第5話 至宝の糸

 獣人の国での生活が始まって数日、ユンはまだ戸惑いの中にいた。

 ガロウは毎日顔を見せに来るが、相変わらず口下手で、美しい花や珍しい石を黙って置いていくだけだ。

 その不器用な優しさが、ユンにとってはくすぐったくもあり、どう反応していいか分からなかった。


 手持ち無沙汰になったユンは、部屋で過ごす時間、いつものように指先から糸を紡いでいた。

 それが、彼にとって唯一の心を落ち着かせる術だったからだ。

 魔力を込め、意識を集中させると、指先からきらきらと輝く銀色の糸が、途切れることなく生み出されていく。


 ちょうどそこへ、ユンの様子を見に来たガロウと、彼の側近である陽気な熊獣人のブルクが入ってきた。


「ユン、調子はどう……だ……?」


 ガロウは、ユンの指先から生み出される光の糸を見て、言葉を失った。

 あの夜、森で見た奇跡の光景が目の前で再現されている。

 ブルクもまた、目を丸くしてその光景に見入っていた。


「こ、これは……なんと美しい。ガロウ、これがユン殿の力なのか?」

「ああ。この糸が、俺の命を救ってくれた」


 ユンは、二人の真剣な眼差しに気圧され、思わず糸を紡ぐのをやめた。


「あの……変ですか?」

「いや、とんでもない!」


 ブルクが興奮したように叫んだ。

「少し、その糸を触らせてもらっても?」と尋ねられ、ユンはこくりとうなずく。

 ブルクは、床に溜まっていた糸の塊を、ごつごつとした大きな手で慎重に持ち上げた。


「軽い……まるで光そのものを持っているようだ。それに、なんと強靭な! 俺の力でも、びくともしないぞ!」


 ブルクが両側から力一杯引っ張っても、細い糸は一本たりとも切れなかった。

 それどころか、淡い光を放ち、ブルクの手のひらにあった小さな切り傷が、みるみるうちに塞がっていく。


「おおっ! 傷が治った! これは一体……!」


 驚愕するブルクを見て、ガロウもまた確信に満ちた目でうなずいた。


「やはり、ただの糸ではない。聖なる癒やしの力も宿っている」


 ガロウはユンに向き直り、「この糸で、布を織ることはできるか?」と真剣な顔で尋ねた。


「え……布、ですか? やったことはないですけど……たぶん、できると思います」


 ユンがそう答えると、ガロウはすぐにリリィを呼び、機織り機を用意させた。

 初めて触る機織り機に戸惑いながらも、ユンは自ら紡いだ糸を使い、見よう見まねで布を織り始めた。

 銀色の糸は扱いやすく、驚くほど滑らかに美しい布地へと姿を変えていく。

 やがて、赤子の産着ほどの大きさの、光り輝く布が完成した。


 ガロウはその布を手に取ると、ブルクに合図をした。

 ブルクは腰に下げていた短剣を抜き、ためらうことなく布に突き立てる。


「えっ、危ない!」


 ユンが悲鳴を上げたが、金属と布がぶつかる甲高い音が響いただけだった。

 鋼鉄の刃は、薄い布を貫くことができず、逆に刃こぼれしている。


「……嘘だろ」


 ブルクが呆然と呟いた。国のどんな防具よりも強靭で、かつ治癒能力まで備えている。

 そんなものが存在するなど、にわかには信じがたかった。


 ガロウはその布を手に、ユンを連れて父である族長の元へと向かった。

 事情を聞き、実物の布を見た族長は、ゴクリと息を呑み、震える手でその布に触れた。


「間違いない……これは、古文書に記された『聖創の衣』そのもの……」


 族長が語るには、獣人族の間に伝わる古い伝説があるという。

 遥か昔、神に遣わされた聖者が、光の糸で織った布を獣人の祖先に与えた。その布はあらゆる邪を退け、傷を癒し、国に平和と繁栄をもたらしたと。

 その布は『聖創の衣』と呼ばれ、伝説上の至宝とされてきた。


「ユン殿。あなたのその力は、我々獣人族にとって、まさに神の御業に等しい。国を挙げて守るべき、至宝そのものだ」


 族長は深々と頭を下げた。ガロウも、ブルクも、そこにいた誰もが、ユンに畏敬の念のこもった眼差しを向けている。


 ユンは、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。


 神殿では、「役立たず」「無価値」と蔑まれ続けた、自分の力。

 治癒も浄化もできない、ただ糸を紡ぐだけの地味な力が、この国では伝説の至宝だというのだ。


 初めてだった。自分の存在が、自分の力が、これほどまでに肯定されたのは。

 胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。視界が滲み、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。

 それは、悲しみの涙ではなかった。生まれて初めて感じた、認められた喜びの涙だった。


 ガロウが、そっとユンの肩を抱き寄せた。


「言っただろう、ユン。お前の力は宝だと」


 その力強い腕の中で、ユンは声を上げて泣いた。

 長年、心の中に溜め込んできた孤独と悲しみが、温かい涙となって流れ落ちていく。

 やっと、自分の居場所を見つけられたような気がした。役立たずの聖子ではない。

 この国にとって、そしてガロウにとって、自分は必要な存在なのだと、初めて信じることができた瞬間だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る