【掌編】ヤクザの戯れ

九竜ツバサ

戯れ

 向こう岸には、赤と白の横縞が目立つセメント工場の煙突が見えた。

 青葉(あおば)は、ちょうど川と海の境目の波を眺めながら溜息をつく。

 朝陽が顔を出してすぐに、無理矢理瞼をこじ開けて車を走らせて来たというのに、待ち合わせの相手が顔を見せない。相手が怖気づいて約束を反故にしたとは考えにくい。青葉は右手を握ったり開いたりして立ち呆けたまま、薄青い空に白い息を吐いた。



 波止場にある水産工場の前に一台の車が停まった。真っ黒いそれはすぐにエンジン音を止め、運転席側のフロントドアを開いた。

 黒いスーツを着た長躯の男が降りてくる。彼――九重(ここのえ)はその吊り目ぎみの瞳を細めて、刺しつける陽を遮った。

 九重が青葉の傍に寄り、中指で額を擦る。

「悪い、遅くなった。シマの中でチンピラが暴れてな。いつものキャバクラだよ」

 目を凝らして見ると、九重の目の下にはうっすらと隈が引かれていた。若中のなかでも腕っぷしの立つ者は、朝晩を問わずシノギに駆り出される。青葉もそれに変わりはなかったが、頭の出来が悪いせいか、デリケートな場でのトラブル対応に呼ばれることはほとんどなかった。兄貴たちには「お前は本当に残念な奴だ」と声を揃えて言われる。



 青葉はジャケットに突っ込んでいた両手を擦り合わせて、熱い息を吐きかけながら、「そりゃご苦労さん」と幾分か背丈の高い九重を見上げた。

 九重はそのからかうような双眸を憎らしげに見ながら、スーツの上衣を無遠慮に脱ぎ捨てた。体の片方を前に出して手を握り込む。

「事務所に帰る必要があるからここで油を売ってる暇はない。早く始めよう」

 青葉も同じように拳を前に出し、構える。

 青葉は少年のように無邪気に笑った。

「手加減しねえからな」



 先に踏み出したのは青葉だった。利き手で強烈なストレートを打ち出す。九重は顔を横に逸らして躱した。そして代わりに鈎型に曲げた指で目を突く。

 上体を引いて、寸でのところで避けた青葉が、伸ばした人差し指を九重に突き出した。

「お前、目は反則だろ!」

「お前が本気なら、こっちも本気でかからないと失礼だろう」

「マジで泣かしてやる」

「同じ言葉を返してやるよ」

 青葉は刹那のうちに、九重の胴に回し蹴りを食らわせた。その足を曲げた肘の間に挟んで掴まえた九重が、青葉の軸足を己の足で払って崩しにかかる。

 が、青葉は九重のシャツの胸元を掴んで転倒を避け、彼の顔面めがけて頭を振りかぶった。

 ガチン、と勢いよくぶつかった額を通じて、九重の歯が打ち当たる音が聞こえた。身を離して彼の顔を見れば、腫れた唇の裏側からしとどに血を流し、前歯を赤く染め、口元を袖で拭っていた。

「これから事務所に行くってのに」

 九重が鮮やかな色合いの唾を吐き出し、不機嫌そうに眉根を寄せる。

 青葉はニヤニヤと笑って、

「油断するお前が悪い」

 と挑発するように、四本の指を上向きで扇いだ。

 そしてじりじりと近付いていく。

 青葉は、九重の頸動脈を狙い手刀を放った。しかし筋肉質な腕に跳ね返される。

 追撃に、青葉は防御のために空いた九重の胴めがけてタックルをかました。自分よりも重い体をひっくり返そう試みる。

 しかし気付いたときには、重心を下げてタックルの勢いを逸らせた九重の手によって頭をロックされ、鳩尾に膝を叩きつけられていた。

 青葉の息が止まる。

 間を置かず、今度は眼前に衝撃が迫ってきた。

 頭の中で、木を折ったような硬い音が響いた。鼻腔から血が噴き出す。その鉄臭い血液が口内まで広がって、青葉は思わず嘔吐するように吐き出した。

 九重が血の薄まった前歯を見せる。

「本気でこいと言ったのはお前だろうが」

 青葉は背中を丸めながらしゃがみこんで、短い呼吸を繰り返した。その度に鼻血がぼたぼたと垂れる。コンクリートには赤い地図が描かれ、青葉の着古したジャケットをも汚した。

「鼻折れたんだけど」

 青葉が恨めしそうに睨むと、九重はスーツの上衣を拾い上げながら「俺は前歯が欠けた」と『い』の口で歯を見せた。そして、

「気済んだろ」

と丁寧な所作で上衣を羽織る。

 その様子を呆然と見るふりをしながら、青葉はひそかに闘志を燃え上がらせていた。

 顔の下半分を血で濡らしながら、狩りをする肉食動物のように隙を狙う。

 九重が「面倒がらずに事務所に顔出せよ」とズボンのポケットから車のキーを取り出す。青葉に背を向け車のほうへ向き直る。

 その瞬間、青葉は九重めがけて腕を伸ばした。後ろ襟を引っ張り振り向かせたところで大振りのパンチを見舞う。しかし手応えは感じられなかった。九重が上体を屈めて打撃を避け、アッパーカットを放ったのだ。

 重い衝撃に、上下の歯が派手な音を立てて打ち鳴らされた。喉が仰け反り、視界が揺れる。もう立ってはいられなかった。

 体が砂袋のように地面に放り出され、脳震盪を起こした脳みそが意識を手放そうとする。青葉は興奮で熱くなった体が急速に冷えていくのを感じた。霧の中で自分を見下ろす九重が、「病院行ってから来いよ」と悲しいほど真っ当なことを言った。

 覚えているのはそこまでだった。




 漁師と思しき中年男性に声を掛けられ起きたときには、すでに陽は真上にあった。痛む鼻梁を撫でながらスマホを確認すると、面倒見のいい兄貴たちからひっきりなしに電話が着ていて、無意識に口元がニヤついた。ついでに九重からの念押しのメッセージも残っていておかしかった。

 青葉は乾いた冬の空のように冴え冴えとした気分で、車に乗り込んだ。

 抗争は近い。


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【掌編】ヤクザの戯れ 九竜ツバサ @tubassa01

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