第9話 66.6%の本音
風が髪を攫う。
雨が少し降ったのか、その風はどこか湿っていて、地面には馬車の車輪跡が淡く浮かび上がっていた。
あと一時間足らずで日付が変わるような時刻だというのに、王都の街並みは昼と変わりない明るさを保っている。
だが中心街から離れるにつれ、道路脇の店や酒場から漏れ聞こえてきた喧騒も、背後へ遠ざかっていった。
街灯の橙色と月明かりが、石畳の道に薄く反射する。
その上を伸びる影が、二つ。
「……なんでわざわざ送るなんて言ったの」
街の賑やかさが遠のいたことで浮き彫りになった沈黙を、ルーチェの声が破った。
両家での会食を終えた帰り道。
深夜とはいえ、この辺りの治安は悪くないし、レストランから自宅までは徒歩圏内。静かに夜風に身を委ねたかったのもあって、一人で帰るつもりでいた。
あの場で飲むワインでは酔いなど全く回らなかったので、途中の店で寝酒でも買おうかと思っていたくらいだ。
その予定を狂わせたのが、この男である。
「悪いかよ」
レフはジャケットのポケットに手を突っ込み、片目でちらりとルーチェを見やりながら言った。その仕草はいつものレフそのものだが、ワックスで整えられた髪から磨かれた革靴の先まで、きっちり決め込んだ今の姿とは、どこか噛み合っていない。
レフの家は、レストランを挟んで全く逆の方向にある。にも関わらず、レストラン前で解散、となった時、レフは平然と「俺が送ってく」と言い、ルーチェに付き添ってきた。
太陽は東から昇る、とでも言うかのように平然と言ってのけるから、まともな断り文句も思い浮かばず、こうして二人並んで歩いていたというわけだ。
「こんな時間に彼女を一人で帰らせる男なんかいねぇだろ」
「別に、本物の彼女ってわけじゃないし。てか、それなら誰か護衛をつけさせれば良かったじゃん」
わざわざ大幅に遠回りをしてまで、ルーチェを送る必要などどこにもない。きっと明日も仕事だというのに。知らないけど。
道端に転がっていた小石をつま先で蹴る。ころころと転がったそれは、夜空に黒く染められた水たまりに呑み込まれ、波紋だけを残して消えた。
「あーもう、黙って送られとけよ」
レフが喉奥に擦り付けるかのように、低い声色で言う。
先刻までの『レフリート・アイスヴェイル』の仮面は、歩く道中、どこかの水たまりにでも投げ捨ててきたらしい。
「ほんと、可愛げのねぇ女だな」
「はぁっ!? 誰が可愛げがないって?」
「お前以外誰がいんだよ」
かつ、かつ、と乾いたヒールの音が通りに響く。
その隣で革靴の音が、それに合わせるように鳴る。
「撃つよ?」
「やってみろよ。お前のそのおっそい魔法展開で俺に追いつけんならな」
にやりと挑発的に目を細めるレフ。条件反射で、ルーチェの指先に一瞬だけ魔力が走った。
「言っとくけど私、高校の時よりずっと強いからね」
「はいはい。婚約中の次期軍総司令官と次期情報局長が、痴話喧嘩で建造物損壊……明日のニュースは楽しいことになりそうだな」
「ぐっ……」
危うく伸ばしかけた手をなんとか引っ込める。
ここ八年間で少しは成長したらしい自分を心の中で褒めつつ、代わりに奥歯を噛み締めて鋭く睨みつければ、視線の先の男は心底愉快そうに喉を鳴らした。
一瞬、立っている場所が懐かしい校舎の廊下に思えた。
同じ空気を吸っているだけで、胃液が沸騰するかのように腹立たしい。それでいて、あの三年間を『悪い思い出』と言い切れない自分がいる。
放課後、二人で校庭にクレーターを作った時間の方が、家で軍の稽古を受けていた時よりも楽しかったような気がする。
彼の放つ一音一音が鼻につく。
だけど、爽やかで気の利く『レフリート・アイスヴェイル』より、性格の悪い『レフ』の方が、不思議と居心地が良い。
「つーか、さっき言ったの……『こんな時間に彼女を一人で帰らせる男はいない』ってやつ。あれは、理由の三分の一だ」
「え?」
不意に、レフが口を開く。
つい先ほどとは纏っている空気がなんだか違う上に、妙に歯切れが悪い。気になって顔を覗き込もうとすれば、そっぽを向かれてしまった。
「もう三分の一は普通に、心配だったから。お前、軍の天才魔導士として名も顔も知れてんだから……。そうでなくても、顔はいいんだし。少しは危機感持てよな」
脳がフリーズする。
「……なに、それ」
言葉の意味を測りかねて、歩調が一瞬乱れた。
いや、意味以前にそもそも今耳にした言葉のどれも、レフが自分に宛てたものだとは到底信じられなくて、もしや幻聴かと自分の正気を疑ってしまう。
夜風がひんやりと頬を撫でる。
