第2話 約束を胸に
教室の時計が、遅れているみたいに遅かった。
黒板のチョークの粉が、午後の光の中で静かに舞っている。
四限目の社会科。
石田の声が、どこか遠くで揺れていた。
「……では、江戸時代の米の値段は——」
生徒の誰もが上の空だった。
転校生が現れてから、まだ半日も経っていない。
なのに空気はもう、昨日までと違う匂いをしていた。
御珠は窓際の席で、頬杖をつきながら静かに外を見ている。
その髪に、光がささやくように揺れた。
雪杜は息を潜めていた。
筆記用具の音ひとつで視線が集まりそうで、動くこともできなかった。
——あの宣言のせいだ。
『妾は雪杜の友達じゃ。理由あって一緒に住んでおる』
御珠のあの一言が、世界の秩序をひっくり返した。
やがて授業を終える鐘の音が聞こえる。
「……はい、ここまで。給食の準備をしましょう」
石田の声が救いのように響く。
教室が一斉にざわめき、椅子の脚が床を擦る音が連鎖した。
配膳係が立ち上がり、食器の音が響く。
パンの袋を開ける音、スープの湯気、揚げ物の香り。
日常のはずなのに、どこか焦げたような匂いが混じっていた。
雪杜は机の上を整えながら、ちらりと御珠を見た。
彼女は給食当番の動きをじっと観察している。
牛乳瓶を扱う手つきさえ、儀式のように見えるのか、その瞳が真剣すぎて、誰も声をかけられなかった。
「はい、全員揃ったな。じゃあ——」
石田が手を合わせようとしたその瞬間、御珠がすっと手を挙げた。
「待て。祈りとは、ただの挨拶ではあるまい。
此度の“いただきます”の定義を確認しようぞ」
ざわつく教室。
石田が額を押さえる。
「御珠さん、あとで——」
「食とは命の受け渡しじゃ。
“いただきます”はその誓約、命と命の縁結び。
妾が保証しよう。ここにおる者たちの命は、互いに循環する」
一瞬の静寂。次いで爆笑。
「まじで神様っぽいこと言い出した!」
「言い方が厨二だけど、なんかかっこいい!」
笑いの中で、御珠だけが微笑まなかった。
翠の瞳が、何かを測るように教室をなぞる。
空気の奥で、人の“熱”が歪んでいるのを感じ取っていた。
給食はいつも通りのメニュー——パン、スープ、白身魚のフライ。
だが今日は、味よりも熱が強い。
笑いが油の匂いの中で泡立ち、教室の温度が上がっていく。
「ねえ天野くん、休みの間どこか行ってたの?今度遊びに行ってもいい?」
「ずるい!私も!ね、連絡先ちょうだい!」
「御珠さんとはどういう関係なの?」
声が重なる。笑顔が貼りつく。
その笑いは、焦げの匂いがした。
瞳の奥が、光ではなく熱を宿している。
御珠は箸を置いた。
「……この教室、空気が腐っとる」
誰も聞いていない。
女子たちは雪杜を囲み、男子たちは視線を尖らせる。
「出たよ、天野ガールズ。お姫様抱っこでもしてもらえよ」
「お前のせいで、みんなおかしいんだよ」
軽い笑い声。だが音が乾いていた。
机の脚が蹴られ、震動が雪杜の手まで伝わる。
呼吸が浅くなる。指先の感覚が遠のく。
御珠の指が机の下で動いた。
空気がわずかに波打つ。
「——やめよ」
その瞬間、時間が止まった。
チョークがカタカタと震え、カーテンがゆらめく。
光が御珠の髪に集まり、藍が白に滲む。
「己の劣等を、他者の光で覆うな。
ぬしたちの“愛”は、祈りではなく呪いへ変じておる」
声は静かだったが、空気が悲鳴を上げた。
どこかで風鈴が鳴る。
凍りついた世界の中で、その音だけが生きていた。
そして——時が流れ出す。
誰かの息が詰まり、石田が叫ぶ。
「御珠さん、もういい!落ち着きなさい!」
御珠は軽く首を傾げた。
「妾は落ち着いておる。ただ、見ておれぬだけじゃ。
石田よ。ぬしは、何を見ておる?」
言葉が教室を貫く。
石田の口が開きかけ、閉じる。
御珠の視線は、雪杜の肩の震えへと向かった。
彼女の肩が、同じように震えた。
——このままでは、また壊れる。
午後の授業。黒板の文字は雪の粒のように形を保てず、視界の端で溶けていく。
雪杜の心は、もう現実の音を受け取らなかった。
放課後。昇降口。
靴箱から漂う、子供達の汗と、乾いた靴の匂いが胸の奥を締めつける。
外は薄い夕焼け。
ようやく人の声が遠ざかり、静寂が戻る。
「……どうして、みんな壊れていくんだろう」
雪杜が呟く。
自分の声が、自分の耳に遠い。
その瞬間、何かが胸の奥で音を立てて割れた。
御珠は答えず、胸に手を当てた。
指先から藍色の光が滲み、雫が形を取る。
弧の途切れた、小さな命の形——勾玉。
「雪杜。これは妾の魂の欠片じゃ。
ぬしの魅了の流れを、少しばかり引き受けよう」
「魂の欠片……御珠、それって危ないんじゃ——」
「妾を誰と思うとる。神ぞ?」
笑う口元が、かすかに震えていた。
勾玉が雪杜の掌に乗る。
ひんやりしていたが、すぐに温かくなる。
やがて掌の中で脈打つように光る。
「これは妾の息の欠片。
ぬしの心が凍るとき、これが息を吹き返す。
ぬしの痛みを、妾が少し引き受けるのじゃ。
妾の物とお揃いじゃぞ?」
そう言って胸の勾玉を掲げて見せる。
その瞬間、御珠の髪の色が、ほんのわずかに薄まった。
彼女は目を伏せ、静かに息を整える。
遠くで、風鈴が再び鳴る。
「代償は妾が払う。神の理など、知ったことか。
ぬしが“普通”に息をできるなら、それでよい」
雪杜は頷こうとしたけれど、喉が詰まった。
息がうまく吸えない。
胸が熱い。熱いのに、涙が冷たい。
「……ありがとう」
ようやく出た声は震えていた。
御珠が顔を上げる。
彼の頬を伝う涙を見て、そっと目を細めた。
「礼は要らぬ。——逃げるな。明日も行くのじゃ」
雪杜は嗚咽まじりにうなずいた。
その瞬間、胸の奥が急にほどけていく。
涙が止まらない。
泣きながら、思い出す。
ずっと前、まだ壊れる前の夕暮れ。
母の手を握って歩いた帰り道。
笑っていた自分。
誰かを傷つけることを知らなかった頃の、真っすぐな心。
あれほど遠くに置いてきた記憶が、いま、御珠の声と共に戻ってくる。
声にならない嗚咽が漏れ、身体の奥で何かが再び息をした。
御珠は何も言わず、その横顔を見つめていた。
翠の瞳の奥に、春の雪のような光が揺れている。
靴音が帰り道を刻む。
そのリズムは、給食の器が触れ合った音に似ていた。
“命をいただく”という祈りの残響。
人の時間の中に、神が歩幅を合わせる音。
風は冷たい。
けれど胸の奥には、確かに息があった。
それは泣きながら吸い込んだ、最初の“生きる”の音だった。
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