星屑のせかいで~大魔法使いは神と死神の砂時計~

瀬那つくてん(加賀谷イコ)

プロローグ

 一瞬の出来事だった。

 突き刺すような光に目が眩んだ瞬間、足を引っ張られるように意識は闇へ落ちていく。

 世界は残酷だ。こうして、すべてを奪っていく。耐え忍んで来たというのに、それでもさらに奪っていくのだ。

 だというのに、何も与えてはくれない。この世界は、ただ絶望を与えるだけなのだ。


『そればかりではありませんよ』


 ――え……?


 閉ざした瞼の裏が白く染まる。自分が倒れているのだと自覚した瞬間、瞼を持ち上げた。辺りを見回すと一面が真っ白で、先ほどトラックに轢かれた幹線道路ではないことがよくわかる。

 恐る恐る上体を起こす。腕や足を見ても、傷ひとつ負っていない。コートもスーツも無事で、事故に遭う直前の状態のままだった。

「なんでだ……? あれだけ激しく轢かれたってのに……」

「私があなたをここに呼び寄せたからです」

 不意に聞こえた優しい声に、少し驚きつつ顔を上げる。目の前に現れたのは、白いドレスを身に纏った美しい女性だった。綺麗なウェーブの髪は虹色に光る銀で、この世のものとは思えない姿。女神と名乗られたら納得の容姿である。

「あんたは……?」

「私は『世界樹の庭』と呼ばれる世界の……そうですね、あなたたちの言葉を借りるとするなら、神、でしょうか」

 やはり女神だった、と考える頭は、ある意味では冷静だった。だが、意識が目の前の光景を疑わせる。

 ――スパァン!

「えっ!?」

 女神が目を剥く。彼が自分の頬を引っ叩いたからだ。

 頬はじんじんと痛む。どうやらこれは夢ではないらしい。そうであれば、ここ最近しょっちゅう見掛ける「異世界転生」というやつだ。彼はほとんど読書をしないが、それがいまの流行であることは知っていた。

「それで……俺はなんで呼び寄せられたんでしょうか」

 目を白黒させていた女神は、こほん、と咳払いして、また背筋を伸ばす。

「私の世界には、人間の目に触れることのない大地テラに、世界樹と呼ばれるマナの大木が存在しています。世界樹の根はすべての大地に張り巡らせられ、すべての生命の源であるマナを供給しています。しかし、現在、世界樹が弱り、大地に供給されるマナが減少しているのです」

 女神は絵本を読み聞かせるように優しく語る。その話に耳を傾けながら、死ぬ間際に夢を見ているのではないか、とまた疑う心が湧いていた。もしくは、大掛かりなお芝居の中に紛れ込んだのではないだろうか。

「……疑っていますね」

 女神が困ったように微笑んでいる。残念ながら、こんなファンタジーを純粋に喜べるほどの童心は持ち合わせていない。だが、すでに頬は引っ叩いた。いまは信じるしかないだろう。

 体勢を直すと、女神も穏やかに微笑んで再び口を開いた。

「私はあなたの魂を『世界樹の庭』に送ります。そうすることで、世界を修正するための歯車を回すのです」

「なるほど……魂の介入が突破口を作るってわけっすね」

「はい。別世界から来た人間の魂は、この世界には存在しない魔力を持っています。それが歯車を回す鍵となるのです」

「けど、俺は魔法を使えませんよ」

「あなたの世界に魔法が存在しないだけで、魔力自体は持っています。別世界の魔力を転生により注ぐことで、世界樹は復活への足掛かりを手に入れるのです」

 ここまで来て「信憑性がない」と突っ撥ねるわけにもいかないだろう。黙って話を聞いていたほうがいいようだ。

「歯車さえ回せれば、私が世界樹を再生させることができます」

「俺は何をすりゃいいんですか?」

「特に、何も」

「何も?」

「はい。特別なことはせず、ただ存在してくださるだけでよいのです」

 思わず首を捻る。そんな美味い話が本当に存在するだろうが。だが、異世界転生についてなんとなく知っているのは、何かしらで命を落とした主人公が別の人間になってその世界で自分の生き方を楽しむ、ということ。女神の言うことは本当なのかもしれない。

「別世界の魔力は特別な魔法を生みます。転生先では、優れた魔法使いになれますよ」

「へえ……チート、ってやつか」

「はい。あなたはただ、新しい人生を楽しんでくれればそれでいいのです」

 女神は美しい顔に明るい笑みを浮かべる。これまで、魔法の存在しない世界で生きてきた。少しでも魔法が使えるなら、確かに楽しむことができるかもしれない。

『――そんな美味い話が本当にあると思うか』

 先ほどの疑惑が声となって響いた。地を揺らすほど低く、心に恐怖を懐かせるような恐ろしい声。その主を確かめようと振り向くと、黒いローブを身に纏った人型の何かが佇んでいる。女神の数倍ほどの大きさで、ローブによって人の形をしているかどうかはわからない。ただ、これだけはわかった。これが死神なのだと。

