いせてん~異世界演出部ですが、転生者がバカすぎて現地フォローしてきました~

月祢美コウタ

第5話 誓約召喚《ロイヤルオース》と王の至宝


史上最悪の「善意」


──イベント開始予定時刻の、半日前。


 森の奥深く、木々が鬱蒼と生い茂る場所に、一人の少年が立っていた。

 名前はカイト。異世界に転生して三ヶ月、チートスキル『鑑定LV.MAX』と『限界突破・物理攻撃』を手に入れた、自称・期待の新星である。


「はぁ〜、暇すぎる〜」


 カイトは大きくあくびをした。

 明日、この森で『大型モンスター討伐イベント』が開催されるという情報を聞きつけ、「俺が主役になるチャンス!」と意気込んで半日も早く現地入りしたのだが──当然、まだ何も始まっていない。


「早く来すぎたかな。でも、これで最前列確保できたし!あとは明日、俺が格好よくモンスター倒して、『さすがカイト様!』って言われるのを待つだけ...」


 その時だった。

 木々の隙間から、妙な光が漏れているのが見えた。


「ん?なんだあれ?」


 好奇心に駆られ、カイトはその光に向かって歩き出す。茂みをかき分け、獣道を進むこと数分──


「おお...!」


 カイトの目の前に、古びた石碑と、鎖で厳重に封印された小さな祠が現れた。

 石碑には、古代語で文字が刻まれている。カイトの『鑑定』スキルが、自動的にその文字を翻訳する。


『触れるな。目覚めさせるな。此処は災いの寝床なり』


「──キタコレ!!!」


 カイトの目が、少年漫画の主人公のように輝いた。


「これ絶対、隠しイベントじゃん!『触るな』は『押せ』って意味なんだよなー、この手のゲームのお約束は!」


 彼は興奮気味に祠に近づく。


「念のため、『鑑定』しとくか」


 『鑑定LV.MAX』を発動。すると、祠から情報が浮かび上がった。


【名 称】混沌の揺りカオス・クレイドル

【状 態】古代の封印魔法により『活動抑制中』

【解 説】負の感情エネルギーを糧とし、擬似生命体(モンスター)を無限に『生成』する古代の遺物。


「やっべ!」


 カイトは思わず声を上げた。


「『活動抑制中』!?『生成』!?やっぱり!これ、封印壊したら無限にモンスターが出てくる狩り場になるやつだ!レベル上げ放題じゃん!」


 彼の脳内では、既に計算が始まっていた。


「明日、騎士団が来るんだよな。みんなで狩りができる場所があったら、絶対喜ばれる!俺、超親切!天才じゃね?」


 カイトは拳を握りしめ、スキルを発動する構えを取った。


「よっしゃ!俺の一撃で、みんなの未来を切り拓いてやる!」


 『限界突破・物理攻撃』──発動。


「うおおおおおお!!」


 彼の拳が、光を纏って祠の封印に叩き込まれる。


 ドゴォォォン!!


 鎖が砕け散り、祠が木っ端微塵に吹き飛んだ。


「よっしゃあ!やったぜ!これで──」


 その瞬間。

 祠の残骸から、黒い瘴気が噴き出した。


「...え?」


 地面が揺れる。森全体が、まるで呼吸をするように脈動し始めた。

 そして──


 ギャアアアアア!!


