第3話 運命の番
「運命の番」。
ガロウが放ったその言葉の意味を、ユンはすぐには理解できなかった。
神殿で読んだ古い書物の中に、獣人族に関する記述があったのを朧げに思い出す。彼らにとって「番」とは、魂で結ばれた唯一無二の伴侶を指す、絶対的な言葉であると。
「人違いでは……? 俺は、ただの人間で……」
か細い声で否定しようとするユンを、ガロウは力強い眼差しで遮った。
「違う。俺の魂が、お前が番だと告げている。この香り、この魂の震えは、他にあり得ない」
ガロウはユンの手を取り、その手の甲に自らの額を押し付けた。
それは、絶対的な忠誠と敬愛を示す、獣人族の最上級の挨拶だった。
ユンの指先に、ガロウの熱い吐息がかかる。その真摯な態度に、ユンは戸惑いながらも、嘘を言っているようには思えなかった。
ガロウが顔を上げた時、彼の瞳には抑えきれないほどの喜びが溢れていた。
口下手なのか、多くを語ることはしない。だが、その金色の瞳が、雄弁に彼の感情を物語っていた。
「やっと、会えた」
その呟きは、長い間待ちわびていた者だけが持つ切実さを帯びていた。
ユンが言葉を返せずにいると、ガロウは不意に立ち上がり、そして驚くべき行動に出た。
いとも簡単に、まるで羽を拾い上げるかのように、ユンをその逞しい腕に抱き上げたのだ。いわゆる、お姫様抱っこという体勢で。
「ちょっ……! な、何を……!」
突然のことにユンが慌てて抵抗しようとするが、屈強な獣人の腕の中で、彼の力など無に等しい。
ガロウはびくともせず、むしろ壊れ物を抱くかのように、ユンをしっかりと抱き直した。
「神殿には戻さない。お前は俺の番だ。俺の国へ来てもらう」
その言葉は命令であり、決定事項だった。朴訥とした口調だが、有無を言わさず相手を従わせる、王者の風格がそこにはあった。
ユンの意見など、最初から聞くつもりがないらしい。
「待って! 俺は、まだ心の準備が……それに、神殿から抜け出してきたばかりで……」
「問題ない。お前を守る」
会話がまるで成り立たない。ガロウはユンの抗議を意にも介さず、森の中を迷いなく歩き始めた。
安定した腕に抱かれ、揺れはほとんど感じない。しかし、心の動揺は収まらなかった。
役立たずと蔑まれ、息苦しい神殿から逃げ出してきたばかりだというのに、今度は強引な獣人に攫われている。
状況が目まぐるしく変わりすぎて、頭がついていかない。
「……下ろしてほしい」
「駄目だ。お前は疲れているだろう」
「自分で歩ける!」
「俺がこうしたい」
短い問答の後、ガロウはピシャリと言い放った。その横顔は真剣そのもので、冗談を言っている気配はない。
諦めたユンがぐったりと力を抜くと、ガロウは少しだけ満足そうに口の端を上げた。
歩きながら、ガロウはぽつりぽつりと語り始めた。
昨夜、敵対する部族の罠にはまり、深手を負ったこと。仲間とはぐれ、森の中で死を覚悟していたこと。そこへ、まるで月の光に導かれたかのように、ユンが現れたこと。
「お前の紡いだ糸は、ただの魔力糸ではない。聖なる力と、生命力そのものを感じる。あのような奇跡は、初めて見た」
ガロウの言葉に、ユンはハッとした。自分の力が、初めて誰かに認められた。それも、こんなにも真っ直ぐに。
胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
「でも、神殿では……役立たずだって……」
思わず漏れた弱音に、ガロウはぴたりと足を止めた。そして、抱きかかえたままのユンを、厳しい表情で見下ろした。
「誰がそんなことを言った」
「……みんなが」
「そいつらは見る目がないだけだ。お前の力は、何者にも代えがたい宝だ」
断言するガロウの瞳には、一切の迷いもなかった。
その揺るぎない肯定の言葉が、長年かけてユンの心にこびりついた劣等感を、少しだけ溶かしていく。
この人は、本当に信じてくれているのかもしれない。
どれくらい歩いただろうか。森を抜けると、陽光が降り注ぐ、広大な渓谷地帯が目の前に広がった。
崖に沿うように家々が建てられ、活気のある声が風に乗って聞こえてくる。そこが、獣人たちの住まう国の入り口だった。
見張りをしていた狼獣人が、ガロウの姿を見つけて駆け寄ってくる。そして、ガロウの腕の中にいるユンを見て、目を丸くした。
「ガロウ様! ご無事でしたか! そちらの方は……?」
「俺の番だ」
ガロウが簡潔にそう告げると、見張りの獣人は息を呑み、次の瞬間には畏敬の念を込めて深く頭を下げた。
「なんと……! 族長様がお待ちです!」
ガロウはうなずくと、再び歩き出す。周囲の獣人たちが、皆、驚きと好奇の入り混じった目でこちらを見ている。
その視線に、ユンは思わずガロウの胸に顔を埋めた。
神殿から攫われるように連れてこられた、見知らぬ獣人の国。
有無を言わさぬこの男は、一体何者なのだろう。そして、自分はこれからどうなってしまうのだろうか。
不安と、ほんの少しの期待を胸に、ユンは自分を抱く逞しい腕の温かさを感じていた。
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