転生賢者は世界を裏から支配する 〜表舞台は弟子達に任せたい〜

Ruka

プロローグ

その男、アルフォンス・フォン・エルハイムは、永い人生の終焉を迎えようとしていた。


陽光がステンドグラスを透過し、神々の英雄譚を床に描く壮麗な一室。しかし、彼の目に映るその光は、ただただ煩わしいだけだった。天蓋付きのベッドに横たわる身体は、まるで枯れ木のように痩せ細り、かつて世界を震撼させた魔力は、今や風前の灯火のように揺らめいている。


「大賢者様、薬の時間です」


侍女のかしずく声も、遠い世界の音のように聞こえる。枕元には国王陛下自らが座し、その隣には聖女、騎士団長、法皇までが顔を揃えていた。彼らの顔に浮かぶのは、英雄の死を悼む悲しみと、一抹の…安堵。アルフォンスは、その微かな感情の揺らぎを見逃さなかった。


(そうだろうな。五百年も生きた魔法使いなど、お前たちにとっては国宝であると同時に、いつ暴発するか分からぬ危険物でしかない)


内心で毒づきながら、彼はゆっくりと瞼を閉じる。脳裏に浮かぶのは、あまりにも長すぎた人生の記憶だった。


彼は、好きで英雄になったわけではなかった。


始まりは、純粋な知的好奇心。この世界のことわりである魔法の、その根源を探求したいという、ただそれだけの願いだった。しかし、彼の才能はあまりにも突出していた。二十歳で宮廷魔導師の頂点に立ち、五十歳で前人未到の第十階梯魔法を編み出し、百歳の頃には、人々から「大賢者」と呼ばれるようになっていた。


その頃から、彼の人生は狂い始めた。


魔神王が大陸に侵攻すれば、討伐隊の総指揮を執らされた。巨大な古代竜エンシェントドラゴンが目覚めれば、単身で交渉に向かわされた。隣国との戦争が始まれば、たった一人で戦局を覆すことを期待された。


彼はその全てに応えた。なぜなら、それらは彼にとって魔法の「実践」であり、未知の術式を試す絶好の機会だったからだ。結果として、世界は何度も救われ、彼の名は神話となった。


だが、英雄の称号と引き換えに、彼は全てを失った。


静かに研究に没頭する時間。他愛ない会話を交わす友人。愛する人と共に過ごす穏やかな日常。人々は彼を崇め、敬い、そして…恐れた。誰も彼を「アルフォンス」という一人の人間として見ようとはしなかった。


「大賢者様、何か言い残すことは…」


国王の問いかけに、アルフォンスは億劫そうに目を開ける。言い残すこと?山ほどある。


『お前たちが持ち込んでくるくだらん政争の仲裁に、俺がどれだけの時間を浪費したと思っている』


『貴族の令嬢たちが、俺の魔力の血脈欲しさに、毎夜のように寝室に忍び込んできた迷惑を考えろ』


『「世界のために」という便利な言葉で、俺を何百年も縛り付けた罪を自覚しろ』


喉元まで出かかった罵詈雑言を、彼はかろうじて飲み込んだ。もう、エネルギーの無駄だ。それよりも、もっと重要なことがある。


(最後の…最後の大魔法だ。これだけは、誰にも邪魔はさせん)


彼の最後の研究テーマ。それは「魂の輪廻」と「記憶の継承」に関する魔法だった。死後、魂がどこへ向かうのか。そして、その魂に刻まれた膨大な知識と経験を、次の生に持ち越すことはできないのか。その研究は、彼の死の直前、ついに完成の域に達していた。


己の魂そのものを術式と化し、輪廻の奔流に抗い、新たな器へと意識情報を転写する禁断の秘術。


「…もう、よい。皆、下がってくれ。最期は…一人にしてほしい」


か細いが、拒絶を許さぬ響きを帯びた声。国王たちは一瞬顔を見合わせたが、伝説の英雄の最後の我儘を無下にはできず、静かに頭を下げて部屋を退出していった。


一人きりになった部屋で、アルフォンスは最後の魔力を振り絞る。彼の魂を中心に、肉眼では見えないほど緻密で複雑な魔法陣が展開されていく。


(次の人生の条件は決めている)


第一に、権力の中枢から限りなく遠い場所。政治も戦争も、もうこりごりだ。大陸の片隅にある、忘れ去られたような辺境がいい。


第二に、身分は高すぎず、低すぎず。研究に必要な書物や最低限の生活が保障される程度の、貧乏貴族あたりが理想的だ。平民では、そもそも文字の読み書きすら怪しい。


第三に、次期当主などという面倒な立場は絶対に避ける。全ての責任と期待を背負わされる長男など論外。注目されにくい次男、できれば三男以下がいい。


そして最後に、最も重要な条件。生まれ持った魔力量が、限りなく大きいこと。これだけは譲れない。


魂に刻まれた術式が、世界の魂の循環システムへとアクセスを開始する。まるで膨大な図書館の索引をめくるように、彼はこれから生まれ来る幾億もの魂の「候補」を検索していく。


(…いた)


数多の光の中から、彼は理想的な一点を見つけ出した。


場所は、王都から遥か東に位置するアシュフィールド男爵領。大した特産物もなく、歴史的価値もない、まさに辺境。

家柄は、貧乏男爵家。借金こそないが、贅沢とは無縁の暮らし。

そして、その家の当主に、まもなく三番目の息子が生まれる。

その赤子の魂が秘めた魔力量は、測定限界を振り切るほどの、まさに奇跡的な器だった。


(これだ…!これ以上の器はない!)


