【閑話】第4.5話 神のいない季節に、母は祈る

ネタバレを含む閑話回となります。

ネタバレしたくない方は第1話からどうぞ。


※本編の重大なネタバレを含みます。

 第4章 第4話読了後に読むことをおすすめします。














―――


社務所の窓を抜ける風の匂いで季節の機嫌を読むのが、私の癖だ。

その年の春は、いつもよりひんやりしていた。


娘が学校から帰るなり、ぱっと私の前に来て言った。


「きょうね、転校生がきたんだよ。天野 雪杜くんっていうの。

 すっごくかわいくて、みんなメロメロだったの」


声は弾んでいるのに、どこか慎重さが混じっていた。


「咲良はどう感じたの?」


そう聞くと、少し考えてから答えた。


「かわいいとは思うよ。

 でも……なんか、目が冬みたいに冷たかった」


――冬。


子どもが使うには重い言葉だ。

その一言の落ちた空気が、不自然に冷たかった。

子どもは気配に敏感だ。その子の周りに何かあるのだと、胸がざわついた。


その確信が形になったのは、夏の入口だった。


担任の先生が倒れ、急遽開かれた保護者会。

子どもたちのいない教室は本来もっと温かいはずなのに、黒板の匂いも残る熱も揃っているのに――風が通らなかった。

ついさっきまで、誰かを中心に渦が巻き、跡だけが残ったような空気。


説明の曖昧さより、私はその“呼吸の乱れ”が気になった。


その夜、咲良が寝る前に言った。


「……天野くん、学校に来なくなっちゃったの。

 先生も変わっちゃったし……なんか、怖いよ」


私は胸の奥で静かに息を整えた。

言葉にならない乱れが確かにある。


「ねぇ、お母さん。

 ……人を好きになるって、怖いこと?」


その問いに、私は髪を撫でながら答えた。


「怖いわよ。好きになるって、祈りと同じなの。

 届くかどうか分からないから……怖いのよ」


咲良は、嬉しさと不安の混ざった顔で笑った。

その表情が静かに胸の奥へ沈んでいく。


―――


三月。

雪解けの匂いが境内に入りはじめたころ、娘は弾むように帰ってきた。


「きょうね“御珠ちゃん”って子が転校してきたの!……なんか神様みたいだった」


その名前を聞いた瞬間、胸の底がひとつ震えた。

“御”と“珠”が並ぶだけで、ただの子どもではないことが分かる。


娘は遠足の日にも嬉しそうに笑った。


「御珠ちゃんね“弁当神事”なんて言うんだよ。変だけど……可愛いの」


咲良が御珠の異質さを恐れないことに、私はほっとした。

この子は、光にも影にも優しい。


けれど、梅雨が始まるころ――その優しさが初めて咲良を傷つけた。


雨の日の午後。

軒下の薄暗がりで、咲良が膝を抱えていた。

言葉は強がっていても、指先はずっと震えていた。


「……御珠ちゃんと天野くんと一緒にいたいだけなのに……

 なんか、女子の子たちに変な目で見られて……」


軽い意地悪、嫉妬の矛先――小学生の世界にはよくある痛みだ。

でも、咲良の優しさはそんな棘にいちばん早く触れてしまう。


「私、何かしたのかな……。

 ただ仲良くしたいだけなのに……迷惑なのかな……」


ぽたりと落ちた涙は、まだ恋の形をしていない。

大切な友達との“距離のつらさ”を初めて知った涙だった。


私は娘を抱き寄せ、雨音と一緒にその震えを受け止めた。


――この子は、優しすぎる。

 だから世界の小さな歪みで真っ先に擦りむく。


その時の私は、まだ知らなかった。

この小さな痛みが、秋にはひびに変わり、冬には胸を割るほど深くなることを。


―――


娘が林間学校から帰ってきた日の夕方。

玄関の引き戸が開く音で、私はすぐにわかった。


――あぁ、この子は今日、泣かずに帰ってきたんだ。


娘の歩き方がいつもより少しだけ静かで、声を出さない“疲れ”が、空気に薄くにじんでいた。


「おかえり」


そう言うと、咲良は小さく笑った。

その笑みは、泣きたさを押し込めた子の笑い方だった。


いつもなら「聞いて聞いて!」と

今日の出来事を全部話してくれるのに、その日は何も言わない。


ただ、靴を脱いで、私の前に立った。

私はそのまま何も言わず、咲良を抱きしめた。


