いいのよ、認めてしまいなさい。貴方は、ただの嫉妬深い凡人だって。その方が、ずっと楽になれるわ」


ルカの最後の一押しが、引き金だった。被験者の口から、堰を切ったような嗚咽が漏れた。彼は床に膝から崩れ落ち、自らの頭を掻き毟る。抑圧されていた感情が、濁流となって溢れ出したのだ。


「ああ…あああ…!そうだ、私が…私がやったんだ…!」


観察室の隅に控えていた研究員が、感嘆の声を上げた。

「見事な手際です、ルカ様。被験者の自我境界が、予測より早く崩壊しました。これで貴重なデータが取れます」

「みんな同じよ。ちょっと突けば、すぐに醜い本性を曝け出す」


ルカは、もはや興味を失ったかのように、被験者から視線を外した。床に突っ伏して泣きじゃくる男の姿は、彼女にとってありふれた光景でしかない。人間とは、かくも脆く、滑稽な生き物なのだ。


「その力こそ、黒羽家が求める真実。秩序を維持するための、必要悪です」

「必要悪、ね。便利な言葉だこと」


ルカは、研究員の言葉を冷ややかに受け流した。彼女は家の理念のために、この力を振るっているわけではない。ただ、楽しいからだ。人間の化けの皮を剥がすのが。完璧に見えるものの内側にある、醜い欲望を暴き出すのが。それこそが、彼女が感じる唯一の自由だった。誰にも支配されず、一方的に他者を見下ろすことができる、真空の自由。


暗赤色の照明が、彼女の満足げな微笑みを、妖しく照らし出していた。



***


シノンは、二つの画面を並べて表示していた。

左には、白羽診療室の記録映像。右には、黒羽研究ラボのそれ。

光と闇。受容と挑発。安定と破壊。

二人の少女が行っていることは、あらゆる意味で対照的だった。


エミルの干渉は、対象の精神を安定させる。だが、その代償として彼女自身が負の感情を吸収し、消耗している。これは極めて効率の悪いエネルギー交換だ。持続可能性がない。

一方、ルカの干渉は、対象の深層心理から情報を引き出すことに長けている。だが、対象の精神を著しく不安定化させる危険性を孕んでいる。これはハイリスク・ハイリターンな手法だ。非可逆的であり再現性が低い。


どちらも、精神干渉の理想形としては不完全なのだ。

シノンは思考する。まるで、二つの異なる数式を統合し、よりシンプルで美しい解を導き出そうとするかのように。

受容は、対象との境界を曖昧にする。

挑発は、対象との境界を破壊にする。

この二つのベクトルを、もし一つの系の中で同時に作用させることができたなら…?


その時、シノンは気づいた。二つの画面に表示されている、エミルとルカの基礎感情エネルギーの波形。それぞれが隔離された環境にいるにもかかわらず、その波形の微細な揺らぎの中に、奇妙な相関性が観測されたのだ。片方の波長がわずかに上がると、もう片方も、ほんの僅かな遅延の後に、同じように反応している。


それは、共鳴だった。

遠く離れた二つの音叉が、同じ周波数で震え合うような現象。

彼女たちの精神は、物理的な距離を超えて、無意識下で繋がっている…?


この仮説が、シノンの知的好奇心を強く刺激した。これはもう、単なる比較実験ではない。未知の量子効果を観測するに等しい。


シノンは、理事会に提出するための書類に、最後の承認コードを打ち込んだ。

『被験者、白羽エミル、黒羽ルカの共同生活プログラムを、明日付で開始する。観測担当、シノン』

盤上の駒は、揃った。


コンソールを閉じ、シノンは窓の外に目を向けた。ガラスに映るのは、感情のない、自身の顔。

だが、その瞳の奥で、まだ誰も見たことのない現象への、冷たい期待の光が灯っていた。

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