ワード・イーター ~僕が世界から消えるまで~

月読二兎

ワード・イーター ~僕が世界から消えるまで~

 僕、文月喰ふみつき じきの世界が変わったのは、神保町の古びた書店の隅で、埃をかぶった一冊の本に触れた瞬間だった。


 革張りの装丁に指が触れた途端、インクで描かれた文字が、まるで水に滲むように揺らぎ、僕の指先へと吸い込まれていった。活字は物理的にページから消え失せ、その代わりに、見知らぬ誰かの生涯の物語が、濁流のように頭の中へ流れ込んできた。


 それが、僕の異能【文字捕食ワード・イーター】の覚醒だった。


 最初は、まさに神の恩寵だと思った。

 触れるだけで、あらゆる知識が僕のものになる。分厚い教科書も、難解な専門書も、ページをなぞるだけで一夜にしてマスターできた。テストの順位は面白いように駆け上がり、教師もクラスメイトも僕を「天才」と呼ぶようになった。


「最近の文月くん、すごいね! なんだか話し方も大人っぽくなったみたい」

 クラスメイトの言ノ葉紬ことのは つむぎが、屈託のない笑顔で話しかけてくる。その時の僕は、ちょうど経済学者の小難しい評論を「食べた」後で、自然と理屈っぽい口調になっていたのだろう。

「知識の効率的な吸収は、論理的思考の基盤を形成するからな」

「うわ、やっぱり難しいこと言ってる!」

 彼女はそう言って笑った。この頃はまだ、僕も一緒に笑うことができた。


 異変は、ある種の「飢え」としてやってきた。

 腹が減るのとは違う。脳の芯が、どうしようもなく知識を、文字を、物語を渇望するのだ。その飢えに抗えず、僕は夜な夜な街を彷徨い、看板のネオンサインやポスターの広告文、果ては自動販売機の商品名まで、手当たり次第に「喰らい」始めた。


 喰らうほどに、僕の思考は混濁していく。

 西部劇小説を喰らった翌日は、誰彼構わず喧嘩腰になった。純愛小説を喰らえば、紬の顔をまともに見られなくなった。僕という存在の輪郭が、無数の物語に侵食され、溶け出していく感覚。


「文月くん、大丈夫? 最近、すごく疲れてるみたいだよ。それに……日によって、全然違う人みたいで……」

 心配そうに僕を覗き込む紬。僕は彼女に何か言わなければならないと思った。助けて、と。でも、口から出たのは、昨日喰らった三文役者のセリフだった。

「心配ご無用さ、お嬢さん。俺はいつだって俺さ」

 紬の顔が、悲しそうに歪んだ。違う、そんなことが言いたいんじゃない。なのに、僕の言葉は僕のものではなくなっていた。


 自分が■になっていく気がした。

 このままでは、文月喰という人間が、喰い尽くされてしまう。恐怖が僕を支配した。もっと、もっと強固な知識を、揺るぎない物語を喰らえば、この侵食を止められるかもしれない。そうだ、もっと大きな物語を喰らわなければ。


 その衝動に突き動かされ、僕は市立図書館の閉架書庫に忍び込んだ。

 歴史、哲学、宗教、文学。人類が生み出した森羅万象の知識が、そこには眠っていた。僕は飢えた獣のように書架から書架へと飛びつき、片っ端から本に手を触れた。


『――世界は言葉でできている』

 どこかの哲学書の一節が、頭に流れ込む。


『――名は存在を規定する』

 神話の一遍が、僕の思考を上書きする。


『――観測されないものは存在しない』

 物理学の論文が、僕の視界を歪ませる。


 やめてくれ。もう、たくさんだ。僕の脳は悲鳴を上げる。だが、指は止まらない。知識の濁流が、僕の記憶を洗い流していく。両親の顔が思い出せない。自分の家の帰り道が分からない。目の前で泣きそうな顔をしている、この女の子は、誰だっけ。


「……つき、くん……やめて……」


 ああ、そうだ。彼女はたしか、僕の物語の登場人物だ。名前は、なんだったか。とても、■■な響きだった気がする。


「あなたの名前を思い出して! 文月喰!」


 フミツキ ジキ?

 それは、誰だ?

 その■■は、かつて僕だったものの■か?

 違う。それはただの記号だ。意味のない音の連なりだ。僕にはもっと■■しい物語が必要だ。僕という■■を満たす、最後の言葉が。


 僕は、自分自身に手を伸ばした。

 僕の記憶、僕の感情、僕の思考。僕という存在を形作る、全ての「言葉」に。


 うまそうだ、と思った。



 ――■は■■を助け〇ければな〇ない。だが、紬とは■だ? あの■■は泣いている。俺は『ハムレット』、いや、■■ 喰だ。違う、俺は―――。

 言葉が、■える。

 思考が、■ちる。

 ■が、■■になる。

 ■は、■を■べる。


「   、   を   で!」


 だれか の こえ が   。

        。


           。

     。


 。


 この物語の主人公の名前を、誰も思い出せなかった。

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