さっきまで人の呼気に塗れたぬるさを纏っていた風が、いつの間にかやけに涼しい。
けれどその原因は多分、人通りが少なくなったことだけじゃない。
ルーチェの顔が、やけに熱いからだ。
「心配って……そんなに過保護だったっけ?」
「過保護じゃねぇだろ。そもそもお前の立場と身分で、警備もろくにつけずに一人暮らししてるっての自体、俺から見たらどうかしてる」
「私、大抵の不審者よりは強いと思うけど」
「ああ、よく知ってる。だからこそ言ってんだ」
そう言って、軽くため息をつくレフの表情は、街灯の逆光でうまく見えなかった。
唐突に響き出した鼓動が、ばくばくという音に合わせて気道を圧迫する。なぜだか、さっきの食事会よりもずっと息苦しい。全く別の意味で。
「ていうか、『三分の一』って……残りの三分の一は?」
そんなやりとりをしているうちに、気づけば自宅の前まで来ていて、二人は足を止めた。
「……今日は意外と楽しかった」
「へ?」
「それが言いたかっただけだ」
雨上がりの湿気った風に晒され続けたせいか、ワックスで整えられていたレフの前髪がはらりと落ち、その顔に影を作った。
「わざわざ、そのために……?」
「親の前で言うことじゃねぇだろ。……それに」
ふと、視線がかち合う。
「この言葉まで取り繕ってるだけだって、お前に思われたくなかった」
家の防犯ライトが、レフの顔を照らす。
銀髪の隙間から覗く耳が少し赤くて、その熱に引き寄せられるかのように、ルーチェの顔にも血液が上っていく。
口から言葉が出ない。言葉どころか、声帯そのものが思考回路と共に凍りついたようで、音の一つも出てこない。
驚き一割、照れ一割、理解が追いつかないのが十割。
稼働率一二〇パーセントの過負荷な脳で、ルーチェはただ、街灯のように棒立ちする他なかった。
——でも。
「……じゃあ、また。来週の金曜、迎えに来る」
レフがくるりと背を向ける。
片手を軽く上げ、歩き出したそのジャケットの裾を、気づけばルーチェは掴んでいた。
一つだけ、言いたいことがあった。
「——私も」
最初は、レストランの外観だけで気圧されていた。やけに手慣れたレフの立ち振る舞いに苛立ち、彼の父親の話には凍りつき、父子喧嘩が始まった瞬間なんて正直、テーブルナイフの先を己の頸動脈に滑らせたくなるほどだった。
だけど、それでも。
『ルーチェから、前線での仕事を奪いたくはない』
『パプリカが出てきたら、俺が食べてやる』
『そんなことする時間があったらお前の機嫌とってる方が現実的だしな』
相変わらずの減らず口の節々に、ほんのちょびっとだけ、心が温まっていたのも事実だ。
「私も……ちょっと、楽しかった」
ようやく出てきた言葉に、レフは少し目を見開き——
「……そうか」
ふっと、笑った。
今日見てきたどんな笑顔よりもぎこちなかったそれは、ルーチェにとっては一番いい笑顔だった。
「あと、送ってくれてありがとう」
「別に。俺が勝手にしただけだし。……余計な世話だっただろ、むしろ」
急にしおらしくなるレフの態度に、ルーチェはくすっと思わず笑みをこぼす。
「正直ね」
「おい。そこは嘘でも否定しろよ」
「けど、なんか嬉しかったのは本当」
夜風が二人の間を吹き抜け、街灯の灯りがゆらめく。
ルーチェの一言に、レフの動きがほんの瞬間、止まった。首を傾げるルーチェをよそに、レフは踵を返し——そのまま無言で立ち尽くす。
「え、何。帰らないの」
「こっちの台詞だ。早く家の中に入れ」
「え、そこまで見届けるの?」
「そうじゃないと意味ねぇだろ」
いつから彼はこんなに過保護になったのだろう。
いや、いつからというより、元よりレフに守られた記憶なんてない。むしろ彼こそが一番の脅威だったくらいだ。
ルーチェはため息をひとつ吐き、鞄の中から鍵を取り出す。かちゃり、と小さく解錠音が鳴り、ドアノブを捻れば扉がゆっくりと開いた。
「気をつけて帰ってね、レフ。……酔っ払いに喧嘩売ったりしちゃダメだよ?」
家の中へ入る間際、振り返って言うと、レフはムッと眉を寄せる。
「俺のこと、不良か何かだと思ってんのか? 安心しろ、未だかつてお前以外に喧嘩を売ったことはねぇ」
「私にも売らないでよね」
そう唇を尖らせれば、レフが微笑むから、ルーチェの口角も釣られてしまう。
月明かりを受けて仄かに光る銀髪が、風に揺れていた。
「じゃあね。おやすみ、レフ」
「ああ。おやすみ、ルーチェ」
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