夜食

@gyouzamochimochi

夜食

 ふっと意識が浮き上がって、エアコンで冷えたブランケットの毛羽立ちを首に感じた。そこは真っ暗で、ザカリーは枕もとのスマホを探り、やがてなめらかで平たいそれに指先が突き当たったので、握って顔の前で画面を叩く。青っぽい光に目を刺され、あわてて画面の明度を引き下ろした。午前2時37分だった。

 「う……」

 すぐにスマホを枕もとに戻し、ばたりと寝返りを打って微かにうめいた。明日は休み。不幸中の幸い。けれどなぜこんな時間に目が覚めたのかわからない。暗闇でじっと押し黙っていると、ときどき部屋が、ばきっ、と鳴る。遠くを救急車のサイレンが走っていく。誰かが搬送されている。胸がふさがる。ザカリーは重い体を動かし、冷たいブランケットに鼻が潰れるほど顔を押し付けてかたくなに丸まったが、眠りは訪れなかった。

 アルマジロみたいだね、と同居人のエイデンに笑われたのを思い出し、肺の奥からため息が出た。俺がアルマジロならよかった。


 夜は苦手だった。自分の場所ではないと思った。では明るい昼に親しみがあるのかといえばそんなことはなくこの世のどこにいても具合が悪かったが、ザカリーにとって夜は昼よりも切迫した不安を感じさせる時間だった。夜道はむやみに歩いてはいけなかったし──ザカリー自身が犯罪に巻き込まれるおそれがあるからというより、他人を犯罪に巻き込もうとしているのではないかという他人のおそれに巻き込まれるおそれがあるからだった。

 夜は眠る。何もかも無くして忘れて眠りに逃げ込まないと。ひらたくひらたく実存を押し潰して、ベッドに摺り潰されたようにしがみついて、何もないところへ、何もないところへ、眠らないと。それなのに──クソ、ボケ、カス、ぐったりしながら目を開けたり閉じたりして、あ、エイデンはまだ起きてるんだな、と隣を見もせずに思い当たる。まだ居間でパソコンに向かっているんだろう。

 エイデンは夜を骨の髄までしゃぶりつくす人間だった。最近はもっぱら研究熱心で、外には出掛けず部屋でキーボードをたたいている夜が多かった。あそこまで毎日熱中できる対象がこの世にあるということが、ザカリーにはさっぱりわからない。なんでだろう。なんでなんだろう、と朦朧とする頭で思いながら、知る必要もないことなのでどうでもよくなってまぶたをつぶったとき、肋骨と骨盤の間からぎゅるると音が鳴った。

 「あ」

 その音でいっきに腑に落ちて、心底うんざりした。

 腹が減っているらしい。それで目が覚めたらしい。くだらない。そんなもので俺を起こすな。自分に食欲とかそういうものがあること自体ザカリーは気に食わない。しかし気づいてしまえばベッドにへばりついていることもできず、ザカリーは眉間にいっぱい黒い雲を溜めて、重たい脚をゆっくりスライドさせ、冷えた床に落とした。死ね、と思った。

 なぜ腹が減っているのか、そのことは考えたくもなかった。


 寝室のドアを開け、暗い廊下をぼてぼてと歩む。まぶしさに目が痛むのを感じながら居間に足を踏み入れると、居間の奥でエイデンがソファに腰かけて、口を開けて宙を見つめ、両手をまっすぐに宙に掲げていた。

 ……なにしてるんだろう。

 ザカリーが声をかけるより早くエイデンがその姿をみとめ、矢継ぎ早にまくしたてた。「あれ!? どしたの、目覚めたの? 珍しいね! 大丈夫? 病気?」

 「……病気ではない」ザカリーは細い声で応えた。

 エイデンは膝の上のラップトップをぱたんと閉じた。同居人が自分の助けを必要としている。くすんだ桃色のヘアキャップをつけたまま、年中履いている苔色のステテコ一丁でうなだれている彼は、やつれたヒグマを思わせる姿だった。

 「なんか嫌な夢でも見た? 僕まだ寝ないけど、寝室でも作業できるから、そっちに行ったげようか。寝つくまで横目で見ててあげるの」

 「いや、……夢はべつに。大丈夫」

 「ええ、そう? どっか痛いとか? 腰? 心?」

 「…………腹が減って」

 「腹?」

 ザカリーはどこか気恥ずかしく、もぞもぞした。簡単なことだ。適当にスナックとか冷蔵庫にあるおかずをつまんで寝ればよい。同居人に説明するまでもない。けれど、この世のすべての事象に首を突っ込むエイデンが、腹をすかせた自分を放っておいてくれる気がしなかった。現に、自分を見つめるふたつの大きな瞳は、らんらんとかがやきはじめていた。

