【2分で読めるシリーズ】第6弾『君たちと生きた家』――家は何を思うか⁉︎
いろは
【2分で読めるシリーズ】第6弾『君たちと生きた家』――家は何を思うか⁉︎
一緒に暮らすと似ると言うが、家もそうなのだろうか。
私はいま、解体されている。
君たちとの想い出が分解され、破壊されていく。
痛みは感じない。
ただ――君たちが、幸せであることを願う。
この気持ちは、君たちがくれたもの。
***
数十年前――
若くして家主となった夫婦は、毎日が薔薇色だった。
こちらが恥ずかしくなるほどの愛妻家。
妻もそれを当然とせず、夫に尽くす。
私は毎日磨かれ、年に二度の大掃除。
妻が唯一怒ったのは、夫の粗相で私を傷付けた時だった。
君たちは――「愛」を私に教えてくれた。
***
しばらくすると、見知らぬ女が入ってきた。
妻よりも年上で、シワの多い顔立ちをしている。
「おかあさん」と君たちは呼んでいた。
夫がいない場面では、女は妻に罵声を浴びせ続けた。
それを告げ口もせず、女が帰った後にそっと妻は泣いた。
ある日、三人で食事をしていた時に夫が席を立つ。
女は必然のように、妻の顔を曇らせた。
そこへ――夫が怒鳴り込んだ。
夫は知ったのだ。愛する妻に涙を流させている相手を。
女は人が変わったように妻に謝り続けた。
しかし、夫は妻の肩を強く抱き、決して許さなかった。
女は追い出され、もう来ることはなかった。
君たちは――「忍耐」と「守ること」を私に教えてくれた。
***
やがて、妻のお腹が大きくなり、家の空気は愛と期待に満ち溢れた。
妻は家事に手を抜かず、夫は心配し、優しさゆえに口論が生まれる。
温厚な妻がヒステリックに怒り出す日もあったが、
夫が妊婦の本を読みながら接し、次第にまた仲の良い夫婦に戻っていった。
君たちは――「希望」と「努力」を私に教えてくれた。
***
そして、小さき人間が、君たちの仲間に加わった。
君たちは私に、「子供の美来」だと紹介してくれた。
美来はやんちゃで、才能あふれる子供だった。
私には理解できないが、壁に何かの絵を描いて満足そうに笑う。
妻は卒倒した。
しかし、次第にそんなことでは慌てなくなる。
私は、美来の成長と共に傷が増えていった。
それは痛みではなく、どこか心地の良い傷だった。
君たちは――「親心」を私に教えてくれた。
***
美来は心優しい娘に育った。
床を削ることも、障子に穴を空けることもなくなり、
やがて机にかじりつくようになった。
君たちは「受験勉強」だと、緊張した日々を過ごし始めた。
妻は遅くまで付き合い、夜食を作る。
夫は妻の頑固さに慣れていた。何も言わず、ただ見守る。
雪が溶けた頃、君たちは抱き合いながら喜んだ。
その日は豪華な食事。珍しく、夫の酒に妻も付き合っていた。
桜が咲く頃、君たちはやけに澄ました顔で、私と一緒に写真を撮った。
やり遂げた後のその清々しい笑顔は、
君たち三人に共通していたように思う。
君たちは――「絆」を私に教えてくれた。
***
大学を卒業すると同時に、美来がひとりの男を連れてきた。
夫は見せたことのない剣幕で怒りまくり、男を叩き出した。
美来は泣き、妻はずっと背中をさすっていた。
男は肩を落として帰ったが、それから足繁く通うようになった。
しかし、私の中に入ることは叶わず、顔を歪めて帰路に着く――
そんな日々が続いた。
ある夜、妻が倒れた。
救急隊員が上がり込み、手際よく妻を連れ出す。
翌日、君たちは疲れた顔で帰ってきた。
数日後、男が呼び出され、「結婚」の承諾がおりた。
美来は泣きながら妻に抱きつき、
男たちも涙を流して握手を交わした。
――涙が温かいものだと気付いたのは、その時だ。
君たちは――「懇願」と「赦し」を私に教えてくれた。
***
まもなくして、美来が私の中を隅々まで見て回り、
傷のある柱に抱きついた。
木が湿るほど泣きじゃくり、最後に「ありがとう」と言った。
その時の彼女は、柱のどの傷よりも大きかった。
車で迎えに来た男に連れられて、美来はこの家を出て行った。
その日から、私の中はぽっかりと穴が空いたように、広く静かになる。
君たちは――「成長」と「淋しさ」を私に教えてくれた。
***
君たちは、また二人になった。
美来からたまに届くエアメールを、楽しみに待ちながら。
しかし、妻は不在の日が増えはじめ、家でも布団にいることが多くなった。
夫は仕事を休み、妻の看病をした。
湯も沸かせないくせに台所に立ち、慣れない手付きで食事を作る。
夫はひとりで酒を呑んでいる時、私に妻のありがたみを切々と語った。
妻はひとりで寝ている時、私に夫の存在がどれほど心強いかを熱く語った。
すべてを見てきた私にとって、それらは確かに納得できる言葉ばかりだった。
君たちは――「慈しむ心」を私に教えてくれた。
***
庭の木の葉が色付いた頃、君たちは揃って庭を眺めた。
秋の風が歌うように葉を揺らし、秋桜が踊るように花びらを擦り合わせる。
「……きれいね」
「そうだね――」
越してきた時は土しかなかった。
妻が毎日のように庭を掘り起こし、休日は夫が手伝った。
虫を怖がる妻をからかって、夫は水をかけられた。
美来が小さい頃は、一緒に種を蒔いた。
咲かないと泣く美来に内緒で、夫がチューリップを買って植えた。
君たちの会話は長くはなかった。
しかし、私も庭も、それらを決して忘れていない。
君たちの笑顔は、私たちの想い出でもあるからだ。
君たちは最期まで仲が良かった。
妻が先立つと、夫もまもなく後を追うように還らぬ人となる。
そして――私は、初めてひとりになった。
***
何年も、何年も――誰も迎えることはなく、ただ建っていた。
床や壁は朽ちかけ、庭は見る影もなく草に覆われていた。
静けさと虫の声だけがそこにあった。
終わりを告げられたのは、君たちがいなくなってから数十年が経った頃。
年老いた美来が訪れた。
夫を見送った時と同じ、優しい眼差しを私に向けて。
「……あなたを忘れないわ。本当に……ありがとう」
美来はこの家を出た時と同じように、
すべての部屋を周り、私のすべてに手を触れてくれた。
私も、同じ思いでいることを伝えたかった。
形は色褪せても、
君たちは――私に「感謝」を教えてくれた。
翌日、私は――解体された。
***
気がつくと、私はとても小さくなっていた。
体の中でチクタクと歯車が回り、間隔をおいてボーンと大きな音を立てる。
――ああ、今度は「時」を刻むのだ。
夫が好きだったジャズミュージックが流れ、
妻が好きだったコスモスの絵が飾られている。
美来の好きだったコーヒーの香りに包まれて、
マスターがカウンターでひとりコップを磨く。
その向かいの柱に、私はいた。
カランカラン――。
入ってきたのは、美来によく似た少女。
私の側面を見て、微笑む。
――贈呈 美来。
「マスター、コーヒー」
私はまた、君たちと共に思い出を紡ぐ――。
【2分で読めるシリーズ】第6弾『君たちと生きた家』――家は何を思うか⁉︎ いろは @Irohanihohetochan
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