『お前は騙されようとしている』

「なに……?」

「耳を貸してはいけません!」

『黙れ、小娘』

 女神の言葉を掻き消すような声が耳の奥を震わせるたび、その悍ましさが背筋を凍らせる。だが、不思議と恐怖はない。頬を伝う汗が何を意味するのか、いまはまだわからない。

『世界樹の再生……そのためには、別世界から来た人間の魔力を搾取する必要がある。お前はこの世界に介入しても、世界樹に魔力を奪われ、死を迎えるのはあっという間のことだろう』

「そいつは……恐ろしいな」

「その者の言うことを信じてはいけません。その者はあなたを呪う死神です!」

 必死になって言う女神に、ふん、と死神は鼻を鳴らす。

『死神はどちらだ。これまで何人もの転生者がこちらへ来た。だが、世界樹は再生されていない。これがどういう意味かわかるか』

 この問いには、考える時間が必要だった。女神と死神、どちらを信じるべきなのか。本来であれば女神だろう。だが、死神を無視することができなかった。

『転生者は、あっという間に命を奪われる。世界樹の再生が終わる前にな』

「じゃあ……転生者が何人も必要になる、ってことか」

『さよう。お前は騙されているのだ』

「お黙りなさい。私は、前世で恵まれなかった魂を救済しているのです」

 女神は凛と背筋を伸ばす。その姿は美しく、気高い。こんな状況でなければ、その神々しさにひれ伏していたことだろう。

『では、なぜ転生者は若くして命を落とす。貴様が命を搾取しているのだ』

 女神と死神を交互に見る。まさに死後の世界。であれば、死神は魂を奪いに来たのだろう。だが、話がめちゃくちゃにこんがらがっている。死神の言葉が本当なら、魂を奪おうとしているのは女神ということになる。死神が、それを阻止しようとしている。命を守ろうとしているのだ。

『名も知らぬ転生者よ。この私が、お前の魂を救済してやろう』

 死神が身動ぎする。それと同時に、何かが体に絡みつくような感覚があった。それは一瞬にして消え、体の自由が奪われるようなことはない。

『お前の名はアストラ。この女が契約のためにお前に付けた名だ』

「アストラ……」

『私からも名を授ける。お前は、ウォーロック』

 何かが胸の奥で鼓動を打った。まるで血の流れが逆さになったような奇妙さを一瞬だけ感じたが、何かが体に馴染むような感覚があった。

「俺はどうすればいい?」

『各地に存在する聖遺物アーティファクトを破壊しろ』

「そんなことをしたら、世界樹の庭は滅んでしまいます!」

 女神は懇願するような視線を向ける。いまはどうすることもできず、ただ死神の次の言葉を待った。

『お前はどちらを選ぶ。再生か、破壊か』

「そんなの……選べねえよ。早死にはしたくない。だが、世界を破壊するなんて……」

『よかろう』

 死神がまた身動ぎすると、今度は体中の血流が止まるような感覚に陥った。それも一瞬のことで、体はすぐに平静を取り戻す。

『お前の魔力回路を封じる。そうすれば、魔力の搾取は止まる』

「あんたの話が本当なら、早死にすることがなくなるってわけか」

 女神は口を噤む。低い笑い声を立てる死神を、ただきつく睨み付けていた。

『お前と同様、私の祝福を授けた者がいる。名をスクワイア』

「スクワイア……騎士、か」

『その者とともに旅に出ろ。その中で、お前の生きる意義を探せ』

 命を失ってなお、生きる意義を探す。生きている頃には見出せなかったものを探す旅。それも悪くないように思えた。

『再生か破滅か。それを決めるのはお前だ』

「……わかった。女神サマが正しいか、あんたが正しいか……旅するあいだに見極めるよ」

『うむ。世界樹の庭に入ってしまえば、その小娘も私も介入できない。あとはお前の自由だ』

「そいつはありがたい。社畜には天国みたいなもんだ」

『時間はたっぷりある。せいぜい新しい人生を楽しむがいい』

 死神が高笑いした瞬間、足元に大きな穴が空いた。一瞬にして体は闇に吸い込まれ、意識は再び閉ざされようとしている。

『私は大地テラにてお前を待つ。世界を破壊したければ歓迎しよう』

 目も眩むような女神の正義を信じるか。どこか人情を感じさせるような死神を信じるか。その答えはきっと、世界樹の庭に隠されているのだろう。第二の人生には、世界の命運が懸かっているらしい。これからどうなるかはわからないが、あのゴミ溜まりのような人生に比べれば、はるかに天国となることだろう。



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