その瞬間、咲良の何かが壊れたように泣き始めた。


私は背中に手を回し、娘の呼吸が落ち着くのを待ちながら、今日、この子の身に起きた何かを静かに想像した。


詳しいことは、聞かなくても分かった。


咲良は見てしまったのだ。

自分がどんなに手を伸ばしても届かない距離にある光を。


友達だと思っていた男の子。

無邪気で優しい女の子。

その二人が、自分だけ知らない場所でゆっくりと並び始めたという事実を。


それは幼い恋が初めて感じる敗北であり、同時に祝福したい気持ちでもある。

複雑で、まだ名前を持たない感情。


咲良は、それをただ抱えて帰ってきた。


私は抱きしめたまま、小さく息を落とした。


――この子は誰かを好きになったのね。


恋と呼ぶにはまだ幼い。

けれど、胸の奥に落ちた火種は、もう痛みとして息をしていた。


咲良はしばらく私の胸に顔を押しつけ、呼吸をひとつずつ整えていった。

泣くたびに小さく震える肩が、次第にあたたかくほどけていく。


やがて、咲良はそっと顔を上げた。

涙の跡が残ったままなのに、目だけが少し強くなっていた。

何かを手放し、何かを飲み込んだ子の目だった。


その変化が、胸の奥に静かに響いた。


――あぁ、この子は、今日ひとつ大きくなったのだと。


抱きしめた腕の中で、それだけが確かだった。


―――


夏祭りの昼、境内には太鼓の音と陽炎の揺れ。

咲良が浴衣を抱えて駆け込んできて、その後ろに二人――天野 雪杜と、白い光をまとった少女がいた。


「さて、あなたが“御珠ちゃん”ね?」


その瞬間、空気の密度が変わった。

神職としての勘が先に反応する。香の匂いに混じって“祈りの残り香”が胸へ入ってきた。


「う、うむ……妾が御珠じゃ。世話になる」


「なるほど。気配が違うと思った。

 これは祈りの残り香――神様が人の姿を取っておられるのね」


咲良と雪杜が息をのむ気配。

御珠は、淡い影を宿した目で静かに言った。


「妾は……この地で、少しだけ“人の理”を学んでおる」


――わかっている子だ。

いずれ消える側であることを、自覚した目だった。


だから私は、母としての気持ちをほんの少し乗せて言った。


「せっかくだし浴衣を着て祭を見ていらっしゃいな。

 神様にも、少し人の夏を味わってもらわなくちゃ」


御珠はふっと笑った。


「……ふむ。妾に“夏”を勧めるとは、ぬしもなかなかの策士じゃの」


咲良に御珠を任せて奥へ行かせると、残ったのは私と雪杜くんだけ。

改めて向き合うと、見た目は普通の男の子なのに、目の奥だけが深い。


「あなたが、天野 雪杜くんね。娘が、ずいぶんお世話になっているみたい」


「い、いえ、そんな……」


けれど、母としてひとつだけ伝えたかった。


「……なのに、あの子、よく泣いて帰ってくるのよ」


雪杜の表情が曇る。

この子は、本当に優しい。


だから、少しだけ言葉を柔らかくした。


「あの子は優しいから、自分の気持ちをうまく隠してしまうのよ。

 もしあの子がまた誰かのために泣くなら、その涙を無駄にしないであげて。

 それだけ、覚えておいて」


雪杜は小さく息を飲み、そして深く頷いた。


……強く言いすぎたかもしれない。

でも、娘を泣かせる誰かを前にしたら、母なんてみんなこんなものよ。


―――


夜の境内は、灯が少しずつ消え、太鼓の音が遠くへ溶けていった。

石段の影で、咲良がひとり、川の方を静かに見ている。


灯籠の明かりに浮かぶ二つの影――雪杜くんと御珠ちゃん。

水面の光が揺れ、その輪郭はもう人の形を保つのが難しそうだった。


私は咲良の隣に立ち、そっと言う。


「――あの子、御珠ちゃん。もう長くは人の姿を保てないでしょうね」


咲良は短く息を飲み、目を伏せた。


「……分かってる。

 でも、あの顔を見たら、なんか……もうそれでいいって思った」


痛みと納得が同居した声。

咲良は失う恋を自分の中で静かに抱えていた。


私は娘の横顔に、ひとつ祈りを添えるように言った。


「祈りってね、終わりじゃないの。

 形を変えて、また誰かの心に戻ってくるの。

 だから……そんなに悲しまなくていいのよ」


