前説

 二年前、とある地方都市の劇場。

 客席はまばら、空気は冷え切っているけれど、僕はそれでもマイクを握る。

 舞台袖から、草臥れたスーツ姿で登場。僕は客席に向かって、軽く頭を下げた。


「どうもー、前説担当の田口しんぺいです。えー、今日の本編は豪華ですよ。テレビで見たことある人も、見たことない人も、たぶん出ます。たぶんね。携帯の電源はポチッと切って、トイレは今のうちに行きましょう。僕が喋ってる間に、今のうちに!」


 客席から苦笑が上がる。


「僕はね、芸人歴十五年。テレビ出演ゼロ。ギャラは交通費以下。夢は『売れること』じゃなくて、『売れたことにして死ぬこと』です」


 客席が静まり返る。今のは意味不明すぎたか。捻った表現の自虐ネタのつもりが、伝わらなくて滑った。


「最近はね、炎上って言葉が流行ってますけど、僕はずっと燃えない芸人です。火がつかない。湿ってる。ライターが泣いてる」


 客席、くすりとも笑わない。


「でもね、今日ここに来てくれた皆さんは、そんな僕の『火種』になってくれるかもしれない。笑ってくれたら、ちょっとだけ燃えるかもしれない。 だからお願い。笑ってください。笑ってくれたら、僕は芸人でいられるんです」


 沈黙。僕は客席を見渡した。


「……って言っても、笑えないときってあるよね。仕事で疲れてるとか、彼氏がクズだったとか、推しが炎上したとか。でもね、そんなときこそ、笑ってください。笑いってのは、誰かが『代わりにバカになる』ことで生まれるんです」


 僕の特徴のない声を、マイクがそっと会場に広げる。


「今、僕がその『バカ』になります。だから、どうか、笑ってやってください」


 客席から、まばらな拍手が起こった。殆ど誰も聞いていなかっただろうけれど、一応、形だけ。


「それじゃあ、今日の本編、始まります。僕はここで消えますけど、皆さんの笑いが、誰かの救いになりますように。あ、ちなみに僕のネタはこのあと一切出ません。今、僕がバカになりますって言ったのに、これで終わりかーいって? 前説ってそういう仕事です。じゃ、よろしくお願いします!」


 深々と頭を下げて舞台袖へはける。照明が落ち、次の芸人が登場すれば、客席の人々の記憶から僕は消える。

 十五年、僕の役割はそれだけだった。



 株式会社フレイムエージェンシーは、若手芸人の発掘と育成に強いと評判の中堅芸能事務所である。

 都内某所、雑居ビルの一角にあるその事務所の会議室に、僕は呼び出しを食らった。


 代表取締役・灰田社長は、短い腕を背中に回し、丸く張った腹をこちらに突き出していた。


「田口くん。君、今月の営業ゼロ。テレビもゼロ。SNSのフォロワー、減ってるよね?」


「……ネタ動画、ちょっと滑りまして」


 萎縮気味に苦笑いする僕の横で、マネージャーの塩原さんが、淡々と言った。


「『ちょっと』じゃないです。再生数、社員の誕生日動画以下です。ウケてない以前に、見られてない」


 田口しんぺい、三十五歳。僕は、絵に描いたような売れない芸人である。

 学生の頃、クラスのお調子者枠で笑いを取れた僕は、自分には芸人の才能があると思い込んでいた。家族の反対を押し切って田舎を飛び出し、お笑い芸人を目指して大阪へ引っ越し、養成所に通い、紆余曲折あって、東京に本社を持つこのフレイムエージェンシーに採用された。

 しかし現実はこのざまである。地方の劇場で十年以上前説を務めているが、テレビには一度も出たことがない。


「新作の一発ギャグ、いけると思ったんだけどな」


 SNSのショート動画に投稿したギャグが上手いことバズれば、人気が出る近道だと思ったのだが……そう簡単にはいかない。バズるどころか、一瞬で流れた。ろくに見られていないから、辛辣なコメントすらつかない。


