第16話 戦場へ

 後方で祈ることしかできない無力感と、ガロウが危険だという知らせ。

 その二つが、ユンの背中を強く押した。

 彼は、リリィたちの制止を振り切り、土煙と血の匂いが立ち込める戦場の中心へと、ただひたすらに走った。


「危ない!」


 味方の獣人が叫ぶ。すぐそばを、騎士の振り下ろした剣が通り過ぎていく。

 恐怖で足がすくみそうになるが、ユンは奥歯を食いしばって前へ進んだ。ガロウの元へ、一刻も早く。その一心だけが、彼を突き動かしていた。


 戦場の光景は、地獄そのものだった。

 傷つき、倒れていく仲間たち。勝利を信じて雄叫びを上げる者と、苦痛に呻く者。

 その全てが、自分の存在が引き起こしたもののように思えて、胸が張り裂けそうだった。


(ごめんなさい、ごめんなさい……!)


 心の中で謝罪を繰り返しながら、ユンは走り続ける。

 やがて、戦場の中心で、一際激しい戦闘が繰り広げられている場所を見つけた。

 銀色に輝く巨大な狼――ガロウが、数人の騎士に囲まれている。その中には、ひときわ壮麗な鎧を身につけた騎士団長ギデオンの姿もあった。


 ガロウは奮戦していたが、彼の体には既にいくつかの傷が刻まれ、その動きは普段よりも精彩を欠いていた。

 ギデオンたちの連携は巧みで、ガロウはじりじりと追い詰められているように見える。


「ガロウさん!」


 ユンが叫んだ声は、剣戟の音にかき消されそうになった。しかし、ガロウの鋭い耳は、その声を確かに捉えていた。

 彼は信じられないといった表情で、声のした方を見る。そこに、いるはずのないユンの姿を見つけ、その金色の瞳を驚愕に見開いた。


「ユン!? なぜここに! 戻れ!」


 ガロウの叫びも、ユンには届かない。いや、届いていても、止まるつもりはなかった。

 彼は、抱えてきた大きな布を広げ、全身全霊の魔力を注ぎ込んだ。


「お願い……みんなを守って!」


 祈りを込めた瞬間、ユンの手の中の布が、目も眩むほどの眩い光を放ち始めた。

 それは、まるで天から光が降り注いだかのような、神々しい光景だった。

 戦場で争っていた者たちが、皆、何事かとその光に動きを止める。


 光の布は、ユンの意思に応えるように空へと舞い上がり、巨大なドーム状の結界となって、獣人たちの軍勢の上空を覆った。


 その直後、騎士団の後方から放たれた魔法の矢の雨が、結界に降り注いだ。

 本来ならば、多くの獣人たちに被害を与えたであろうその攻撃は、しかし、光の結界に触れた瞬間、ことごとく霧散していく。


「なっ……! 魔法が効かん!」

「なんだ、あの光は……!?」


 騎士たちが動揺する。だが、奇跡はそれだけでは終わらなかった。


 結界から降り注ぐ光の粒子が、傷ついた獣人たちの体に触れると、みるみるうちにその傷が癒えていく。

 深手を負って倒れていた者も、力を取り戻して立ち上がった。それは、戦場全体を覆う、広範囲治癒の奇跡だった。


「おお……! 傷が……力が湧いてくる!」

「聖子様だ! 聖子様が我らを守ってくださっている!」


 獣人たちの士気が、爆発的に高まった。形勢は、一気に逆転する。


 ガロウもまた、自らの傷が癒えていくのを感じながら、その光景を呆然と見上げていた。

 そして、その奇跡の中心に立つ、か細い青年の姿を見つめる。


 彼は、ただ守られるだけのか弱い存在ではなかった。

 たった一人で、戦況そのものを覆すほどの、絶大な力を持っていたのだ。


「……ユン」


 ガロウの胸に、愛おしさと、そして無茶なことをした彼への怒りとが同時に込み上げてくる。

 しかし今は、この好機を逃すわけにはいかない。


 力を取り戻したガロウは、再びギデオンへと向き直る。その金色の瞳には、先ほどまでの焦りは微塵もなかった。


「騎士団長。これが、俺の番の力だ。お前たちに、俺たちを打ち破ることはできん」


 戦場に現れた聖子の奇跡。

 それは、獣人たちに勝利を確信させ、騎士団を絶望させるには、十分すぎるほどの光景だった。

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