咲良の瞳の奥で、小さな光が揺れた。


「うん……ありがとう、お母さん」


この子は、悲しむだけじゃなく、ちゃんと歩き終えようとしている。

その強さが胸に沁みた。


私は少しだけ視線を川へ戻す。


「――あの子たちの灯が消えるころ、この夏の祈りも静かに閉じる。

 でも、風は残るわ。あの子たちの息みたいに」


咲良は、まるで痛みの奥に答えを見つけた子のように、ふっと笑った。


「……風、か。だったら、私もその風でいたいな。

 あの二人を、そっと見守る風になれたら、それでいい」


恋が“欲する”から“祈る”へ歩いていった瞬間だった。

こぼれた涙は、悲しみだけの色ではない。


私はそっと咲良の背を撫でた。


「神さまの灯はね、そう簡単には消えないわ。

 たとえ見えなくなっても、ちゃんと人の心に残るものだから」


遠くで太鼓がひとつだけ鳴り、

その音と一緒に、咲良の夏の恋は静かに風へ変わっていった。


―――


夏が終わると、神社には澄んだ風が吹き始める。

蝉の声が遠ざかり、代わりに葉の擦れる音がよく響く季節。


咲良は夏祭りの日から、少しだけ表情が変わった。

泣きじゃくる子どもの顔ではなく“痛みを胸の底で静かに抱えて、前へ進む子”の顔になっていた。


あの夏の夜、咲良は確かに恋を手放した。

風になって、祈りになって。

だからこそ、その後の咲良は強かった。


……強かった、はずなのに。


秋の文化祭のころ、私は気づいた。

咲良の胸の奥で“別のひび”が入り始めていることに。


―――


ある日の夕方、咲良がいつものように社務所に帰ってきて、靴を脱ぎながら言った。


「ねぇ、お母さん。わたし、シンデレラ役になっちゃった」


“なっちゃった”。

その曖昧な言い方に、最初の違和感があった。


「嬉しくないの?」


と聞くと、咲良は少しだけ笑った。


「嬉しいよ?でも……みんなの反応が、なんか変でね。

 怒ってるわけじゃないのに、笑ってるのに……冷たいの」


咲良は嫌われていると感じたわけじゃない。

ただ、何かを押し殺している空気の中に立たされた。

その息苦しさが、彼女の胸を押していた。


私には分かった。

それは、嫉妬の影。

でも、直接ぶつけられない嫉妬。


夏祭りの夜に、咲良が恋を手放したのと同じように、秋の教室の女子たちは敵意を手放せないまま押し込んでいた。


そしてその矛先は、静かに咲良へ向いた。


教室の子たちは、雪杜の特別な光に気づき始めている。

でも争うことはできない。

だから、沈黙で刺す。


その沈黙の鋭さを、咲良は誰よりも先に感じ取ってしまった。


―――


体育館の扉が閉まったあと、均一な拍手の余韻が、風のように廊下へ流れていった。

温度のない成功の音。

秋の世界そのものが、静かに鳴っているようだった。


衣装を抱えて咲良が出てくる。

笑顔をつくっているのに、頬の影が震えて見えた。


私はその場で娘を待ち、そっと呼びかけた。


「……咲良」


咲良は足を止め、息を浅く吸った。


「お母さん……」


声の奥に、胸のざわつきが滲む。


「お疲れさま。すごく……綺麗だったよ」


私は微笑みながら、咲良の表情だけをじっと見た。

言葉よりも、表情の揺れのほうが雄弁だから。


咲良は笑おうとしたが、その目元がわずかに歪む。


「う、うん……見ててくれたんだ……ありがとう……」


そこで言葉が切れた。

唇がかすかに震え、胸の奥に理由のないざわつきが生まれているのが分かる。


その痛みがどこから来ているのか、咲良自身がまだ分かっていない。


だから、私が代わりに言った。


「……無理してるよね、今」


咲良がびくりと息を呑む。

隠した気持ちを見透かされたときの顔だ。


「私、そんな……ただちょっと……」


「胸、痛いんだよね」


責めず、慰めず、ただ“事実”として置く。

それがこの子には届く。


咲良はその一言で視線を落とした。


「誰かのことを大事に思いすぎると、こうなるのよ。

 あの子のこと……だよね?」


言葉にはしない。

けれど、唇の震えがすべてを語っていた。


私は咲良の肩にそっと手を添える。


「言わなくていいの。

