第2話 恋人

「お疲れ様」


聞こえてきた声に、莉帆は笑顔で顔を上げる。


オフィスのドアを開け、スーツ姿の岡部 和也が爽やかな笑顔で入って来た。


「お疲れ様です」

「社長は?」

「お部屋にいらっしゃいます」

「分かった」


そう言うと、立ち上がって見送る莉帆の前を通り過ぎざま、和也は口元を緩めて莉帆を見つめた。


莉帆もうつむきながら小さく微笑む。


2人だけのいつもの合図。


つき合ってかれこれ1年になるだろうか。


この関係は誰にも知られていない。


日本の最大手と言われるモデルエージェンシーで、和也はマネージャー、莉帆は事務員として働いていた。


ここに所属しているモデルは赤ちゃんからシルバー世代まで幅広く、外国人やハーフモデルも多く在籍している。


ファッションショーに出演するショーモデルの他にも、雑誌や広告などに掲載されるスチールモデルや、読者モデルと呼ばれる雑誌専属モデル、インフルエンサーなどのWEBモデル、手や体の一部分だけで表現するパーツモデルなど、活躍の場も様々だ。


和也は、事務所の中でもダントツの売れっ子で海外の有名ファッションブランドからも声がかかるトップモデル、ぜんのマネージャーだった。


英語とフランス語が堪能な和也は、自身もモデルのような顔立ちと長身。


禅と一緒にショーに出ないか?と先方に提案されたこともあるらしい。


そんな和也につき合って欲しいと言われた時、莉帆は何かの冗談かと思った。


和也より5才年下で、周りが美男美女だらけのモデル事務所において、ごく普通の顔立ち。


しかも当時入社して間もない頃で、仕事ができるとも言えない新人の自分が、なぜ?と。


即座に断ったが和也は諦めず、それから何度も食事に誘われ、少しずつ時間を共にするうちに、莉帆は彼の言葉を信じて恋人になった。


初めてを捧げたのも和也だった。


いつも禅と一緒に現場に出ている和也とはオフィスで会うことはほとんどなかったが、時々こうして顔を合わせた時は特別な目配せをくれる。


その日の仕事終わりに「うちで待ってる」というメッセージを確認すると、莉帆はいつものように彼のマンションへ向かった。


***


「お疲れ、莉帆」

「和也さんも、お疲れ様」


マンションの玄関を開けて莉帆を中へ促すと、ドアが閉まるなり和也はいきなりキスをしてきた。


「ん…、ちょっと。どうしたんですか?急に」


両手で胸を押し返し、身体を離す。


「ごめん、ちょっと仕事で色々あって。莉帆に会いたかった」

「何かあったんですか?今日、社長に会いに来てたのもその関係?」


さりげなく会話を続けながら、莉帆はパンプスを脱いで部屋に上がる。


でなければ玄関でそのまま押し倒されそうな勢いだった。


「いや、それはまた別。禅にいい話が来てね。社長に引き受けてもいいか確認してた」

「そうなんですね。いい話なら良かったです。じゃあ他に何が色々あったの?」

「ん、話すより莉帆を抱きたい」

「そんな、だめです。夕食を作るから」


そう言って買ってきた食材を入れたエコバッグを掲げて見せると、莉帆はスリッパを借りてそのままキッチンへ向かった。


「莉帆、今日泊まってく?」


手を洗う莉帆を後ろから抱きすくめて、和也が耳元でささやく。


「ううん。着替え持って来てないから、帰ります」

「始発で帰れば?」


莉帆は、チュッと絶え間なく首筋にキスをしてくる和也を振り返った。


「和也さん。何があったか、やっぱり話してください」

「どうして?」

「何かを思い詰めてる感じがするから。ちゃんと言葉で話して欲しいです、和也さんの考えてること。そうすれば、私も何か相談に乗れるかもしれないし」

「いいよ、別に」


短くそう言うと両手を解いて莉帆から離れ、和也はソファの方へと歩いて行く。


変な雰囲気にしてしまったと小さくため息をつくと、莉帆は気を取り直して料理を始めた。


***


食事を済ませると、莉帆はすぐさま和也に手を引かれて寝室に連れて行かれる。


そのままベッドに押し倒され、あっという間に服を脱がされた。


「莉帆…、莉帆、愛してる」


強く抱きしめられ、耳元でささやかれれば、莉帆の身体もそれに応えた。


仕事のことや悩み事、何でも話してくれるワケではない。


けれどこうやって愛の言葉をくれ、思いをぶつけるように抱きしめてもらうと、愛されていると実感できた。


彼はいつだって私を一番に思ってくれていると…


「ごめんなさい、和也さん」


気だるい身体をシーツに包み、莉帆は腕枕してくれている和也を見上げる。


「ん?何が?」

「さっきのこと。和也さんは話したくないのに、私、冷たい言い方をして。ごめんなさい」

「いいよ。莉帆は何も悪くない」

「でも…」

「いいから。謝るより、好きって言って欲しい」

「うん。和也さんのこと、大好きです」


和也は嬉しそうな笑顔を浮かべた。


「俺もだよ、莉帆」


軽く唇を合わせると、互いに見つめ合う。


もう一度口づけたあとは、もう止められない。


結局莉帆は終電を逃し、始発で帰ることになった。

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