第2話 月夜の出会い

 銀色の糸は、まるで意志を持っているかのように動いた。

 ユンの指先から絶え間なく紡ぎ出される光の繊維は、銀狼の傷口を正確に、そして素早く縫合していく。

 致命傷にしか見えなかった深い傷が、魔法のように少しずつ塞がっていく光景に、ユン自身が我を忘れて見入っていた。


 普段、彼が紡ぐ糸はただそこにあるだけだった。けれど今は違う。

 目の前の命を救いたいという強い願いが、彼の力に新たな側面を与えていた。

 糸は傷を塞ぐだけでなく、淡い光を放ちながら傷ついた細胞を癒し、失われた血を補っているかのように見えた。

 神殿の聖子たちが行う治癒の奇跡とは、まったく違う形での救済。これが、自分の本当の力なのだろうか。


 どれほどの時間が経っただろう。最後のひと針を縫い終えたかのように、糸は静かに動きを止め、狼の体へと溶け込むように消えていった。

 あれほどおびただしかった出血は止まり、抉れたような傷口は、一本の細い線になっているだけだ。

 銀色の毛並みが月の光を浴びて、神々しいまでに輝いていた。


「……よかった」


 安堵のため息をついた瞬間、ユンは限界を超えた魔力を使った反動で、ふっと意識を失った。

 崩れ落ちる彼の体を、間一髪で何かが支える。それは、ゆっくりと起き上がった銀狼の、逞しい身体だった。


 金色の瞳が、間近でユンを見つめている。先ほどまでの苦痛の色は消え、そこには理知的で、どこか驚きを含んだ光が宿っていた。

 狼はユンの匂いを確かめるように、そっと鼻先を寄せる。ふわりと香る、清浄で甘い香り。

 それは、彼らの種族にとって魂を揺さぶる特別な香りだった。


 夜の森は静まり返っている。

 銀狼は、気を失ったユンをその場に横たえると、自らの大きな体で寄り添い、冷たい夜気から彼を守るように丸くなった。

 まるで、何よりも大切な宝物を見つけたかのように。ユンが逃げ出さないように、そして誰にも奪われないように、一晩中、片時もそばを離れなかった。


 朝の光が木々の隙間から差し込み、森の鳥たちがさえずり始める頃、ユンはゆっくりと目を覚ました。

 最初に感じたのは、柔らかな温もりだった。見れば、自分のすぐそばにあの銀狼が眠っている。

 その穏やかな寝顔を見ていると、昨夜の出来事が夢ではなかったのだと実感した。


 自分がこの狼を助けた。その事実が、ユンの胸を温かいもので満たしていく。

 生まれて初めて、誰かの役に立てたという確かな手応え。神殿では決して得ることのできなかった感情だった。


 ユンがそっと身じろぎをすると、それに気づいたのか、銀狼がゆっくりと瞼を開いた。

 金色の瞳が、まっすぐにユンを射抜く。その視線に、ユンはなぜか動けなくなった。


 次の瞬間、信じられないことが起こった。銀狼の体が、眩い光に包まれたのだ。

 あまりの光量に、ユンは思わず腕で顔を覆う。

 光が収まった時、そこに狼の姿はなかった。代わりに立っていたのは、月明かりを浴びた銀髪のように見える黒髪と、狼と同じ鋭い金色の瞳を持つ、屈強な青年だった。


 筋骨たくましい体に、簡素だが上質な衣服を身につけ、背中からはふさふさとした狼の尻尾が覗いている。

 ピンと立った耳は、彼が人間ではないことを示していた。


「……獣人?」


 ユンが呆然と呟くと、青年はこくりとうなずいた。

 そして、一歩、また一歩とユンに近づいてくる。その圧倒的な存在感に、ユンは後ずさることしかできない。


「昨夜は、お前が助けてくれたのか」


 低く、けれど心地よく響く声だった。

 青年はユンの目の前で膝をつくと、ためらうことなく彼の手を取った。大きな、ごつごつとした武骨な手。その手が、壊れ物を扱うかのように優しくユンに触れている。


「俺はガロウ。狼獣人族の、次期族長だ」


 ガロウと名乗った青年は、その金色の瞳でじっとユンを見つめた。その瞳には、熱を帯びた強い光が宿っている。


「そしてお前は……俺の番だ」


「え……? ばん……?」


 意味が分からず、ユンが問い返す。

 ガロウはユンの言葉を肯定するように、より一層強く、しかし優しくその手を握りしめた。


「ああ。間違いない。この香り……お前は、俺がずっと探し求めていた、運命の番だ」


 その瞳は、獲物を見つけた狩人のようであり、同時に、ようやく巡り会えた愛しい存在に向ける慈しみに満ちていた。

 ユンが何かを言う前に、ガロウはもう一方の手でユンの頬にそっと触れた。その真剣な眼差しに、ユンの心臓が大きく跳ねる。


 神殿から逃げ出しただけの、役立たずの聖子であるはずの自分に、一体何が起きているのか。

 ユンは、目の前の美しい獣人が放つ、抗いがたい引力にただただ圧倒されるばかりだった。

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