 でもね……泣きそうなら、泣いていいんだよ。

 誰かのために出る涙って、心がちゃんと動いてる証だから」


けれど咲良は小さく首を振る。

泣き方が分からない子どものように。


強さと弱さが同じ場所で絡まっている時期。

いまの娘は、小さな痛みにすぐ触れてしまう。


「……大丈夫だから」


微笑んで言うと、咲良はかろうじて頷き、衣装を抱え直して早足で去っていった。

その背中は、まっすぐなのに、どこか頼りなく揺れていた。

廊下には、娘が置いていった痛みの気配だけが残った。

遠くで笑い声が響き、体育館の照明がひとつ、またひとつと落ちていく。


窓の隙間を秋の風が通り抜ける。

夏にはあったはずの気配が、今はどこにもない。


私は、ゆっくり目を伏せた。


「……御珠ちゃん」


神様の名前を呼ぶと、胸の奥で小さく痛みが走った。


「ねぇ……神様。

 あの子、ずっと胸を痛めてるよ。

 あなたが消えてから、ずっと」


返事はない。

風だけが、紙を揺らすように通り過ぎる。


それでも続けた。


「雪杜くんのこと……あんなに大切に思ってるのに、誰にも言えなくて……苦しそうで」


私の手が、ぎゅっと拳をつくる。

母親としての無力さが、指に滲んだ。


「どうして誰も気づかないんだろうね。

 あの静けさの中で苦しむ子がいるって……

 こんなに分かりやすいのに」


ひと呼吸置いて、胸の前でそっと手を組む。


祈りの形を取るのに、少し勇気がいった。

今の世界には、もう神様はいないから。


それでも祈る。


「……御珠ちゃん。

 あなたが守れないなら……せめて、どこかで見ててあげて」


窓から差す淡い光が、私の影を長く伸ばした。


「咲良……あの子はね、いつも自分より誰かの幸せを優先しちゃうの。

 その優しさが、どうか折れませんように」


風がまた一度だけ通る。


私は目を閉じ、最後の祈りをささやいた。


「……御珠ちゃん。どうか……咲良を……」


返事はない。

ただ、静寂だけが残った。


けれどその静寂にふわりと残った祈りは、確かに娘と私の間に、消えない灯のように息づいていた。


―――


落ち葉がすべて地面に降りきる前、神社の空気はゆっくり冬へ傾き始める。

風の温度が変わり、木々が呼吸を潜める季節。


あの子は今日も学校へ行き、私は今日も社務所で手を合わせる。


祈りは習慣であり、仕事であり、そして――母になってからは、日記のようなものになった。


最近の咲良は、よく空を見上げる。

理由は言わない。

けれど胸の奥に何かを抱えている子は、いつも視線が少しだけ遠くなる。


「……御珠ちゃん」


私は誰もいない拝殿で、そっと呼ぶ。

返事はない。

それでも、呼ばずにはいられない。


あなたが消えてから、あの子の季節はずっと先へ進めないまま止まっているの。


雪杜くんは優しい子だ。

けれど優しさだけでは埋まらない隙間が、確かに咲良の胸にある。


それは恋の形をした隙間ではない。

もっと静かで、もっと深い。

恋を諦めた子だけが抱える、あの透明な痛み。


「……咲良はね、人の痛みに気づきすぎるの。

 だから、自分の痛みを後回しにしてしまうのよ」


誰に聞かせるでもなく、吐くように、落とす。


木立の向こうで風が鳴り、鳥居の影が冬の角度で伸びていた。


私は手を合わせ、願いとも祈りともつかない言葉を胸の奥に押し込む。


――あの子が、無事でありますように。

 どんな日が来ても、立ち戻れる光を見失いませんように。


母親の祈りは、神への祈りよりもずっと我儘で、ずっと勝手だ。

でも、冬が来る前に、どうしてもひとつだけ残したかった。


咲良の痛みが、あの夏の灯と同じように、流れて残るものでありますように。

ただそれだけ。


風が一度だけ吹いて、鈴が小さく鳴った。

それが返事なのか、ただの季節の音なのかは分からない。

けれど私は、その音を胸の奥にしまった。


神のいない季節にも、祈りは残る。

灯のように、風のように。


――そして冬は、ゆっくり始まった。

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