 

 「なあ、ニンニク入れていい? 胸やけするかな?」

 当然エイデンは放っておかない。

 冷蔵庫とパントリーの扉を両方開け放っている浮かれぽんちを見下ろしながら、あまりに予想通りのことが起こっているので、ザカリーは一種安らかな心持ちでいる。

 「ね、どう? ニンニク」エイデンがするどく見上げた。

 「え? あ、……ニンニク。いいよ。別に」

 「おけ。辛ラーメンがあるからー……たまごとチーズとニンニクといっしょに煮て、そんでソーセージも入れちゃおうかな……ザカリーの安眠が目的だから、ザカリーの好きなのを入れよう」

 ぶつぶつ言っている。ザカリーとしては冷たいままのおかずをつまむ程度でもじゅうぶんだったのだが、エイデンは本気でおいしいものを作ろうとしているらしい。はつらつとした働きぶり。ザカリーは眠気が失せてくるのを感じた。

 「俺はなんでも食うよ」

 「ほんと? じゃ、おとといのサラダそろそろ傷んじゃいそうだから、一緒に煮てもいいかな?」

 「……サラダ……?……いいんじゃね」

ありったけの食材を並べているエイデンの横で、ザカリーは両手鍋をひっぱりだした。辛ラーメンってヴィーガンだけど、チーズやらたまごやらソーセージやら入れて台無しにしている、と思う。でも俺たちの収入からして完全ヴィーガン生活はまだ程遠く、肉やらたまごやら日々買っているのだから、それを使わないのもかえっておかしいだろう、と思う。ため息が出る。この思考を週に12回ほどやっている。そのように生きてやがて死ぬ。

 「エイデン、水なんミリリットルだっけ」

 「ふたりぶんだから、1リットルぐらい!」

 「ん」

 蛇口をひねって水が溜まるのをじっと待つ。ニンニクの皮を引きちぎりはじめたエイデンを横目に眺めながら、研究はもういいんだろうか、とザカリーは思う。


 ニンニクと唐辛子のにおいが部屋を満たしていて、換気扇はごうごう音を立ててまわっている。

 白っぽい、ちぢれた麺が、赤い汁の中でぶるぶるとふるえている。ソーセージもふるえている。レタスはとっくにしなしなになって半透明の色をしている。トマトは煮崩れてどこかへ消えた。たまごはぷっくり。鍋をのぞき込むと鼻に刺激臭が刺さるのが良くて、エイデンはふかぶかと息を吸い、吐いた。湯気が胃まで届くような満足感があった。

 タイマーの数字が小さくなっていく間、ザカリーはダイニングの椅子に横向きに腰掛けてぐったりしていた。ヘアキャップはいつのまにか脱いでいて、胸にかかるゆるく縮れた黒髪には乾燥があらわだった。エイデンはそれを横目に見て奇妙に思う。夜は自分の領分だ。最近は研究が忙しいけど、余裕のあるときは仕事もするし映画も観るし本も読むし工作もするし、ザカリーに留守番してもらってクラブにも行くし、踊るし飲むし歩くし食べる。それらすべてをザカリーといっしょにやろうと思ったことはなかった。やりたがったところでできないものはできない。ザカリーは夜の人間ではない。エイデンはできないものにいちいち未練をもたない。

 しかし、こうしてふたりで夜更かししているっていうのは、やってみるとなかなか素敵じゃないか。

 今夜はもうとっくに研究に飽きていたエイデンは、シュレッドチーズの袋を開け、ばらばらと盛大にチーズをばら撒いた。とろけてきた頃、タイマーがけたたましく鳴る。エイデンはにこにこと火を止め、ザカリーはぼんやりと食器棚へ向かった。


 「よし! できたできた」

 プラスチックのボウルに盛られた辛ラーメンはほこほこと湯気を立てている。ふたりほとんど同時に唾液が湧いてきた。エイデンは箸を、ザカリーはフォークを握って、テーブル越しにお互いの目をちょっと見た。とたん、エイデンはにやにやと笑い崩れた。ザカリーは黙って麺を手繰った。

