第16話
王城の夜会から数日後。
王都の社交界は、一つの噂で持ちきりだった。――辺境貴族の、名も知れぬ三男坊が、アリシア王女殿下に対して不敬極まる言葉を投げかけた。だが、殿下はそれを咎めるどころか、むしろ面白がっていた、という。
「…以上が、夜会後の各派閥の主な反応です、マスター。多くの貴族が、マスターのことを『無礼な田舎者』と見なしている一方で、一部の者は、リヒトハイム公爵令嬢である私が後ろに控えていたことから、何か裏があるのではないかと勘ぐっております」
タウンハウスのリビングで、セラフィーナが完璧な要約を俺に報告する。
「結構だ。多少の混乱は、むしろ歓迎すべきだ。それで、肝心の王女の様子は?」
「はい。アリシア殿下は、あの日以来、何度かアシュフィールド家についてごく内密に周辺に尋ねているようです。特に、マスターの出自とその経歴に興味をお持ちの様子です」
俺は、満足げに頷いた。
魚は、確かに餌に興味を示した。だが、まだ鉤針を飲み込んではいない。次の一手が重要になる。俺に必要なのは、偶然の出会いを必然へと変えるための、強力な理由付けだ。
「セラフィーナ。アリシア王女が現在、公務で最も頭を悩ませている案件は何だ?」
俺の問いに、セラフィーナは待っていましたとばかりに、一枚の分厚い資料をテーブルに置いた。
「北方のアークライト公国との、国境線問題です」
「国境線?」
「はい。三百年前、両国の間で結ばれた不可侵条約があるのですが、その条文の一部が古代魔法によって封印されており、解読不能なのです。近年、その解読不能な部分の解釈を巡って、公国側が強硬な態度に出ています。国王は穏便な解決を望んでおられますが、アリシア殿下はここで弱腰を見せるべきではないとお考えのようです。しかし、条文を解読できぬ限り、こちらの正当性を主張できず、膠着状態に陥っています」
俺は、その資料を手に取り素早く目を通した。羊皮紙に描かれた古代魔法印の写し。それは、前世の俺からすれば、子供のパズルにも等しい、初歩的な
(……これだ)
これ以上に、俺という存在の特異性を、あの孤独な女王に知らしめるための最高の舞台はない。
「セラフィーナ。王立学院にお前の恩師はいるか? 古代魔導言語学の権威で、口が堅く、かつ名誉欲が強い男が理想だ」
「…おります。エリアス教授が、その条件に合致します」
「よろしい。その教授に、君が『偶然、家の書庫から発見した』という体で、一枚の論文を渡せ」
俺はその場で新しい羊皮紙を取り出し、驚異的な速さでペンを走らせた。書いたのは、アークライト公国との条約に使われている封印術式の、ごく一部の解読法と、その術式が持つ言語体系の基礎理論に関する短い考察だ。もちろん、全てを解き明かすつもりはない。肝心な部分はわざと曖昧にしておく。これは解答用紙ではない。相手の知的好奇心を極限まで煽るための、謎かけだ。
「この論文を、エリアス教授が『自身の発見』として学会で発表させるんだ。そうすれば、その情報は必ず王女の耳にも届くはずだ」
「…! なるほど。そして、その論文の出所を辿れば……」
「僕という存在に、行き着かざるを得なくなる、というわけだ」
セラフィーナは俺の計画の全貌を理解し、その恐るべき深謀に畏敬の念を抱いたように息を呑んだ。
◇◇◇
数日後、王立学院の小さな学会で発表された一つの論文が、王宮を揺るがした。
エリアス教授が発表した、「古代封印言語『エノク語』の構造に関する一考察」。それは、三百年もの間誰も解き明かせなかった国境条約の謎に、一条の光を差す画期的なものだった。
その報告を受けたアリシア王女は、玉座の間で驚きと興奮に満ちた表情でエリアス教授を詰問していた。
「教授! 本当に、あの条文が解読できるというのですか!?」
「は、はっ。あくまでまだ初期段階の考察に過ぎませぬ、王女殿下。ですが、この理論が正しければ……」
アリシアは、その論文を食い入るように見つめた。そこに書かれた理論は、彼女がこれまで学んできたどの魔法体系よりも洗練され、そして美しかった。だが同時に、彼女は強烈な違和感を覚えていた。エリアス教授は優秀な学者だ。だが、これほどの世紀の発見を一人で成し遂げるような、独創的な天才ではない。これは、彼の言葉ではない。誰か、別の――。
その時、彼女の脳裏に、夜会で会ったあの少年の顔が雷のように閃いた。あの、全てを見透かすような琥珀色の瞳。子供とは思えぬ尊大な態度。そして、自分の孤独をいとも容易く言い当てた、あの言葉。
(……まさか)
偶然? いや、偶然のはずがない。あの論文の理論と、あの少年の瞳の奥に宿っていた叡智の光が、アリシアの中で一本の線で繋がった。
彼女はエリアス教授を下がらせると、すぐさま側近の騎士団長を呼びつけた。その蒼い瞳には、もはや次期女王としての冷静さではなく、一つの真実を追い求める探求者のような、熱い光が宿っている。
「今すぐ、アシュフィールド男爵家の三男、リアム・アシュフィールドを探し出しなさい」
騎士団長は怪訝な顔で応えた。
「はっ。して、どのようなご用件で……」
アリシアはきっぱりと言い放つ。
「――国家機密に関する、最重要尋問です。何としても、私の前に連れてきなさい」
孤独な女王は、自らの意志で、元大賢者が仕掛けた罠へとその足を踏み入れた。
彼女が求めているのは、国家の未来か、それとも己の孤独を理解する唯一の人間か。どちらであるかを、彼女自身がまだ知らないことを、俺だけが知っていた。
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転生賢者は世界を裏から支配する 〜表舞台は弟子達に任せたい〜 Ruka @Rukaruka9194
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