6 ありふれた名前
いまって何月なんだっけ、とダーリアは首を傾げた。壁には王国暦のカレンダーがかけられていて、一日過ぎるごとに日付に線を引いている。いまは七月の頭くらいのようだ。
姉の婚礼があったのは吉例に従って六月のはずだ。
やっぱり王都からカリュプス属州は遠いのだなあ、とダーリアは唇をぎゅっと結んだ。
ニワトリの玉子を拾ったら疲れてしまったので、とりあえず少し休むことにした。
目を閉じると、知っている人の声で、意味のない音の羅列が聞こえる。
姉。母。父。王子たち。
みんな嫌いなのに、頭から消えてくれない。
もしかしたら自分は父の子でないのかもしれないな、とダーリアは思う。高貴な血筋でない、俗世間の血が混ざって、このくすんだ金髪と緑がかった青い目になったのではないか。
でっかいため息が出た。
毛布を被って目を閉じる。そういうことは考えたくない。考えると姉の、輝くばかりの美貌を思い出してしまう。
(ダーリアさんは本当にカテリーナさまの妹なのかしら)
(まるで世界史の授業に出てきた、古代の豊穣の女神像みたいだわ)
(やだあ。つまりドンドコした体型ってことでしょ)
クラスメイトたちが笑うのを思い出す。
「やめろ、くるな!」
ダーリアは絶叫した。
マクシミリアンは留守だ。
叫んだところでだれも助けてくれない。
泣きたい気分なのをこらえて目を閉じた。目を覚ましたらお昼だった。チーズの薄切りを載せたパンをマクシミリアンが用意していた。
食べ終えて、ダーリアはまた布団にくるまった。
なるべく意識を手放していたいからだ。ダーリアが起きているかぎり、頭の中では無限におしゃべりが飛び交う。あまりずっと考えていても具合が悪い。
はっと目を覚ますともう夕方だ。七月なので外はまだ明るいが、そろそろ犬たちを集める時間だ。
マクシミリアンは見当たらないが、とりあえず犬たちを呼ぶ。
「フラン! ポンド! マルク!」
犬たちの名前を呼ぶと、てんでんばらばらな方向から犬たちが集まってきた。
いかにも番犬、というような、ごつくてがっしりした犬たちだ。
きょうはきのうと同じ失敗をしないように、ドアは少しずらしてある。入れてやると犬たちは嬉々として犬のかこいに入った。囲いの戸を閉めて、そうだ残飯を持って来なくちゃ、と囲いを出ようとドアを押す。
……しまった。
きっちり閉めてしまった。ガチャガチャ、とカギ閉め虫の騒ぐ声も聞こえた。もしやと押してみるも開く気配はない。完全に、犬の囲いに閉じ込められたのである。
建物の外でカギ閉め虫にやられたならリリーマリアを呼んでこられるが、これでは誰かがリリーマリアを呼んでくるのを待たねばならない。
しかもマクシミリアンは留守のようだ。きっとカルブンクルス人の商人のところで、羊皮紙やインクを買っているのだろう。
犬たちはいつ食事にありつけるのかとしっぽを振っている。
「誰か! 誰かいませんか!」
声を張り上げるも誰かが来る気配はない。
柵を乗り越えられないか試してみるも、どうやら無理そうだ。
「もし! 誰か!」
ダーリアは犬のかこいの中でだいぶ長いこと人を呼び続けたが、マクシミリアンが帰ってくる気配はないし、犬たちはただただ残飯を楽しみにしてしっぽを振っているだけだ。
スポーツが苦手なダーリアに柵を乗り越えて出ていく能力はなかったし、ただただションボリするしかできなかった。
もしマクシミリアンが帰ってこなかったらどうしよう。
そんなあるはずのない妄想が頭を掠める。
マクシミリアンはこの要塞に住んでいるのだ、帰ってくるはずだ。
玄関から差し込む、外の夕暮れが赤くなってきた。
誰かが助けてくれるのを、ダーリアは待っていた。しばらく黙ってから、また頑張って声を張り上げる。
「誰か! 誰かいませんか! 助けて!」
ダーリアは必死で叫んだ。外から誰かが走る音がした。
ダーリアが必死で助けを求めているのに誰かが気付いたようで、要塞のドアがギギっと開いた。
「どうした!? カギ閉め虫に閉じ込められたのか!?」
知らない人だった。声は酒で荒れている。