 熱い蒸気を纏った縮れ麺を口に押し込む。ニンニクが鼻に刺さる。唇が、次いで喉が赤くなる。ザカリーは半透明になったレタスで麺をくるんで頬張る。それとなく新鮮味がある。チーズがボウルのふちにへばりついているのをエイデンは麺でしごきとって食べる。おいしい。口腔がつつかれるように熱いので、ふんふんと鼻で息を吐いている。

 「うま。そろそろたまご割ったら? 僕はもう崩しちゃお」

 「うん」

 エイデンが箸の先で、ぷっくりと膨れて黄身の透けたたまごをつつき、こじ開けるのをザカリーは見下ろす。まねして同じようにやってみると、自分のは少し黄身が固まっていた。エイデンのみたいに流れ出すほどではない。それでもオレンジ色のとろとろしたのに麺を押しつけて啜りこんでみると、口いっぱいに何か辛くて豊かな感じの味がふくれあがった。そのままの勢いで、白身もいっしょに食べた。口の中でぐちゃぐちゃになったのをまじまじと味わって、顔を上げたら、エイデンが赤い唇で嬉しそうに笑っていた。

 「おいしいねえ!」

 ザカリーはしばし考えて、軽くうなずいた。特段ひとつのものにこだわってうまがることはないけれど、口の中がいっぱいでいい気分だと思った。

 「お月見って言って秋とかにたまごを食べる文化圏もあるんだよ」

 「……黄色いから?」

 「そうそう。きみはいま擬似的に月を食べたようなものさ」

 「月を」

 宇宙的な規模のことを言われて、ザカリーが考え込んでいるうちに、エイデンはまた別の食べ物に目をつけて騒ぎ出した。

 「あーそうだ。ソーセージ、いま食べたらプチンって汁が出てあっついだろうな! 早く食べなきゃ」そう言って箸でソーセージを拾い上げ、ぽきんと音を立てて噛みついた。「っつぁ!」噴き出した汁が頬に飛ぶ。エイデンの細い肩が揺れて、破顔しながらザカリーを見た。「ほら、ね! 危険だろ」

 ザカリーは薄く眉を寄せる。「またわざとやけどしてるのか」

 「やけどするほどの汁の量じゃないよ」

 「……そんならいいけど」

 ザカリーはフォークでソーセージを刺した。3つ空いた小さな穴からすでに少しの汁があふれ出すのが見え、急いで口に入れて噛みついた。喉の奥に熱が飛んできて、ザカリーは噎せた。やけどをしたかもしれないと思った。

 

 はぐはぐと食っているうちにスープは少しずつ冷めて、エイデンはボウルの底に沈む小さくちぎれた麺をつまみ取るのを楽しんでいる。ザカリーは楽しんでいるかよくわからない。よくわからないがともかく熱心にちぎれ麺を掬い取っていた。

 「……あのさ、俺、今日」

 「うん?」

 エイデンが顔を上げてみると、ザカリーはフォークを握ったまま、じっと固まっている。それからうつむいて麺を食み、もそりと言った。「さっき、腹が減って目が覚めたって言ったけど。……腹が減ってたのはなんでかっていえば、その、昼飯あんまり食ってなくて」

 「ええ!!」エイデンは深夜帯にふさわしからぬ大声をあげた。「なんで? 休憩ちゃんと取れなかったのか? 8時間以上労働する場合は最低1時間の休憩が必要で、」

 「いや」ザカリーは控えめなしぐさでフォークを下ろした。

 「社食で食うつもりだったけど……受け取ったあと、人とぶつかってトレー落としたから。……マカロニとかサラダが全部散らばって……床に……それで、そいつと掃除とかしてたら時間なくなって。チョコレートチップクッキーを買って、食った」

 エイデンはあんぐりと口を開け、思い浮かべた。今年中に昇給する人間がどこを探しても見当たらないザカリーの職場の、つるつるした薄汚いグレーのカフェテリアの床に、マヨネーズで和えられた細長いマカロニがいっぱい飛び出すのを、それを呆然と見下ろすザカリーを、さっき職場の裏口から出て炎天の下ごみ出しをしに行ったばかりなので肩甲骨のところに汗染みのできている彼のライトブルーのポロシャツを思い浮かべた。

 「かわいそうに!!」糾弾。「そんなの言ってくれたら、夜ご飯もっとたくさん用意したのに! そうとは知らずサパーしか出さなかったのが今になって申し訳ないよ。市販のチョコクッキーのカロリーはざっと平均して50キロカロリー程度だよ。そんなものできみの肉体を支えることはできないよ」