 無数のモンスターが、瘴気の中から這い出してきた。オーク、ゴブリン、ワイバーン──それも、通常種の数倍の大きさで、目が赤く光っている。


「あれ...?」


 カイトの顔から、血の気が引いた。


「あれ?なんか...思ってたのと違う...?」


 モンスターの数は、どんどん増えていく。10体、20体、50体──


「あれ?なんか...ヤバくね?」


 カイトは、状況を理解した。


「──にげろおおおお!!」


 彼は全力で森を駆け出した。背後では、モンスターの群れが森を破壊しながら四方八方へと散らばっていく。


「やべえやべえやべえ!誰か、なんとかしてくれえええ!!」


 カイトの悲鳴は、誰にも届くことなく、森の闇に消えていった。


───


 そして、半日後。

 この「善意」が引き起こした大惨事が、王国全体を揺るがすことになる。



予言者の憂鬱



その日の朝、異世界演出部・会議室。


「はい、というわけで──」


 美咲が、ノートPCの画面を会議室のモニターに映し出した。


「今回の『大型モンスター討伐イベント』ですが、前回の反省を活かし、完全マニュアルを作成いたしました」


 画面には、PDFファイルのページ数が表示されている。


──428ページ。


「...美咲ちゃん」


 麻衣の左眼が、ピクリと痙攣した。


「それ、前回の3倍以上だよね?」


「はい」


 美咲は涼しい顔で答える。


「想定されるトラブルパターン127通り、緊急対応フローチャート89種、そして──」


「そして?」


「失敗した時の言い訳集も完備しております。相手の性格タイプ別に15パターン、責任転嫁の成功率データ付きです」


「言い訳集って何!?」


 麻衣が思わず立ち上がった。


「前回、『次はこうはいかない』と宣言した以上、完璧を目指すのが私の美学です」


 美咲の目が、静かに輝いている。これは彼女が本気モードに入っている証拠だ。


「いや、でも428ページって...誰が読むの、これ」


「田村さんには、要点をまとめた10ページのダイジェスト版を別途用意してあります」


「10ページでも多いわ!」


 麻衣は額を押さえた。しかし、美咲は意に介さず、PDFをスクロールし始める。


「では、重要なセクションをご説明します。まず、78ページ目──」


「78ページって、もう序盤じゃないじゃん...」


「こちらをご覧ください。『帝国軍侵攻時の対応プラン』です」


 画面に映し出されたのは、国境付近の地図と、軍の配置図、そして複雑な政治的背景の分析だった。


「...美咲ちゃん」


 麻衣の声が、若干引きつった。


「これ、もう演出部の範疇超えてない?」


「最悪のシナリオも想定するのが、プロです」


「いや、帝国軍って...国際問題じゃん...」


「田村さん、演出部の役割を忘れてはいけません」


 美咲は、まるで教師が生徒に諭すような口調で言った。


「我々の仕事は、転生者が無事にイベントをクリアできるよう、『舞台』を整えること。その舞台には、モンスターだけでなく、政治的な障害も含まれます」


「...そこまで考えてるのか」


「当然です」


 美咲は次のページをクリックした。


「続いて、132ページ。『保守派貴族による王妃排斥工作パターン分析』──」


「ちょっと待って!それ、サクラちゃん関係ある!?」


「あります。サクラさんは今、パートタイム王妃として活動しています。彼女が危険に晒される要因は、モンスターだけではありません」


「...マジで何者なの、あんた」


 麻衣は、もはや感心を通り越して呆れ顔になった。


「そして──」


 美咲は、さらにスクロールを続ける。


「──317ページ。こちらが今回、最も重要なセクションです」


 画面に表示されたタイトルを見て、麻衣は目を疑った。


『転生者が余計なことをした場合の対応プランC』


「...は?」


「文字通りです」


 美咲は、まるで天気予報を読み上げるような平坦な口調で説明を始めた。


「転生者は統計的に、87.3%の確率で『触るな』と書かれたものに触ります」


「具体的すぎる!?」


「過去のデータから算出した数値です。特に、『鑑定』スキル持ちの転生者は、その確率が93.7%まで跳ね上がります」


「どんなデータ取ってんの...」


「今回のイベント会場周辺には、『混沌の揺り籠』という古代の封印遺物が存在します。これは負の感情エネルギーを糧に、モンスターを無限生成する危険物です」


 美咲は、淡々と続ける。


「この遺物の前には、『触れるな』と古代語で刻まれた石碑があります。転生者が早めに現地入りした場合、彼らがこれを『隠しイベント』と勘違いし、封印を解く可能性が──」


「待って待って!」


 麻衣が両手を上げた。


「それ、『可能性』じゃなくて、もう『予言』のレベルじゃない!?」


「予測です」


「どっちでもいいわ!で、その『プランC』の内容は?」


「はい」


 美咲は、次のページを開いた。

 そこには、緻密な作戦図と、タイムライン、そして膨大な連絡先リストが記載されていた。


「発生源の特定、サクラさんによる鎮静化、アレス陛下と王国軍による既存モンスターの殲滅、そして市民の避難誘導。これらを同時並行で実行するための、完璧なフローチャートです」


「...」


 麻衣は、もはや何も言えなくなった。


「さらに、247ページには『隣国との密約可能性とその対策』、352ページには『王配偶者緊急動員マニュアル』も記載しております」


「王配偶者って...アレス様を戦力としてカウントしてるの!?」


「はい。ただし、今回は『戦力』ではなく『最終安全装置』として位置づけています」


 美咲は、眼鏡を指で押し上げた。


「サクラさんの『誓約召喚ロイヤルオース』が発動した場合、アレス陛下と王国軍が自動的に召喚されます。これを前提とした作戦プランが、既に──」


「ストップ!」


 麻衣は頭を抱えた。


「もう、何も聞きたくない...っていうか、美咲ちゃん、あんた絶対に普通の演出部員じゃないでしょ...」


「褒め言葉として受け取ります」


 美咲は、満足げに微笑んだ。


「では、田村さん。10ページのダイジェスト版をお送りしますので、目を通しておいてください」


「...はい」


 麻衣は、力なく頷いた。

 そして、心の中で呟く。


(...この子、もしかして、未来予知でもできるんじゃないの...?)