 今となっては分かる。学生の頃お調子者枠だった僕は、「笑わせていた」のではない。「笑われていた」のだ。

 現在の僕も、どうやらその延長上にいるらしい。観客から相手にされず、所属事務所の関係者や芸人仲間などの身内から白い目で見られ、地元にいる家族からも見放された、滑稽な人生を歩んでいる。


 僕はおずおずと呟いた。


「でも……売れないのって、事務所のイメージが悪いのせいもあると思うっす。ここの所属タレント、炎上が多くて……。去年は主力タレントのモチ米パン太さんが反社と繋がりがあったって報道されて、その前は人気コンビだったトリリンガルの鳥居さんが不倫すっぱ抜かれてコンビ解消、この間なんて大御所の大池吾郎さんが女性スタッフに性加害で大炎上……」


「黙れ! 今はその話はしてない。君の話をしている」


 社長はぴしゃりと、僕の言い訳を遮った。


「いいか、芸人は笑いを提供する装置。笑われることに意味がある。分かっているのか、田口くん」


「すみません」


 元放送作家の灰田社長は、業界の裏事情に精通し、様々な界隈にパイプを持っている。所属タレントが炎上しても事務所自体が切られることはなく、別のタレントはメディアに出演し続けられるのは、灰田社長がテレビ局やスポンサー企業と上手く渡り合っているからなのだ。

 その社長が今、呆れ返った目で僕を見ている。


「君さ、芸歴何年目だっけ?」


「十五年目です」


「十五年やって売れないってのは、もう才能がないってことなんだよ。うちは売れない芸人を飼う余裕はないの」


 僕は黙って目を伏せた。頷きたくない。社長がため息をつく。


「覚えているか? 去年の契約更新のとき、君は『次の一年で絶対に結果を出す。出せなかったら、再来年の更新はナシでもいい』と言ったが」


 どきりとした。そうだ、言った。

 契約を切られそうになって慌ててこう言い、なんとか一年延命してもらったのだ。


「ま、待ってください!」


 策もないのに、僕は咄嗟に叫んだ。


「次の一年で必ず……」


「去年もそう言って、結果、どうだった?」


「え、えっと……」


 目を白黒させ、この場を切り抜ける方法を考える。どうにか契約を更新して、この事務所の所属タレントでいさせてほしい。それすらなくなったら、僕はバイトで食いつなぐフリーターでしかなくなる。

 しかし社長を納得させるような言葉は思いつかず――僕は、熱意を訴える他なかった。

 膝を折り、社長の目の前で土下座する。


「お願いします! なんでもします! 僕を芸人でいさせてください!」


 芸人の肩書きに縋り付くためなら、なんでもする。


「過酷なロケでも、痛みを伴うギャグでも、なんでもします。どんな汚れ役でもします。だから、どうか、どうか……!」


 床に額を擦りつける僕には、社長の顔は見えない。返事が返ってこない限り、頭を上げられない。

 そんな僕の頭上から、落ち着いた低音が降ってきた。


「……『なんでもします』? 『どんな汚れ役でも』?」


 マネージャーの塩原さんの声だった。これまで傍観しているだけだったのに、急に口を開いた。


「社長、彼もこう言ってますし、どうでしょうか」


 これまで全然味方してくれなかった塩原さんが、社長に問いかける。僕の熱意は、塩原さんには伝わったのか。と、思った矢先だ。


「どうでしょうか。『広報調整室』を通してみては」


「ふむ……」


 社長が唸る。僕はつい、顔を上げた。


「広報調整室……?」


 床から見上げる僕の視界は、社長の丸い腹が大部分を占めていた。


「田口くん、『なんでもします』という言葉に嘘はないな?」


「はい」


「それでは、今から話すことを決して口外しないと約束するなら……最後のチャンスをあげよう」


 腹越しに見た社長の目と、横に立つ塩原さんの目は、見たことのないような冷たい色をまとっていた。

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