第2話 陛下の命令はロクでもない
夜会の喧騒を背にしたグロリオサ夫人は、エドリック陛下が待つ寝室へと足を運んだ。
ノックは4回。「入れ」の応答を得てから扉を開ける。
燭台の灯りに照らされたエドリック陛下が、寝台の縁に腰掛けていた。
サイドテーブルには赤ワインが注がれたグラスと、書類の山。
それから、炎のような真っ赤な花弁を持つ一輪の花。
ゆったりとしたローブを纏い、ペラリと書類をめくる。
陛下の眼差しは、静かに凪いでいた。
「国王陛下。あなたの……ロクでもないご命令、遂行して参りましたよ」
グロリオサ夫人は真っ赤なドレスの裾を広げて一礼しながら、そう告げた。
きしり。陛下が寝台から降りる音がする。
夫人は床をジッと見つめたまま。
陛下の冷たい指が顎を掴み、強引に顔を持ち上げる。
夫人は、抵抗しなかった。
「これでライラ嬢は、不正を重ね裁判直前のレイク子爵家とは縁が切れ、陛下の息のかかった臣下との婚姻を進めることができるでしょう」
にこりともせずに、夫人は淡々と告げた。
その眼差しは氷のように冷たく、悪魔を睨みつけているかのように鋭い。
「つれないな、ノエラ。君のその冷たい態度が、私を燃え上がらせることを知っているか?」
挑発するようなエドリックの視線が、夫人の身体にまとわりつく。
今にも肌に触れそうなほど、吐息が近い。
グロリオサ夫人は、エドリックがそれ以上近づくことを許さなかった。
するりと身を躱し、閉じた扇子で陛下の手をピシャリと打つ。
「冗談はよしてください、陛下。わたくしの愛も身体も、あの方のもの。陛下に捧ぐのは、臣下としての忠誠心だけです」
「ははは! それでこそ、私の愛しい宮廷調整官だ。ヴァルデュアの闇を請け負う愛しい毒花だ!」
エドリックは快活に笑うと、夫人から離れて寝台に戻った。
世間は、若き王と寵姫の愛を信じている。
愛ゆえに、エドリック陛下はグロリオサ夫人の奔放な愛を黙認しているのだ、と。
けれど本当は、忠誠と憎しみで縛られた関係だった。
「……わたくしから婚約者を奪い、勝手にグロリオサ伯爵と婚姻させたくせに」
「仕方がないだろう。君の美貌と才能を、ただの近衛騎士などにくれてやるのは惜しい。普通の結婚など、君を枯れさせるだけだ」
ヴァルデュア王国に限らず、貴族の令嬢は結婚すると跡継ぎを残すことが第一使命となる。
子爵家や男爵家などの下位貴族ならともかく、伯爵家以上ともなると、稀に家業を手伝うことはあっても、表立って仕事をすることはない。
「私のそばに置いておくためには、君を結婚させて寵姫として宮廷に招くことしかできなかった」
「わかっています。陛下の寵姫として囲われることで、わたくしの身の安全と立場が守られていることも。……納得はしておりませんけど」
憮然とした態度を隠しもせずに、夫人は首を横へ振る。
夫人は、エドリックと呑気に話す気などなかった。
「そんなことよりも、報酬をいただきたく」
「本当につれない。もう少し気を許してくれてもいいだろう?」
「いいえ、お断りいたします」
瞬きほどの静寂。
グロリオサ夫人とエドリックの視線が、ばちりと合わさる。
押し負けたのは、エドリックだった。
「仕方がない。 ——ほら、王国第三騎士団所属ダリウス・グレイヴナーからの手紙だ」
エドリックが、書類の間から取り出した一通の手紙を夫人に差し出した。
夫人はその手紙を素早く受け取ると、大事な大事な宝物のように抱きしめて目を伏せる。
封筒に記された日付は、五日前。
ちょうど、グロリオサ夫人がアラン卿とライラ嬢を別れさせるように、とエドリック陛下から命令を受けた日だ。
——生きてる。まだ、あの方は生きている。
グロリオサ夫人の氷のような胸の内に、小さな火が灯る。
ダリウス・グレイヴナー卿は、グロリオサ夫人のかつての婚約者だ。
相思相愛で結婚も間近だった恋は、エドリックによって引き裂かれてしまったけれど。
「……っ、ダリウス」
「君が私に忠誠を誓う限り、ダリウス卿の命は保証される。忘れるなよ、ノエラ」
「——本当に酷いひと」
「おっと、睨まないでくれノエラ。君の美しい顔が、さらに美しくなってしまう」
くつくつと喉を鳴らして笑うエドリックに、夫人は諦めたようにため息をついた。
「——さあ、ノエラ。次の仕事の話をしよう」
どちらが吐いた息で揺れたのか。燭台の炎が、ゆらりと揺れる。
エドリックに命じられたのは、新たな婚約破棄の仕事だった。
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