───


 その予感は、数時間後、的中することになる。



王の贈り物


同日、王宮。


「サクラ」


 穏やかな声が、サクラを呼んだ。

 振り向くと、アレスが廊下の先に立っていた。朝の光が窓から差し込み、彼の金色の髪を輝かせている。


「アレス様、おはようございます」


 サクラが微笑むと、アレスも優しく微笑み返した。


「おはよう。今日はこれを」


 彼が差し出したのは、小さな箱だった。


「...え?」


 サクラが箱を受け取り、開ける。

 中には、繊細な銀細工のペンダントが収められていた。チェーンの先には、深い青色の宝石が埋め込まれている。朝日を受けて、宝石が神秘的な光を放った。


「綺麗...」


 サクラは、思わず息を呑んだ。


「気に入ってくれたようで何よりだ」


 アレスは、安堵したように微笑む。


「でも、これは...?」


「お守りだ」


 アレスの表情が、少しだけ真剣になる。


「君が演出部の仕事で危険な場所に行くと聞いた。余は常に君を守りたいが、パートタイムの約束もある。だから、せめてこれを」


 彼は、箱からペンダントを取り出し、サクラの首にかけてあげた。


「これは、余と君を繋ぐ証だ。もし何かあれば──」


「アレス様...」


 サクラの胸が、温かくなる。


「ありがとうございます。大切にします」


「ああ」


 アレスは、サクラの頭に優しく手を置いた。


「無理はしないでくれ。君の安全が、余にとって何よりも──」


「──2時間57分後にお会いしましょう」


 突然、背後から声がした。

 二人が振り向くと、エレオノーラ侍女長が、いつの間にか立っていた。その手には、懐中時計。


「エレオノーラ!?」


 サクラが驚く。


「おはようございます、王妃様」


 エレオノーラは優雅に一礼した。


「本日のパートタイム勤務時間は、3時間。開始時刻は──」


 彼女は懐中時計を確認する。


「──3分前でございました。よって、残り時間は2時間57分です」


「もうカウント始まってる!?」


「規則は規則でございます」


 エレオノーラは、にこやかに微笑んだ。しかし、その目は本気だ。


「アレス様、私まだ何もしてないんですけど!」


「落ち着きたまえ、サクラ」


 アレスは苦笑しながら、サクラの肩に手を置いた。


「エレオノーラ、せめて挨拶の時間くらいは──」


「陛下」


 エレオノーラは、アレスを見据えた。


「『時間は全ての者に平等である』。これは、陛下ご自身がお決めになられたルールでございます」


「...ぐ」


 アレスは、返す言葉に詰まった。


「では、王妃様」


 エレオノーラは再びサクラに向き直り、優雅に微笑む。


「本日も、充実した3時間をお過ごしくださいませ。なお、2時間45分後には、執務室への移動をお願いいたします」


「移動時間まで計算してる...」


 サクラは、もはや抵抗する気力も失った。


「では、失礼いたします」


 エレオノーラは一礼すると、音もなく立ち去った。


「...すごい人だね」


 サクラが呟くと、アレスは深く溜息をついた。


「彼女は有能だが...少し厳格すぎる」


「でも、アレス様がそう決めたんですよね?」


「...ああ」


 アレスは、自分で自分の首を絞めたことを悟り、苦笑した。


「後悔している」


「ふふ」


 サクラは、思わず笑ってしまった。


「でも、ありがとうございます。このペンダント、本当に嬉しいです」


 彼女は、胸元のペンダントに手を添える。


「これがあれば、アレス様がいつも一緒にいてくれる気がします」


「ああ」


 アレスは、優しく微笑んだ。


「余は、いつでも君と共にある」


 二人の間に、穏やかな空気が流れる。

 しかし──


「──2時間54分でございます」


 廊下の向こうから、エレオノーラの声が響いた。


「まだいたの!?」


 サクラの悲鳴が、王宮に響き渡った。


───


 この時、サクラはまだ知らない。

 このペンダントが、数時間後、彼女の命を救う奇跡を起こすことを。



予言の成就


数時間後。


 サクラが演出部の転移魔法陣に立った時、美咲とのブリーフィングは既に完了していた。


「では、サクラさん。予定通り、現地での魔力探知をお願いします」


 美咲の声が、通信魔道具越しに響く。


「分かりました」


 サクラは深呼吸をして、胸元のペンダントに手を添えた。アレスの温もりが、まだそこにある気がする。


「転送、開始します」


 麻衣の声と共に、魔法陣が輝く。

 次の瞬間──


 サクラの姿が、光に包まれて消えた。


───


 森の外れ、開けた場所。


 サクラが転移してきたのは、木々に囲まれた草原だった。本来なら、ここで王国騎士団が『大型モンスター1体』を華麗に討伐する予定だった。


「...?」


 しかし、サクラは違和感を覚えた。

 静かすぎる。

 鳥の声も、虫の音も聞こえない。まるで、森全体が息を潜めているかのような、不自然な沈黙。


「魔力探知、開始します」


 サクラは目を閉じ、意識を研ぎ澄ませた。

 周囲の魔力の流れを感じ取る。風の流れ、大地の鼓動、そして──


「...!」


 サクラの目が、見開かれた。


「これは...」


 全身が総毛立つ。

 魔力の反応が、予定と全く違う。

 それも──桁違いに多い。


「美咲さん!」


 サクラは慌てて通信魔道具に手を伸ばした。


「どうしました?」


 美咲の冷静な声が返ってくる。


「魔力の反応が...予定と全然違います!」


 サクラの声が震える。


「モンスターの数が多すぎます!しかも、予定地から2キロも離れた...市街地方向に!」


「──」


 通信の向こうで、一瞬の沈黙。

 そして──


「...317ページ」


 美咲の声が、氷のように冷たくなった。


「え?」


「マニュアル317ページ。『転生者が余計なことをした場合の対応プランC』です」


「プランC...?」


 サクラは戸惑う。

 その時、麻衣の悲鳴が聞こえた。


「は!?ちょ、それマニュアルにない展開なんだけど...って、あるの!?プランCって何!?」


「後で説明します。サクラさん、魔力の『質』はどうですか?」


 美咲の声が、さらに緊迫する。


「質...?」


 サクラは再び意識を研ぎ澄ませた。

 モンスターたちの魔力を感じ取る。そして──


「...これ、異常です」


 サクラの顔が青ざめた。


「まるで...発生源がある。負の感情エネルギーが、一箇所から無限に溢れ出しているような...」


「──『混沌の揺り籠』が起動した」


 美咲の声が、断定的に響いた。


「揺り籠...?」


「古代の封印遺物です。負の感情エネルギーを糧に、モンスターを無限生成する危険物。本来なら、厳重に封印されていたはずですが──」


「まさか、誰かが封印を...!?」


「はい。恐らく、転生者です」


 美咲は、静かに答えた。


「統計通りです。87.3%の確率で、彼らは『触るな』と書かれたものに触ります」


「統計って...」


 サクラは呆れるよりも、美咲の予測能力に恐怖すら覚えた。


「サクラさん、すぐに市街地へ向かってください。市民の避難誘導を最優先に」


「分かりました!」


 サクラは走り出した。

 その背後で、森の奥から黒い瘴気が立ち上り始めているのが見えた。


───


 演出部、会議室。


