光のほうへ
沙知乃ユリ
光のほうへ
光だけが、まだこの世界を信じているようだった。
公園の噴水が風に散り、金色の粒を宙に放っていた。
かつて妹だった人がそこに座っている気がして、息が止まった。
冷たい空気のなか、日の光だけが温かさを感じさせる。
昼下がりの公園は、人影もまばらだ。
噴水の水が風に散らされ、光の粒となって宙を舞う。
ベンチに座る妹の姿を見つけた瞬間、俺のなかの影と光が混ざり合った。
髪を短く切り揃えていた妹は、あの頃の面影を残しながらも、静かに大人びていた。
「……来てくれたんだね」
その声は懐かしく、少しだけ遠かった。
「そのままじゃ寒いだろ」
苦い唾液を飲み込んで、自販機で買ったホットの缶コーヒーを差し出す。
妹は小さく笑って受け取った。
両手で包みながら「ありがと」と囁く。指先がかすかに震えていた。
長い沈黙が流れた。
風が木々を揺らし、遠くで子どもの笑い声が聞こえた。
俺たちは同じ方を向きながら、違う時間を眺めていた。
「……あの報道、見た?」
妹が先に口を開いた。
「見た」
「全部ウソじゃないけど、全部ホントでもない」
彼女はベンチの端で、視線を落としたまま呟く。
「傷つけたのは事実、なんだと思う。
でも、どうしてそうなったのか、自分でもよくわからないの。
ただ、みんなを笑顔にしたかっただけなのに。
・・・・・・どこで間違えたんだろ」
俺は答えを探しながら、ただ頷いた。
落ち葉が、同じところで弧を描いていた。
「……母さんに、似てるな」
思わず口をついて出た。
妹は少し目を見開き、それから笑った。
「嫌なこと言うね……でも、そうかも」
俺は続けた。
「母さんは、誰かに愛されるたびに、不安になって。
最後には遠くへ行ってしまった。
お前は……また会いにきた。
ずっと強いよ」
妹は俯いたまま、指先で缶の縁をなぞった。
その仕草に、ほんの一瞬、甘えるような気配が混じる。
かつて、誰かに許しを乞うように笑っていた頃の名残。
けれど、すぐに彼女は顔を上げた。
瞳の奥には、ためらいと決意が同居していた。
「お兄ちゃん、優しいね。
でも……もう、そういう優しさに寄りかからないようにしてる」
彼女は、少し笑って言葉を継いだ。
「今は、古いカフェで働いてるの。朝は早いけど、お客さんの顔を覚えたり、同僚の子と段取りを工夫したり……そういうの、けっこう楽しいんだ」
その口調はどこか誇らしげで、かつて“支えられる側”だった少女が、いまは“支える側”として世界に立ち始めていることを、自然に語っていた。
「守ってほしいとか、甘えたいとか、そう思うのは簡単だけど、もう違う。今は、ちゃんと自分で生きたい」
俺はうなずき、その手に触れようとして、止めた。
触れなくても、伝わるものがあった。
そのとき、不意に――あの灰色の世界の感触がよみがえった。
かつて誰かに見透かされた、内なる冷たい波。
長い時間をかけて、少しずつ色を取り戻してきたその海が、
いま、妹の目の前で静かに光を映している気がした。
風が少し強くなってきた。
公園の端にある小料理屋から、みりんと出汁の煮物の香りが漂ってくる。
その匂いに、ふと昔の朝を思い出した。
「お兄ちゃんの作るご飯、好きだったな」
妹がぽつりと言う。
「キャベツの芯とにんじんの皮のやつ。
あれ、今でも覚えてる」
「俺も、あの味に救われてたよ」
妹は静かに笑い、「そっか」とだけ言った。
二人の間に、懐かしい温度がじわりと広がった。
けれど、もうあの頃には戻らない。
代わりに、“今のふたり”の時間がゆっくりと動き始めた気がした。
午後の日差しが傾き、影が長く伸びた。
妹がぽつりと尋ねた。
「お兄ちゃんは、私を赦せるの?」
「赦すとか、そういうことじゃないと思う。俺も、お前にいろんなものを押しつけてきた。
“守ってやらなきゃいけない存在”って。
そうしてないと、自分が壊れそうだったんだ」
・・・・・・言葉にすると、どれもホントのようで、どれも的外れな気がした。
妹は、目を細めて俺を見つめた。
そのまなざしに、怒りも涙もなかった。
ただ、穏やかな光だけがあった。
「ありがとう。
……たぶん、それで十分だよ」
彼女は立ち上がり、噴水の方へ歩いた。
水しぶきが夕陽を受けて、金色に輝いている。
「どこへ行く?」
「わからない。
でも、自分の足で歩いてみるんだ」
俺も立ち上がり、少し距離を保って並んだ。
夕暮れの空気はさらに冷たくなり、骨の中まで染み込んでくる。
「また会える?」
「どうだろう。
でも、もう“会わなくちゃ”って思わなくても平気」
妹は微笑んで、夕日の方へゆっくりと歩き出した。
その背中は、もう誰の影もまとっていなかった。
ベンチに残された缶コーヒーは、まだ少し温かかった。
それを手に取ると、指先に残るぬくもりが静かに広がる。
妹の匂いがした気がした。
空の色が橙から群青に変わる。
噴水の水が、ひとしきり光ってから闇に溶けた。
街はひとつ、またひとつと灯りを点していく。
そのどれもに、それぞれの呼吸がある。
——光のほうへ。
その言葉が、静かに海の底を揺らした。
――――――――――――――――――――
◆あとがき
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
『やっぱり、お兄ちゃんのご飯がいちばん好き』から続く物語は、ここでひとまず幕を閉じます。
影の中で迷っていた登場人物たちが、ようやく“自分の足で歩き出す”ところまで来ました。
この作品を書いているあいだ、私自身も過去の記憶や関係を思い出していました。
光というのは、いつもまぶしいものではなく、
むしろ、淡くても確かに“そこにある”ものなんだと感じます。
兄妹の物語を読んでくださったあなたの中にも、
それぞれの「光」が残れば嬉しいです。
光のほうへ 沙知乃ユリ @ririsky-hiratane
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます