福音伝達者は神にならない -白き街の暗部-

ユーカリの木

序章:はじまり

 ああ、いつまでもこの幸せが続けばいいのに。


 祈りにも似た呟きが、脳裏にこぼれ落ちた。その呟きに、青年は口端を吊り上げて皮肉げに笑った。


 幸せを享受するには資格が必要だ。それは、人として真っ当に生きていること。とても、とても大事な資格だ。


 そんなものは当の昔に破り捨てた。それだけじゃない。ぐちゃぐちゃにして屑籠に放り込んだのだ。


 だからこれは錯覚だと思った。


 アレラル王国の首都カルヴァリア。いと高き福音伝達者がおわす聖なるこの地に、彼はいた。


 住居区画にあるアパートメントの前で、ひとりの少女が立っていた。これからの期待に高揚感を膨らませた明るい表情で、誰かを待っている。


 綺麗な少女だった。ボブカットのエメラルド色の髪が、きらきらと陽光に瞬いている。同色の瞳は、はちきれんばかりの興奮で爆発しそうだ。普段は洒落っ気などないのに、今日は特別な日だからなのか、青色のドレスに身を包んでいた。


 エメラルドが彼の姿を捉えた。眉が下がって唇が笑みを描く。


「ヴォルト。待ってたよ」


 青年はそれに片手を上げて返した。何者にもなれない彼は、いまこのとき、少女の兄になる。それだけが彼にとっての幸いであり、呪いだった。


「レナ、今日は着飾ったな。見違えたぞ?」


 青年の軽口に少女が頬を膨らませる。十六の少女にしては、やや幼い仕草だ。それがおかしくて彼は笑い、更に少女が不機嫌さを増す。


「せっかくラーン・ネルベで《ニーフィア物語》を観劇するんだよ? わたしだって少しはお洒落するよ」


「主人公が自分と同じ名前だからって、昔からお気に入りだったよな」


「うん、すっごく好き。《ツァンパッハ叙事詩》もいいけど、やっぱり《ニーフィア物語》が一番だよね。放浪の賢者と英雄レセナの恋物語……何度読んでも全然飽きないよね」


 少女が更に言葉を重ねようとするところに、青年が口を挟んだ。少女が一度語り出すと長いことを知っているのだ。


「そろそろ行くか。これから観るのに一から説明されたらたまらない」


「話を知ったうえで観るのがいいのに」


「知らないうえで観るのも楽しみのひとつだ」


 青年が歩き始めると、少女が横についてくる。


「そうかなあ。それより、黒いスーツなんて持ってたんだ? 初めてみたけど」


「買ったんだよ。レナのドレスと同じだな」


「ふふ、どう? 似合う?」


「似合うよ。ちゃんと着飾ればレナは見た目もいいからな」


 かつて少女は、王立研究所で研究にその身を費やしていた。


 何が少女をそこまで駆り立てるのか、彼は知らなかった。きっと知らなければならないことだと心のどこかでは理解しているのに、どうしてか怖くていつも訊けなかった。


 理由を知ったのは、先日のことだ。すべてを知ったとき、彼は愕然とした。


 同時、自らが進む道を定めた少女が眩しすぎて、自分が立つ場所を見失いそうだった。


「折角だ、帰りは寄り道していくか。どこに行きたい?」


「セーテムに行きたい! 今日はチョコレートケーキが食べたいな」


「この前大量に食べたばかりだろ?」


「わたしはケーキ用の胃袋があるんだよ」


「ことケーキになると馬鹿になるのは変わらないな……」


「まったく、すぐ人を馬鹿あつかいする。せっかくセーテムは奢ってあげようと思ったのに」


「多少は兄貴に恰好つけさせろ。俺が出すよ」


 少女が一歩踏み出し、青年の前で立ち止まる。くるりと可憐にまわると、親愛の笑みを浮かべて言った。


「ヴォルトはいつでも恰好いいよ。ずっと見てきたから。わたしは知ってる」


 青年は何とも言えなくなって、言葉を交わす代わりに少女の頭を撫でた。彼女はくすくすと笑っていた。


 幸せだった。どうしようもない袋小路に閉じ込められたとしても、青年にとっては、少女さえいればそこは幸いだ。


 いまとなってはただ一人の家族。いずれ自分の下から巣立つと分かっていても、それが少女にとっての幸福であれば、きっと祝福できる。


 首都一番の劇場ラーン・ネルベに着くと、既に人だかりができていた。この時代、歌劇は人気な娯楽のひとつだ。高価なスーツやドレスに身を包んだ男女らが、劇場の入口から列をなしている。その殆どは政府筋の者たちだろう。青年でも知っている顔がいくつかあった。


 青年は少女を連れて列の最後尾に並ぶ。歌劇についてああでもない、こうでもないと話している内に、列がさばかれ青年たちの番になった。受付にチケットを切ってもらい、中に入る。


 ホール内はすでにほとんどの席が埋まっている状態だった。一階、中央ブロックの十列目に座ると、少女が興奮の混じった声を出した。


「いい席取ったよね。どうやって取ったの?」


「ああ、上官の伝手を使ったよ。そもそもチケットの購入権が余っていたらしくてな、丁度俺が欲しいっていうから譲ってもらったんだよ」


「すごい幸運だね」


 ふいに、人影が差した。身なりの良いスーツを着た男だった。右手に小箱を抱え、少女に声を掛ける。


「レセナ・グランジャ様ですね?」


「はい? そうですけど……」


「こちらを。さるお方からの贈り物と聞き及んでおります」


 小箱を少女に渡すと、「では私はこれで」と男が去っていく。


「なんだそれ?」


 青年の問いに少女は首を傾げる。


「分かんない。なんだろ……」


 突如、エメラルドの双眸が見開かれる。少女の唇が震え、視線が左右に動く。黒塗りの小箱から金色の光が溢れ出す。


 遅れて、青年にも理解が訪れた。


 施術爆弾だ。それも、これひとつで劇場を吹き飛ばすほどの凶悪な代物。


 青年が叫ぶ。


「レナ、そいつを離せ――」


 そして、光が弾けた。

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