「美咲ちゃん!」


 麻衣が叫んだ。


「428ページ、全部無意味になったんじゃないの!?」


「いいえ」


 美咲は、冷静にノートPCのキーを叩いた。


「317ページ以降が、今から真価を発揮します」


 画面には、『対応プランC』の詳細なフローチャートが表示されている。


「田村さん、王国情報部への連絡をお願いします」


「情報部!?なんで!?」


「国境の状況確認です。今から説明する時間はありません。信じてください」


 美咲の目が、鋭く光った。


「...分かった」


 麻衣は、美咲の気迫に押され、通信魔道具を手に取った。


「やるしかないわね」



聖女の選択



市街地、避難区画。


 サクラが到着した時、既にモンスターの群れが市民を襲い始めていた。


「皆さん、こちらへ!」


 サクラは魔法で光の道を作り、市民たちを誘導する。


「王妃様!」


「こっちです、急いで!」


 市民たちが、必死で避難していく。その後ろから、オークの群れが迫る。


「させません!」


 サクラは魔法弾を放ち、モンスターの注意を自分に引きつけた。


「王妃様!」


 騎士たちが駆けつける。先頭にいるのは、ギデオンだった。


「ギデオンさん!」


「王妃様、ご無事で!」


 ギデオンは剣を抜き、モンスターに斬りかかる。しかし──


「数が多すぎる...!」


 若い騎士の声が、絶望に染まる。

 次々と現れるモンスター。その数は、予定していた討伐対象の何十倍にもなっていた。


「王妃様!」


 騎士長が叫んだ。


「市民の避難誘導を!我々が時間を稼ぎます!」


「分かりました!」


 サクラは再び避難誘導に集中する。

 しかし──


「王妃様、避難が間に合いません!」


 別の騎士の声。


「あとどれくらい!?」


「最低でも7分...いえ、10分は必要です!」


「しかし我々の戦力では、3分が限界...!」


 ギデオンの声が、苦悶に満ちている。

 その時──


 美咲からの緊急通信が入った。


「サクラさん、聞こえますか!」


「美咲さん!」


「重大情報です。隣国ザルドニア帝国の軍が、国境付近で異常な動きを見せています」


「え...?」


 サクラの動きが、一瞬止まる。

 麻衣の声が割り込んできた。


「つまり、アレス様が今ここに来たら、国境の指揮系統が...!?」


「はい」


 美咲の声が、氷のように冷たくなった。


「王都の守備体制は万全ですが、問題は国境です。王が不在となれば、保守派貴族たちが動く可能性があります」


「保守派...」


「はい。最悪の場合、内部の手引きで帝国軍の侵攻を許します。予想被害...数十万の市民が危険に晒されます」


 サクラの顔から、血の気が引いた。

 手の中のペンダントが、まるで鉛のように重い。


「ギデオンさん...」


 サクラは、震える声で騎士長を呼んだ。


「私が、モンスターを引きつけます」


「なんですと!?」


 ギデオンの顔が青ざめる。


「皆さんは、市民の護衛を続けてください。私が...私一人が時間を稼ぎます」


「そんな!王妃様お一人では!」


 若い騎士が叫んだ。


「ペンダントを!王を呼んでください!」


「...できません」


 サクラは、ペンダントを握りしめた。


「これを使えば、国境が...数十万の人たちが...」


「しかし!」


「私一人の命で、ここにいる皆さんと、国境の人たちを守れるなら...それが、王妃としての私の役目です」


 サクラの目に、決意の光が宿る。


「ギデオンさん、お願いします」


「王妃様...」


 ギデオンは、苦悶の表情で歯を食いしばった。


「...分かりました。しかし、必ず生き延びてください」


「はい」


 サクラは微笑んだ。

 そして──


「皆さん、早く逃げて!」


 サクラは強力な魔法でモンスターの群れの注意を、全て自分に引きつけた。


 ギャアアアア!!


 無数のモンスターが、一斉にサクラに襲いかかる。

 避難している市民の中に、若い母親と幼い子供の姿が見える。

 母親が、サクラを見て叫んだ。


「王妃様...!」


「大丈夫です!」


 サクラは、必死で笑顔を作った。


「早く逃げて!」


 ガキィン!!


 モンスターの爪が、サクラの防御魔法に叩きつけられる。

 魔力が、どんどん削られていく。


(アレス様...)


 サクラは、ペンダントを握りしめた。


(ごめんなさい...)


 もう一撃。

 防御魔法に、亀裂が走る。


(でも、私は...王妃だから...)


 涙が、頬を伝う。


(私だけが犠牲になれば...みんなを...)


 モンスターの巨大な拳が、サクラに向かって振り下ろされる。


 風を切り裂く、巨拳の音。

 パリン、と防御魔法が砕け散る最後の音が聞こえた。


 サクラは、静かに目を閉じた。


(アレス様......愛してます......)


 その瞬間。

 ペンダントが、勝手に輝き始めた。


「え...?」


 サクラの目が見開かれる。


『──誓約召喚ロイヤルオース起動』


 ペンダントから、機械的な声が響いた。


「ダメ!」


 サクラは必死でペンダントを抑えようとする。


「止めて!アレス様、来ちゃダメ!!」


 しかし、光は止まらない。

 空が裂けた。

 眩い光が、天から降り注ぐ。


 そして、その光の中に、一人の男が立っていた。



王の降臨と至宝の宣言


風を切り裂く、巨拳の音。

 パリン、と防御魔法が砕け散る最後の音が聞こえた。


 サクラは、静かに目を閉じた。


(アレス様......愛してます......)


 その瞬間。

 胸元のペンダントが、眩い光を放った。


『──誓約召喚ロイヤルオース起動』


「ダメ!止めて!」


 サクラは必死で叫ぶ。


「アレス様、来ちゃダメ!!」


 しかし、光は止まらない。

 空が裂けた。

 天から一条の光が降り注ぎ──


 ドゴォォォン!!


 サクラを囲んでいたモンスターたちが、光の衝撃波に吹き飛ばされた。


「...え?」


 サクラがゆっくりと目を開ける。

 光が晴れた、その中心に──


 剣を抜いた男が、サクラを守るように立っていた。

 金色の髪が、朝日を受けて輝いている。


「アレス...様?」


 サクラの声が、震えた。

 男──アレスは、ゆっくりと振り返った。

 そして、優しく微笑む。


「待たせたな、サクラ」


「どうして...!」


 サクラは混乱した。


「国境が危ないのに!なぜここに!?」


「知っている」


 アレスの声は、穏やかだった。しかし、その目には確固たる意志が宿っている。


「国境の状況も、帝国軍の動きも、全て把握している。その上で、余は君を選んだ」


「そんな...!」


 サクラの目から、涙が溢れた。


「国が...数十万の人たちが...!」


 アレスは、サクラの頬にそっと手を添えた。

 そして──その声のトーンが、変わる。


「国は失っても取り戻せる」


 彼の瞳が、深い愛情に満ちている。


「だが、君を失えば、私は二度と立ち上がれない」


 ──「私」。

 王としてではない。一人の男としての、魂からの告白。


「アレス...様...」


 サクラの涙が、止まらない。


 アレスは優しく微笑むと、再び敵に向き直った。

 その背後で、巨大な魔法陣が空間を裂いて展開される。


 ゴゴゴゴゴ......!!


 地面が揺れる。

 魔法陣から、無数の騎士たちが降り立った。


「近衛騎士団、到着!」


 ギデオンの声が響く。

 完璧な陣形が、サクラを中心に円陣を組む。


「え...?」


 サクラは、呆然と周囲を見回した。

 次々と現れる騎士の姿。その数は、どんどん増えていく。

 そして──


 地平線の彼方から、無数の旗が見えた。


「あれは...まさか...!」


 若い騎士が、信じられないという表情で呟いた。


 轟音。

 大地を揺るがす、無数の足音。

 騎馬隊、歩兵隊、魔法兵団──


 王国の全軍が、一斉に到着した。


「さん...まん...!?」


 サクラは、その圧倒的な光景に言葉を失った。


 アレスは、静かに告げる。


「この国の騎士団と志願兵、3万だ。全員が、君のために駆けつけた」


「私の...ために...?」


「ああ」


 アレスは剣を構え、モンスターの群れを睨む。


 ベテラン騎士が、声を上げた。


「王妃様のため、命を惜しむな!」


 若い兵士が、剣を抜く。


「俺たちの誇りを守るんだ!」


 忠誠ではない。義務でもない。

 それは、自分たちの若き王が、初めて見せた魂からの願いに応えたいという、兵士たちの純粋な意志だった。


 無数の声が、一つになる。


「「「我らが至宝、王妃様を守れぇぇぇ!!」」」


 その瞬間──


 アレスは、白馬に飛び乗った。

 そして、氷のような声で告げる。


「──余の至宝に触れる者は、誰であろうと許さぬ」


 至宝。

 最も大切な、宝物。

 それは「妃」という公的な立場ではなく、彼にとってサクラが何よりも、誰よりも、かけがえのない存在であることの証明。


「全騎士──」


 アレスは剣を振り上げた。


「──殲滅せよ!!」


 ドォォォォン!!


 3万の軍が、一斉に動き出した。

 圧倒的な物量。

 人間の意志の力が、魔物の群れを飲み込んでいく。


 アレスは先陣を切り、モンスターを次々と斬り伏せていく。

 その一振り一振りが、まるで舞うような美しさと、容赦のない残酷さを兼ね備えていた。


「すごい...」


 避難していた市民たちが、その光景に息を呑む。


「これが...王の力...」


 若い騎士が、憧れと畏敬の眼差しでアレスを見つめる。


 サクラは、その光景をただ見つめることしかできなかった。

 涙が、頬を伝い続ける。


(アレス様...)


 彼は、国よりも、王としての誇りよりも──

 私を選んでくれた。


───


 戦いは、圧倒的な一方的殲滅戦となった。


 そして、わずか15分後。


 全てのモンスターが、地に伏していた。



揺り籠との対話


戦場の喧騒の中。


 サクラは、森の奥から立ち上る黒い瘴気を見つめていた。


(あれが...発生源)


 モンスターは次々と倒されていく。しかし、それでも新たなモンスターが湧き続けている。


「このままでは...」


 サクラは決意した。


「ギデオンさん!」


「王妃様!」


 ギデオンが駆け寄る。


「私、あの発生源を止めてきます」


「なんですと!?しかし──」


「大丈夫です」


 サクラは微笑んだ。


「私にしかできないことがあります」


 美咲の声が、通信魔道具から響いた。


「サクラさん、作戦を伝えます」


「美咲さん」


「あの『混沌の揺り籠』は、負の感情エネルギーで動いています。あなたの共感力なら、一時的にでも鎮められるはずです」


「...分かりました」


 サクラは深呼吸をする。


「30分間、活動を抑えてください。その間に、アレス陛下が既存のモンスターを全て殲滅します」


「30分...」


「できますか?」


 美咲の声が、静かに問う。


 サクラは、胸元のペンダントに手を添えた。

 まだ温かい。アレスの温もりが、そこにある。


「やります」


───


 森の奥深く。


 サクラが辿り着いたのは、破壊された祠の跡だった。

 そこから、黒い瘴気が噴き出している。

 地面には、砕け散った封印の鎖。そして、古びた石碑。


『触れるな。目覚めさせるな。此処は災いの寝床なり』


「...これを、誰かが」


 サクラは、瘴気の中心に近づいた。


 ギャアアア...!


 瘴気が蠢き、サクラを拒絶しようとする。


「大丈夫...怖くない...」


 サクラは、優しく語りかけた。

 そして──祠の残骸に、そっと手を触れる。


 ──!!


 瞬間、凄まじい負の感情が流れ込んできた。


「っ...!」


 怒り。憎しみ。悲しみ。絶望──

 全ての負の感情が、津波のようにサクラの心を飲み込もうとする。


「ああ...ああ...!」


 膝が崩れる。

 しかし、サクラは手を離さなかった。


(これは...)


 感情の奔流の中に、一つの「声」が聞こえた。

 言葉ではない。叫びでもない。

 ただ、途方もなく長い時間、一人で泣き続けてきた存在の──


 ──孤独。


「...辛かったんですね」


 サクラは、涙を流しながら囁いた。


「何百年も、ずっと一人で...誰にも理解されず、ただ封じられて...」


 揺り籠の感情が、少しだけ揺らいだ。


「でも、もう大丈夫です」


 サクラは、自分の魔力を揺り籠に流し込む。

 それは、攻撃ではない。

 温かく、優しい光。


「あなたは一人じゃない。私が...一緒にいます...!」


 黒い瘴気が、少しずつ薄れていく。

 サクラの魔力が、揺り籠を包み込んでいく。


「お願い...眠って...」


 サクラは、まるで子供を寝かしつけるように、優しく語りかけた。


「もう、苦しまなくていいから...」


 涙が、頬を伝う。

 それは、サクラ自身の涙なのか、それとも揺り籠の悲しみなのか──

 もう、区別がつかなかった。


「ずっと...ずっと苦しかったよね...」


 ゴゴゴ...


 瘴気の吹き出しが、弱まっていく。


「ありがとう...」


 サクラは微笑んだ。


「あなたも、頑張ってたんだね...」


 シュゥゥゥ...


 黒い瘴気が、完全に消えた。

 揺り籠が、静かになる。


「...眠って。もう、大丈夫だから」


 サクラは、最後の魔力を注ぎ込んだ。


 パァァァ...


 祠の跡が、優しい光に包まれる。

 そして──


 ──静寂。


 モンスターの新たな発生が、完全に止まった。


「...やった...」


 サクラは、その場に倒れ込んだ。

 魔力を使い果たし、体が動かない。

 しかし、心は満たされていた。


(みんな...守れた...)


 そして、意識が深い安らぎの中に沈んでいく──


「サクラ!」


 遠くから、愛しい人の声が聞こえた。


(アレス...様...ちゃんと、約束、守りましたよ...)


 サクラは、誇らしげに、そして幸せに、微笑んだ。



知の勝利


30分後。戦場。


 アレスが最後のモンスターを斬り伏せた。


「...終わったか」


 剣を納めるアレス。その周囲には、倒れたモンスターの山。


「陛下!」


 ギデオンが駆け寄る。


「王妃様が!」


「何!?」


 アレスの表情が変わる。


「森の奥で倒れておられます!」


「サクラ!」


 アレスは、全力で森の奥へと駆け出した。


───


 祠の跡。


 そこに、サクラが静かに横たわっていた。


「サクラ!」


 アレスは彼女を抱き上げる。


「...アレス...様...?」


 サクラが、薄く目を開けた。


「無事か!」


「はい...発生源は、止めました...」


 サクラは、弱々しく微笑んだ。


「よくやった」


 アレスは、サクラの頭を優しく撫でる。


「もう休め。あとは──」


 その時。

 緊急通信が入った。


「アレス陛下!」


 それは、王国情報部からの通信だった。


「国境は!?」


 アレスの声が、緊迫する。


「──大丈夫です」


 別の声が割り込んできた。

 美咲だ。


「美咲さん...?」


 サクラが、驚いた表情を浮かべる。


「サクラさん、お疲れ様でした」


 美咲の声は、いつもの冷静さを取り戻していた。


「国境は...どうなって...」


「全て、想定内です」


 美咲は、淡々と報告を始めた。


「実は、王国情報部と事前に連携し、予備防衛プランを発動させました」


「予備...?」


 アレスが眉をひそめる。


「はい。第4、第5騎士団と、近隣諸国の同盟軍を緊急配備。帝国軍の侵攻を未然に防ぎました」


「最初から...そんな手を...」


 サクラは、呆然とした。


「今回の『大型モンスター討伐イベント』、実は帝国のスパイが情報を掴んでいる可能性がありました」


 美咲は続ける。


「王都の防衛が手薄になることを利用して侵攻する危険性を、マニュアル78ページ目に記載しておきました」


「78ページ...」


「はい。ですから、王が召喚されても国境は守られる体制を、事前に整えておきました」


 麻衣の声が割り込んできた。


「誰もそこまで読んでないって!っていうか、美咲、あんたいつの間にそんな根回しを...」


「3週間前からです」


「早すぎる!?」


「演出部の仕事は、『何が起きても大丈夫』な舞台を作ることです」


 美咲の声に、静かな誇りが滲む。


「転生者が封印を解く確率、87.3%。王が王妃を優先する確率、99.8%。保守派貴族が動く確率、73.2%──全て、統計的に予測可能でした」


「...恐ろしい子だ」


 アレスが、心底感心したように呟いた。


「美咲さん...」


 サクラは、涙を浮かべた。


「ありがとう...」


「お礼を言われるほどのことではありません」


 美咲の声が、少しだけ柔らかくなる。


「これが、私の仕事ですから」


 通信が切れる。

 サクラは、アレスの腕の中で安堵の息をついた。


「よかった...本当に...」


「ああ」


 アレスは、サクラを優しく抱きしめた。


「全て、終わった」


 二人の間に、穏やかな沈黙が流れる。

 しかし──


「──ピピピ」


 突然、アレスの懐中時計が鳴り響いた。


「...?」


 アレスが時計を取り出す。

 そこには、エレオノーラ侍女長直筆のメモが貼られていた。


『3時間でございます』


「...」


 アレスは、静かに目を閉じた。


「アレス様...?」


「サクラ」


 アレスは、苦笑しながら言った。


「君の勤務時間が、終了したそうだ」


「え...?」


「エレオノーラが、私の時計にまでタイマーを仕込んでいたらしい」


「今!?このタイミングで!?」


 サクラの悲鳴が、森に響いた。


───


 数秒後。


 サクラの体が、強制転移の光に包まれる。


「ちょっと!私まだアレス様と──」


「また明日」


 アレスは、微笑んで手を振った。


「待っている」


「アレス様ぁぁぁ!!」


 サクラの叫びと共に、彼女は演出部へと転移していった。


───


 残されたアレス。


 アレスは、サクラが消えたばかりの、まだ温もりが残る空間に手を伸ばした。

 空を掴んだその手を見つめ、深く溜息をつく。


「……私の家臣たちは、少し優秀すぎるのかもしれないな」


 しかし、その呟きと裏腹に、彼の口元には誇らしさと愛情が入り混じった、柔らかな笑みが浮かんでいた。



王の告白


その日の夜。王宮、サクラの私室。


 扉をノックする音がした。


「どうぞ」


 サクラが答えると、扉が開き──


「アレス様!」


 アレスが、私服姿で立っていた。


「今日は、本当に疲れたな」


 アレスは優しく微笑むと、部屋に入ってきた。


「はい...でも、無事に終わって良かったです」


 サクラは、ベッドの端に座る。

 アレスは、その隣に腰を下ろした。


「サクラ」


「はい」


「君は...後悔していないか?」


 アレスの声が、少しだけ不安そうだった。


「後悔...?」


「ペンダントを使いたくなかったのだろう。それなのに、余が──」


「違います」


 サクラは、首を横に振った。


「私、本当に嬉しかったんです」


「...?」


「私が、自分一人で全てを背負おうとした時...アレス様が来てくれました」


 サクラは、胸元のペンダントに手を添える。


「これは、私が呼んだんじゃない。アレス様が、私を諦めなかった証です」


「サクラ...」


 アレスは、サクラの手を取った。


「でも、本当に...あれで良かったんですか?」


 サクラの目が、不安に揺れる。


「もし美咲さんの対策が間に合わなかったら...」


「後悔はしていない」


 アレスは、静かに答えた。


「あの瞬間、私の心は既に決まっていた」


 ──「私」。

 王冠を脱いだ、一人の男としての言葉。


「サクラ、君は知らないだろう。私が王になった時、誓ったことを」


「...?」


「『この国の全てを守る』と」


 アレスは、サクラの目を見つめた。


「そして、君は今、この国の『全て』の中で、最も大切な存在になった」


「アレス様...」


「国は人がいれば再建できる。だが、君という希望を失えば、私にはもう何も再建できない」


 アレスの声が、深い愛情に満ちている。


「だから私の選択は、王として正しかった」


「...王として、ですか?」


 サクラは、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。


「王としてではない」


 アレスは、サクラの頬に手を添えた。


「一人の男として、私は君を愛している。君がいなければ、私は生きていけない」


「アレス様...」


 サクラの目から、涙が溢れた。


「だから、二度とあんな無茶はするな」


 アレスは、サクラを優しく抱きしめた。


「君は一人じゃない。私がいる。美咲もいる。ギデオンも、エレオノーラも、そして3万の兵士たちも──」


「はい...」


 サクラは、アレスの胸に顔を埋めた。


「ありがとう...ございます...」


 二人は、しばらくそのまま抱き合っていた。

 静かな時間が流れる。

 そして──


「アレス様」


 サクラが、顔を上げた。


「はい?」


「愛してます」


 サクラは、満面の笑みで言った。


「私も、君を愛している」


 アレスは、サクラの額に優しくキスをした。


 二人の唇が、触れ合おうとした、まさにその瞬間──


 ──コンコン。


 無粋なノックの音が、甘い沈黙を打ち破った。


「……」


 世界の時間が、止まった。

 二人は、あと数ミリの距離で、完璧に硬直した。


「失礼いたします」


 扉が開き──


「エレオノーラ!?」


 エレオノーラ侍女長が、優雅に一礼した。


「陛下。王妃様の就寝時間でございます」


「...今か?」


「はい。健康管理も、私の職務の一つでございます」


 エレオノーラは、にこやかに微笑んだ。しかし、その目は本気だ。


「エレオノーラ...君は少し...」


「陛下が定められた『規則正しい生活』の規定でございます」


「...ぐ」


 アレスは、またも自分の決めたルールに縛られた。


「では、陛下。おやすみなさいませ」


「...おやすみ、サクラ」


 アレスは、苦笑しながら立ち上がった。


「おやすみなさい、アレス様」


 サクラも、笑いをこらえながら答えた。


 アレスが部屋を出ると、エレオノーラは優雅に扉を閉めた。


───


 廊下。


「...エレオノーラ」


「はい」


「君は、本当に容赦がないな」


 アレスは、深く溜息をついた。


「お褒めの言葉として受け取ります」


 エレオノーラは、優雅に微笑んだ。


「...参った」


 アレスは、苦笑しながら自室へと向かった。



予言者の新たなる誓い


翌日、異世界演出部・会議室。


「はぁ...」


 麻衣は、椅子に深く沈み込んだ。


「昨日は本当に...疲れた...」


「お疲れ様です、田村さん」


 美咲が、いつものように冷静な表情でコーヒーを差し出した。


「美咲ちゃん...あんた、本当に化け物だわ」


 麻衣は、心底感心したように言った。


「褒め言葉として受け取ります」


「褒めてないわよ!?」


 その時、扉が開き、サクラが入ってきた。


「おはようございます」


「サクラちゃん!大丈夫?昨日あんなに魔力使って...」


「はい、もう平気です」


 サクラは微笑んだ。


「美咲さん、本当にありがとうございました」


「お礼を言われるほどのことではありません」


 美咲は、いつものように淡々と答える。


「でも...全て、予測通りだったんですよね?」


 サクラが、少し恐る恐る尋ねた。


「はい」


 美咲は頷いた。


「転生者カイトが封印を解く確率、87.3%。彼がそれを『隠しイベント』と勘違いする確率、95.6%。全て統計通りでした」


「統計って...」


 麻衣は頭を抱えた。


「ねえ美咲、あんたどんなデータ取ってるの?」


「過去2年間の転生者行動パターン1,247件を分析した結果です」


「1,247件!?」


「はい。その中で、『触るな』と明記されたものに触れた事例は、1,089件。発生率87.3%です」


「もう、完全に学術研究のレベルじゃない...」


 麻衣は、もはや笑うしかなかった。


「ところで」


 サクラが、気になっていたことを尋ねた。


「あの転生者の方は...カイトさんでしたっけ?」


「はい」


 美咲は、ノートPCの画面を開いた。

 そこには、カイトの詳細なプロフィールが表示されていた。


「彼には、今後『演出部特別監視対象者』として、厳重に管理させていただきます」


「監視対象...」


「はい。新マニュアル『問題児転生者管理プロトコル』を現在執筆中です」


 美咲の目が、鋭く光った。


「彼には、定期的に『やってはいけないこと講座』を受講していただきます」


「講座まで作るの!?」


 麻衣が驚く。


「必要です。彼のような転生者は、統計上、今後も同様の問題を引き起こす可能性が78.9%です」


「もう、カイトくん完全にマークされてる...」


 サクラは、少し同情した。


「しかし」


 美咲は、少しだけ表情を緩めた。


「彼自身に悪意はありませんでした。単に、知識と常識が欠けていただけです」


「優しいのか厳しいのか...」


「教育によって改善可能と判断しています」


 美咲は、キーボードを叩き始めた。


「ちなみに、田村さん」


「ん?」


「今回の事件を踏まえ、マニュアルを大幅に改訂します」


「...何ページになるの?」


「832ページです」


「倍になってる!?」


 麻衣の悲鳴が、会議室に響いた。


「今回、新たに追加する項目は以下の通りです」


 美咲は、リストを読み上げ始めた。


「『誓約召喚発動時の国家総動員対応』、『王配偶者戦力活用マニュアル完全版』、『保守派貴族陰謀パターン147通り』、『隣国軍事行動予測モデルVer.2.0』──」


「ちょっと待って!」


 麻衣が手を上げた。


「もう、それ演出部の仕事じゃないでしょ!?外交とか軍事とか、完全に国家レベルじゃない!」


「演出部の仕事は、転生者が無事にイベントをクリアできる『舞台』を整えることです」


 美咲は、キリッとした表情で答えた。


「その舞台には、政治も、軍事も、全てが含まれます」


「...もう、好きにして」


 麻衣は、完全に諦めた。


「それと」


 美咲は、さらに画面をスクロールした。


「今回の事件で、一つ重要なデータが取れました」


「何?」


「アレス陛下が、国よりもサクラさんを優先する確率──99.8%です」


「0.2%は何!?」


 サクラが思わず突っ込んだ。


「誤差です」


 美咲は、真顔で答えた。


「つまり、今後のイベント計画において、『王が王妃を最優先する』ことを前提とした作戦立案が可能になりました」


「私の夫を完全にシステム化してる...」


 サクラは、頭を抱えた。


「安心してください、サクラさん」


 美咲は、珍しく微笑んだ。


「これは、アレス陛下の愛が本物である証明でもあります」


「...ありがとう、美咲さん」


 サクラも、微笑み返した。


「では、次回のイベント計画に移ります」


 美咲が、次のスライドを開こうとした──その時。


「ちょっと待った!」


 麻衣が立ち上がった。


「美咲ちゃん、あんた今日は休みなさい!」


「しかし──」


「ダメ!あんた、昨日から一睡もしてないでしょ!」


「...96時間起きていますが、業務に支障は」


「支障あるわ!私が支障!あんたが倒れたら、この演出部が回らないのよ!」


 麻衣は、美咲の肩を掴んだ。


「今日は強制的に休暇。異論は認めない」


「...」


 美咲は、少しだけ困った表情を浮かべた。

 そして──


「...分かりました」


 珍しく、素直に頷いた。


「じゃあ、サクラちゃんも今日はゆっくり休んで」


「はい」


 三人は、会議室を後にした。


───


 その頃、王宮。


 エレオノーラ侍女長が、アレスに報告していた。


「陛下、本日の予定ですが──」


「分かっている。全て、時間通りに進める」


 アレスは、苦笑しながら答えた。


「さすがでございます」


 エレオノーラは、満足げに微笑んだ。


「しかし、エレオノーラ」


「はい」


「少しは、手加減というものを覚えてくれないか」


「...検討いたします」


 エレオノーラは、優雅に一礼した。

 その目は、まったく譲歩する気がなかった。


───


 そして、王国の片隅。


 カイトは、演出部の『やってはいけないこと講座』の第一回を受講していた。

 講師は、もちろん美咲である。


「では、カイトさん。『触るな』と書かれたものを見つけた時、あなたはどうすべきでしたか?」


「...触らない...」


「正解です。では、なぜ触ってはいけないのですか?」


「...書いてあるから...」


「正解です」


 美咲は、満足げに頷いた。


「次回は、『鑑定スキルの正しい使い方』を学習します。しっかり復習しておいてください」


「は、はい...」


 カイトは、涙目で頷いた。


(俺...何でこんなことに...)


 彼の長い「再教育」の日々が、今始まったばかりだった。


───


 深夜、異世界演出部オフィス。


 麻衣とサクラが帰った後、美咲は一人、デスクに向かっていた。

 窓の外は、すっかり暗くなっている。街の明かりが、遠くに瞬いていた。


 画面には、新しいマニュアルの目次が表示されている。


『832ページ完全版マニュアル Ver.3.0 ~あらゆる可能性に備えて~』


 美咲は、その目次をゆっくりとスクロールしていく。


『第1章:転生者行動パターン完全分析』

『第2章:王配偶者緊急動員システム運用指針』

『第3章:国家総動員発動時の対応フローチャート』

『第4章:保守派貴族陰謀パターン147通りとその対策』

『第5章:隣国軍事行動予測モデルVer.2.0』

『第6章:古代封印遺物データベース』

『第7章:問題児転生者管理プロトコル』

...


 リストは、まだまだ続く。


「...まだまだ、仕事は続く」


 美咲は、静かに呟いた。

 そして、眼鏡を指で押し上げる。


 コーヒーカップを手に取り、一口飲む。もう冷めていたが、構わない。


「次は、どんなトラブルが起きるだろう」


 美咲の口元に、小さな笑みが浮かんだ。


「でも、大丈夫。私が全て、準備しておく」


 キーボードに指を置く。


 カタカタカタカタ...


 深夜の静寂を破る、タイピングの音だけが、オフィスにいつまでも響いていた。


───


 この世界のどこかで、新たな転生者が目を覚ます。

 この世界のどこかで、新たなトラブルが芽吹こうとしている。

 しかし、彼女は知っている。

 全ては、予測可能だと。

 そして、全ては、守れると。


───


【第5話:誓約召喚ロイヤルオースと王の至宝】


──完──


───


(次回予告風)


異世界演出部の戦いは、これからも続く──

次なる転生者は、どんな「やらかし」をしでかすのか?

美咲の832ページは、果たして役に立つのか?

そして、サクラとアレスの甘い時間を、エレオノーラは何秒で破壊するのか?


乞うご期待!




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いせてん~異世界演出部ですが、転生者がバカすぎて現地フォローしてきました~ 月祢美コウタ @TNKOUTA

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