 「……いや、……ちょっと、あんまりにも恥ずかしくて。言わないでおこうと……思ってた」

 ザカリーはまたうつむいて麺をつまんでいる。エイデンは口を開けたまま彼を眺め、……しばらく上から下まで眺めまわした。麺を食うザカリーを見ていると、彼をひとりで生きてゆかせることなど考えられないように思われた。

 「……僕のソーセージまだ1本残ってた。あげるよ」

 「え、いや、いい」

 「いいって。お食べ」

 ソーセージを1本、ぼとんとボウルに落とす。

 「恥ずかしくてもさー、今後はそういうこと、言ってよ。ザカリー」

 「……うん。悪かった」

 「いや、僕に悪いってこたないけど。きみがね。きみがおなかすかせてたら僕もせつないからさ」

 口からするりと出たせつないという言葉に、エイデンは不意を突かれて赤い汁を見下ろした。せつないとか胸が痛むとかいうのは実際のところどういう経路で成立している感情なんだろうといつも思っていた。けれど、理屈はどうあれいま現にいま胸がむずむずと苦しい。

 僕はザカリーがおなかすかせてると、それがたった一日のことであってもかわいそうで、せつなくものさびしく、胸が痛むんだ、とエイデンは発見した。そんなふうに感じるんだ。

 日々が発見の連続である。エイデンはすぐれた研究者であった。


 食後、ミント味の歯磨き粉で歯を磨いて、寝室に引っ込んでも、まだ喉にあたたかい辛味が残っている。

 けれど、とがっていた胃がまるくふとってふくれたような感触があり、それが眠りへの引力になっていた。ザカリーは冷たいシーツに横向きに寝そべり、肉体の重みをしずかに感じていた。口の中だけがぎらぎらと元気な感覚だった。

 「……俺、こういうの初めて」

 小さな声が聞こえて、エイデンはぱっと笑みを浮かべ、ごろりと寝返った。「そうでしょう! 楽しかった? 不本意とはいえ、夜更かしも悪くないんじゃないか?」

 ザカリーはどう答えたらよいかわからない。確かに思いのほか良い気持ちだった。しかし夜更かしが悪くないのではなくて、エイデンがいるから悪くないのだ。エイデンの夜はきっと楽しい。俺の夜はカス。暗い。危ない。良いことがなにもない。眠るほうがずっとずっといい。でも辛ラーメンはよかった。たまごと食べるのも。動物性食ではあるけれど。ともかくおいしくはあった。それらをすべて説明するには口を動かす力が足りず、言葉少なにつぶやいた。「うん。ラーメン、うまかった。……けど、味濃いし、ニンニクも入れたから……口の中だけ、寝つきづらい感じだな」

 「あはは!」

 「……笑い事じゃなくて。いいけど」

 「あ、じゃあさ、じゃあ無理に寝ないでさ、このまま朝までごろごろしちゃうか?」エイデンは目をかがやかせた。「ザカリーって徹夜したことないだろ」

 ザカリーはぎこちなく肩をすくめた。「朝までずっとは……無理だろ」

 「あー、ま、だよね。絶対途中で僕を置いて寝ちゃうだろうな」 

 「俺が寝てて、おまえが横で起きてるだけっていうんだったら、してもいいけど」

 「それはいつもじゃん」

 「…………いつも俺が寝てておまえが起きてるときは、それぞれ離れてて、一緒のところにはいないから、いつもとちょっと違うと思うけど」

 ゆっくりと説明された厳密な定義づけに、エイデンは微笑した。ザカリーの髪がひとふさヘアキャップから出ているのを見つけて、指先でつまみ、彼の肩にかけた。

 「じゃあ特別だね。ザカリーは好きに寝たらよろしい」

 「うん」ザカリーはうなずいた。

 「僕は思索をめぐらせるとするよ。たまにぶつぶつ言うけどそれは許してね」

 「……うん」

 「おやすみ」

 「おやすみ」

 リモコンでぷつりと電気を落とし、部屋はほとんど暗闇になった。エイデンが、ふう、とながく息をついて仰向けになる。ザカリーはブランケットにくるまるように身をまるめ、そっと呼吸をした。部屋の外、遠くの道路をバイクが走っていくエンジン音がしたが、それもすぐに消え、エアコンの稼働音だけがかすかに残った。隣でエイデンが天井に左腕を上げ、それからなにかふわふわと指先で描いている気配がした。部屋が暗くて見えない図形だが、ザカリーには星座のように思われた。

 数時間もすれば、幕を上げるように空が青く染まりはじめ、水色の陽ざしが部屋をうすく満たし、彼らはそのようにして夜を抜ける。

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