アルフォンスの意識が、歓喜に震える。もはや、この枯れ果てた肉体に未練はなかった。彼は最後の力を込めて、魂の転写術式を発動させた。


「さらばだ、退屈な英雄の人生よ。次の俺は、誰にも知られず、誰にも期待されず、ただ静かに魔法の深淵を覗き込むのだ…!」


大賢者アルフォンス・フォン・エルハイムの心臓が、鼓動を止めた。

大陸中が、伝説の終焉に涙したその瞬間。

辺境の寂れた屋敷で、一つの新しい命が産声を上げた。


◇◇◇


意識が覚醒した時、最初に感じたのは、絶対的な無力感だった。


(…なんだ、これは)


手足が、まるで自分の意志とは無関係に動く。いや、動かない。視界はぼんやりと滲み、音は水中で聞いているかのようにこもっている。そして何より、思考が靄のかかったように鈍い。


これが、赤ん坊というものか。


途方もない不自由さに眩暈を覚えながらも、俺――リアム・アシュフィールドとなった元大賢者は、必死に状況を分析しようと試みた。


どうやら、魂の転写は成功したらしい。アルフォンスとしての記憶は、今のところ欠落なく保持されている。問題は、この器だ。脳が未発達なせいか、少しでも複雑な思考をしようとすると、すぐに意識が眠りへと引きずり込まれる。魔法を構築しようにも、魔力を制御する神経系がまだ繋がっていない。膨大な魔力が体内で渦巻いているのは感じるが、それは蛇口の壊れたダムのように、ただそこに在るだけだった。


「おぉ、リアム。私の可愛い坊や」


巨大な顔が、ぼやけた視界に映り込む。これが今世の母親か。優しそうな顔立ちをしている。彼女に抱き上げられると、ふわりと温かい匂いがした。悪くない。


次に聞こえてきたのは、少し厳格そうな男の声。


「しっかりとした顔つきだ。アシュフィールド家の男に相応しい」


これが父親、アシュフィールド男爵だろう。ふむ、前世のように過剰な期待を寄せられることはなさそうだ。これも計画通り。


数ヶ月が過ぎる頃には、俺はこの不自由極まりない生活にも少しずつ慣れてきた。主な日課は、寝る、飲む、出す。その合間に、俺は必死でこの世界の情報を収集し、自身の身体の制御を取り戻すことに全力を注いだ。


まず、言語。幸いなことに、前世と同じ大陸共通語が使われているようだ。両親や侍女たちの会話をBGM代わりに聞き流し、単語と文法を脳に再インストールしていく。赤子の脳の学習能力は凄まじく、一年も経つ頃には、彼らの会話のほとんどを理解できるようになった。


次に、魔力制御。これは困難を極めた。例えるなら、巨大なオーケストラを一本の指揮棒もなしに操ろうとするようなものだ。俺はまず、体内の魔力の流れを「感じる」ことから始めた。呼吸に合わせて、血液のように循環する微細なエネルギーの流れを意識する。それを数ヶ月続けた頃、ようやく指先に米粒ほどの魔力を集めることに成功した。誰にも見えないように、布団の中で光の玉を明滅させるのが、俺のささやかな楽しみとなった。


そして、家族構成。父、アシュフィールド男爵。母。そして、二人の兄がいるらしい。長男は嫡男として英才教育を受けているらしく、滅多に顔を見せない。次男のアランは、俺の部屋によく顔を出す。彼は剣の稽古が好きらしく、いつも木剣を振り回しては母親に叱られていた。


三歳になる頃には、俺はつたないながらも歩けるようになり、言葉も話せるようになっていた。もちろん、周囲には「少し成長の早い子」程度にしか思われないよう、完璧にカモフラージュしている。


俺の目標はただ一つ。目立たず、騒がれず、平穏な引きこもり研究ライフを送ること。


そのためには、来るべき「魔力測定の儀式」を、いかに平凡な結果で乗り切るかが最初の関門となる。この儀式は、五歳になった貴族の子弟が皆受けるもので、生まれ持った魔力量と属性適性を判定される重要なイベントだ。ここで下手に突出した結果を出せば、俺の計画は開始早々に破綻する。


(魔力量は、測定器が壊れないギリギリのレベルまで抑え込む。属性は…そうだな、生活に便利な土属性あたりを少しだけ見せて、他は「適性なし」と偽装しよう)


そんな計算をしながら、俺は今日も今日とて、物分かりのいい「普通の子供」を完璧に演じ続ける。書庫に行きたい衝動を必死に抑え、兄アランのチャンバラごっこに付き合ってわざと転んでみせる。


すべては、理想の未来のため。

表舞台の英雄なんて、もう二度とごめんだ。今度こそ、俺は歴史の裏側で、静かに世界の真理を弄ぶのだ。


元大賢者にして、現・男爵家三男リアム・アシュフィールドの、壮大にして地味な計画は、まだ始まったばかりだった。

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