第9話 神殿の追手
ユンが獣人の国で穏やかな日々を過ごしている頃、人間たちの国、特に彼が逃げ出した神殿では、大きな騒動が持ち上がっていた。
一人の聖子が、忽然と姿を消した。
最初は、ただの脱走だと思われていた。役立たずの聖子がいなくなって清々した、と公言する者さえいた。
しかし、事態はすぐに異なる様相を呈し始める。
神殿の最奥、長老の私室。穏やかな笑みを浮かべた白髪の長老は、目の前の騎士団長から上がってきた報告に、ぴくりと眉を動かした。
「獣人の国、だと? ユンがそこにいることに、間違いはないのだな」
「はっ。国境付近の村からの情報です。次期族長となる狼獣人が、人間の青年を『番』として連れ帰ったと。その青年の特徴が、行方不明の聖子ユンと一致いたします」
騎士団長ギデオンの言葉に、長老は深く椅子に座り直し、指でこめかみを押さえた。
その表情は、大切な所有物を盗まれたかのようで、普段の温和な顔からは想像もつかないほどの苛立ちが滲んでいた。
「あの役立たずが、獣人の番だと……? 馬鹿な……」
他の神官や聖子たちは知らない。ユンの持つ力の、本当の価値を。
彼が紡ぐ糸が、ただ美しいだけではないことを。長老は、古文書の研究を通じて、その力の片鱗に気づいていたのだ。
それは、物理的な法則を超越する、奇跡の物質を生み出す力。使い方次第では、国一つを動かすほどの軍事力にも、あるいは、人の寿命すら超える不老の秘薬にもなり得る、禁断の力。
長老は、ユンを「役立たず」として神殿の隅に追いやり、誰にも注目されないように隔離していた。
それは、ユンの力が完全に覚醒し、自身で制御できるようになるのを待つため。そして、その力を熟成させ、独占するためだった。
神殿で冷遇したのは、彼の心を折り、自分に絶対服従させるための、周到な計画だったのだ。
それが、まさか獣人などに攫われるとは。計算外の出来事に、長老の野望は大きく狂い始めていた。
「獣人どもめ、我らが神殿の至宝を盗みおって……」
長老は静かに立ち上がると、窓の外に広がる壮麗な神殿の景色を見つめた。
その瞳には、聖職者らしからぬ、どす黒い野望の炎が揺らめいていた。
「ギデオン騎士団長」
「はっ」
「精鋭を集め、直ちに獣人の国へ向かえ。目的は、聖子ユンの奪還だ。獣人どもが抵抗するのであれば、実力行使もやむを得ん」
「……しかし長老様、獣人の国との全面戦争となれば、我が国も無傷では済みません」
ギデオンの懸念はもっともだった。しかし、長老は冷ややかに言い放つ。
「これは戦争ではない。神に仕える我らが、野蛮な獣に攫われた同胞を救い出す、聖なる奪還作戦だ。大義は我らにある。それに……」
長老は振り返り、不気味な笑みを浮かべた。
「ユンの力さえ手に入れれば、我が国の騎士団は無敵となる。多少の犠牲など、問題にならん」
その言葉に、ギデオンは息を呑んだ。
長老がユンの力に異常な執着を見せていることは感じていたが、その野望がこれほどまでに深いとは。
しかし、騎士として神殿の命令は絶対だ。彼は迷いを振り払うように、力強くうなずいた。
「御意のままに」
ギデオンが退室した後、長老は一人、ほくそ笑んだ。
(待っておれ、ユン。お前は私のものだ。お前のその奇跡の糸で、私は神にさえなってみせるわ)
ユンの本当の価値を知る者は、獣人だけではなかった。
そして、その最も邪悪な欲望は、聖なる仮面をかぶり、静かに、しかし確実にユンへと迫っていた。
神殿騎士団の出立を告げる鐘の音が、空に高く鳴り響いた。
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