Limit to your love

しきまさせい/マニマニ

Limit to your love

 部屋には秒針の音が響いている。たいして大きくもないその音が殊更に大きく聞こえるのはケイシーもアリスティドも息を潜めているためだろう。ステージ上で刺されてからケイシーは随分と無口になった。病室に入っても視線を向けられないこともあったが、それは彼の信頼と解釈して差し支えないだろう。彼は警戒する相手を必ず視界の端に捉えている。父親に殴られ、それ以上まで手が及んでいたという彼の生育環境がそうさせている。

 退院した後のケイシーが部屋に閉じこもるようになってしまったので、アリスティドは彼を無理やり自宅のピアノの前まで引っ張っては来たが、部屋のソファに横になってから彼はぴくりとも動かない。それを見ているアリスティドはピアノの前に腰掛けて少しも動くことができなかった。ケイシーの表情は長く伸びた髪に遮られて見えない。

 ケイシーは詩聖だ。いわゆる天才と言って差し支えない。あらゆるリズム、音、周囲で鳴っているものすべてからバースを生み出すことが出来る。彼のインスピレーションは彼を取り巻く全て、つまり生活にあるはずだった。だから彼の生活が上手く軌道に乗れば、彼は自身のバースを、言葉を取り戻せるはずだとアリスティドは信じていた。音楽は生活の中で絶えず鳴り響く音の中から意図的に美しいものを選び取って再構成した芸術だ。音楽に触れて、生活を整えれば、彼の言葉の泉は息を吹き返す。そう信じていた。

「聴きたい曲はある?」

 問いかける前にひゅっと息を呑んでしまった。こちらも緊張しているようだ。ケイシーは黙ってソファに横になったまま、ファブリックの表面を緩慢に弄っている。

「リクエストがなければ好きなように弾くよ」

 いいね、と声をかけると今度はケイシーがひゅっと息を呑んだ。続く言葉を待つ。

「うつくしい曲がいい」

「なるほど」

 鍵盤の上にアリスティドが白い指を置く。高い音から始まって流れるような端正なフレーズが始まる。地に足のついた安定感がありながら繊細な音運びで曲は進んでいく。主旋律は物悲しく、強弱をつけて柔らかく添えられる左手は雪が降るような静けさがあった。また転調し、そこから盛り上がっていく、希望が感じられるような明るい音に向かって進み、それからまた静謐さを思わせるフレーズに帰ってくる。ピアノだけで完成された美しい世界。

 ケイシーの反応を見るとソファに横たえたままこちらを向いて陶然とした目つきをしていた。

「今の曲、知ってた?」

「知らない」

「energy flow、 坂本龍一の曲だ」

「いいね、悲しくて、うつくしくて」

「気に入ると思った。もっと落ち着いた曲もある」

 今度は先ほどより低い音から始まった。落ち着いたフレーズが繰り返しながら姿を変えていく。かと思えば高い音で煌めくようなフレーズを繰り返し一度低音に戻る。今度は力強く和音が響くなかであの煌めくフレーズが始まり旋律が展開していく。それは徐々に力強くなり、ポジティブな和音となって消える。

「いいね、安心する」

 ぽつりとつぶやいたケイシーは力の抜けた、柔らかい表情をしていた。ケイシーのリラックスした表情は久しぶりだった。自分の家にいてもどこか警戒心の抜けきらない彼と無防備に語り合うには音楽しかないとアリスティドは知っている。今回はアリスティドの趣味だが、ケイシーに興味を持ってもらえたのが嬉しかった。

「あんたは歌わねえの?」

 出し抜けに、どこか遠くを見る視線のまま彼は言う。これまで散々彼に歌ってくれとせがんできたが彼から訊かれたのは初めてだった。

「君と会う前はたまに歌ってたよ」

「聴きたい」

 ケイシーが子どものように言うので、アリスティドは困ってしまった。一つの曲が頭をよぎる。それから他の曲をと思っても憑かれたように同じフレーズが繰り返されてしまう。人の頭をハックするような魅力がある一曲であることは間違いないが、弾き語るような曲でもない。

「なんでも良いんだぜ」

 ケイシーは目を閉じていた。先ほどまで弾いていた曲の名残を探すように静かな表情をしている。先の二曲も自分の趣味で弾いたのだから、弾き語りも同じく趣味に走ったって良いだろう。彼は受け入れるつもりだとアリスティドは直感した。彼のためを思ってピアノの前に連れてきたが、自身が彼に聞いて欲しかったことに気がついた。彼に音楽を聴いて欲しかった。美しいものに触れて欲しかった。彼の傷を癒すのは音楽であるに違いないと信じたかった。

 鍵盤に触れる。メリハリをつけてフレーズを弾く。さして難しくはない、中低音で構成されたそれは強弱によって雄弁に感情を物語る。

 あなたの愛には限界がある。スローモーションの滝のように、地図のない海のように。

 元はハウスミュージックの楽曲をワンコーラス歌うと照れくさくなって手を止めた。

「良いじゃん」

「そうかな」

「あんたの声は柔らかいから良いよ」

 ケイシーが同じフレーズをハミングする。確かに彼の声にはアリスティドとは違う金属的な響きが感じられた。ステージ上での彼の声はいつも鋭い。バースそのものの鋭さも相まって警告のように響く。

「音楽が好きなんだな」

 優しい声だった。どこか諦めのようなものを含んだそれにアリスティドは不穏なものを感じていた。

「好きだよ、だから君に声をかけた」

 努めて明るい声で言う。ケイシーは微笑んだ。

「君がその気になるまでいくらでもうつくしい曲を弾いてあげる」

 だから、と続けようとして言葉に詰まった。ケイシーはただ、眩しそうに微笑むだけだった。

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