だがダーリアはその人をどこかで見た記憶があった。赤い肌に茶色の髪、金色の瞳。ああ、小説「金のりんご」を読んで、何度も絵に描いて遊んだ主人公のガルシアだ。
「ガルシアさん、どうしたんです?」
その後ろをマクシミリアンがのこのことついてくる。
「坊さん、こんなちっちゃい女の子と一緒に暮らしてるのか? ロリコンなのか?」
助けに来てくれたガルシアそっくりの「ガルシアさん」は、呆れたように言った。
「さる高貴な方に頼まれたのです。この方の面倒を見るように、と」
「しかし犬小屋に閉じ込められるってのはどんくさいな……おっと失礼。閉じ込められたくて閉じ込められたわけじゃないもんな。俺は助けられないか試してみるから、坊さんはリリーマリアのババアを呼んでくるといい」
「わかりました。よろしくお願いします」
マクシミリアンは要塞を出ていった。
「あんた、アウルム人か?」
「はい。ダーリア・クリザンテーモと申します」
「クリザンテーモって、大貴族のご令嬢じゃないか。なんでこんなクソ田舎に?」
「王都の女学校でいじめられて、気狂いになりかけて、自殺未遂をしてここに来ました」
「お、おう……やんごとない人たちでもそういうことってあるのか。俺はガルシアだ。見ればわかる通りカルブンクルス人の商人で、羊皮紙や筆記用具、雑貨や酒を売って歩いてる」
「ガルシア……本当にガルシアさんとおっしゃるのですか?」
「おう。カルブンクルス属州じゃありふれた名前だからな」
ガルシアはにっと笑った。真っ白い歯が赤い肌に映える。
ガルシアはしばし犬小屋の鍵をいじっていたが、結局開けられそうにないようで、少ししてリリーマリアがマクシミリアンとやってきた。
「あんたホントにマヌケだね! それでよく王都の女学校に通ってたなんて言えるもんだ!」
そろそろ夜だというのに仕事を増やされたリリーマリアは機嫌が悪かった。リリーマリアがガチャガチャやるとあっという間に鍵が開いた。
「はい開いたよ! あたいは早く晩酌がしたかったんだ。上等な酒を買ったからね」
リリーマリアはプリプリと怒りながら帰っていった。
「あの、リリーマリアさんってお酒飲むんですか」
「ええ。彼女は大酒豪ですよ。超ウワバミですよ」
そうなのか……子供のようなハーフリングも酒を飲むのだということを理解するのに少し時間はかかったものの、とりあえず納得はできた。
それより問題は目の前の、大好きな冒険小説の世界から抜け出してきたようなガルシアである。
ダーリアの想像する、「金のりんご」の主人公ガルシアは、まさにこの「ガルシアさん」と同じ顔をしていた。こんな偶然あるのだろうか。ガルシア、というのがありふれた名前だと「ガルシアさん」は言うが、そうだとしてもあまりに出来すぎている。
正直なところ、ダーリアは自分がついに狂って錯乱状態に陥っているのでは、と自分を疑った。
マクシミリアンが、ガルシアに一緒に夕飯にしないか、と提案し、一同は食堂に向かった。マクシミリアンが料理している包丁の音が静かな要塞に響く。
ガルシアがダーリアの表情を見て、静かに訊ねた。
「どうしたんだ? ぽーっとしちゃって。あ、俺ぁ化粧品とかお菓子も商売してるんだが、欲しいなら言ってくれ」
「あ、いえ、その……『金のりんご』という小説、ご存知ですか?」
「ああ、王都で評判の。俺も読んだけどちょっとカルブンクルス人の扱いがよくなかったな。お嬢さん、あんな男の子が読むようなの読むのかい?」
「はい! いまは病気で、本を読もうと思ってもうまく集中できなくて、ぜんぜん読めていないのですけど、あの小説が大好きで、ずっとガルシアが好きだったんです」
ダーリアは小声の早口で言った。
そうなのだ、ダーリアは自分がまっとうな恋愛を望める容姿でないと思っているので、小説の登場人物に恋をする癖があった。
小説を読みながら声色をつかって朗読する癖もあったし、ダーリアは相当変な女の子なのである。
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