第43話 「堰の朝見」
夜明け前の白樺亭は、湯気が静かに立っていた。マルタが鍋を回し、リナが小椀を並べる。
「今日は堰と市場だね。猫さんは塩抜き」
「お願いします」
クロは椅子で前足を揃え、熱を確かめるみたいにふうと息をかけてから、前歯で少しずつ。食べ終えると、ひげ先に一滴だけ湯気をつけてこちらを見る。拭いてやると、満足げに目を細めた。
ギルドでは、ミレイユが札を三枚掲げて段取りをくれる。
「一、堰の朝見。二、市場の“甘さ抜き”仕上げ。三、北門の夜詰めは関所主導――あなたたちは補助のみでいい」
「了解」
イリアが控えを取る。ヘルミナは薬包を指で弾き、短く頷いた。
「風の小術は喉に負担が少ない。午前の冷えなら使える」
レオンは肩を回し、サビーネは新しい弦を一度だけ引いて音を確かめる。クロは靴ひもの輪に鼻を入れ、するりと抜けて得意顔だ。
堰へ向かう道は澄んでいる。川霧が薄く、草の穂は片側にだけ倒れていた。ナディアが見印棒をのぞき、短く言う。
「上+一、下±零。昨夜は静か。――ただ、木座の角に樹脂の匂い」
樹脂。ピッチ松の匂いだ。嵌め木のすべりを悪くする手に使われる。
操作台の裏、影になる角に指を伸ばすと、爪の先がぺたとした粘りに触れた。薄く塗ってある。乾けば固まる、いやな仕事だ。
「やるなら夜中。乾ききる前に寄せたね」
レオンが膝をつき、布で押さえて樹脂を持ち上げる。ヘルミナが灰をひとつまみ落とすと、粘りがざらに変わる。俺はその上から小さな風で粉を散らし、板肌を乾かした。サビーネは土手の上から視界を通し、イリアは“樹脂痕”の印を記す。
「半目、試験」
ナディアの合図。鈴――小一→小二。見印が一目半分だけ落ち、戻る。手応えは軽い。異物はもう効かない。
「復帰」
小一一打。水の音が一定に戻る。クロが耳を動かし、ぴと俺の足に尾を当てて「大丈夫」を伝える。
「誰が塗った?」
ランベルトが詰所の道から現れ、鼻をひくつかせる。俺は布に取った樹脂を見せた。匂いは強くないが、松脂に油を混ぜた配合だ。
「倉庫の大工が使うやつだ。……狐印の内側まで、手がのびてるな」
セルジオへ回す採番を取り、樹脂片は封じた。ナディアが鍵束を握り直す。
「昼の便までは私たちが見る。あなたたちは市場へ」
市場は早い。白い布の下に色が並び、匂いが重なる。甘さはもう薄いが、路の角にはまだ子どもが集まりやすい影がある。フィオナが手を振り、瓶の口を布で拭いた。
「“砂糖は紙で”の札、まだ効いてる。けど、井戸端に一つだけ指跡」
「拭っておきます」
水場の縁、白い点がぽつ。布で拭い、薄く粉を払って跡を消す。クロは桶の台に前足を乗せ、くん、と嗅いでから「もうない」と言うように尻尾を立てた。イリアが地図の端に小さく「拭去」と添える。
――そのとき。通りの奥でぎいと車輪が鳴り、馬が鼻を下げかけた。樽の荷車、御者は若い。斜向かいの屋台の影で、誰かが紙包みをほどいた形跡がある。白い粉は見えない。匂いの筋だけが薄く伸びている。
「右寄せの導線、足りない」
サビーネがすぐ動き、視線で線を作る。レオンが人波を肩で割り、俺は細い風で匂いの筋を上へ持ち上げた。ヘルミナが香草の束をひとつ出し、クロがその上をすべってとんと位置を示す。御者の目がそこへ吸い寄せられ、手綱がくいと上がる。馬の鼻が戻った。
「助かった……どこから匂いが?」
若い御者が首を振る。レオンが顎で影を示すと、屋台の陰で粗末な紙がぺらと揺れた。白い粉は残っていない。袋の口だけが甘い。
「口、縛りが甘い。二結びで」
俺が紙紐を渡し、結びを作り直す。御者が見よう見まねで手を動かし、最後にきゅと締めた。
「これだな」
「はい。角に“遊び”を残さないのが肝心です」
クロがその手元を真剣に見上げ、こくりとうなずく。周りに笑いが生まれ、空気が和らいだ。
ひと息つくと、露店の陰から背の高い女が現れた。革の胸当て、双短剣。ひと癖ある目の色。
「ブライアの“線引き”ってあんたたち?」
ミレイユが時々名を出す、流れの冒険者ノエルだった。噂に違わず足音が軽い。
「ノエル。通りを守るのは仕事のうちです」
「見たよ。人を走らせないやり方、嫌いじゃないわ。……それと、狐印の倉で“野次”を飛ばしてた手合い、さっき酒場で騒いでた。尻尾が長いのは化かしやすい」
「助かります。夜は関所筋が詰めます。通りは静かに」
「了解。私は峠筋を見てくる。風が変わると獣も動くからね」
ノエルは片手を挙げ、群れに紛れるように消えた。サビーネが目だけで追い、弓をわずかに下ろす。
「あの足、役に立つ」
昼。白樺亭で短いものを腹に入れる。マルタが皿を置き、リナがクロの器をそっと押す。
「猫さん、今日はよく働くね」
クロは自分の皿をふみと押し戻し、俺の方へ顔を寄せた。ひげ先がくすぐったい。
「半分こ?」
「全部食べていい」
「うん」
午後は“甘さ抜き”の仕上げ。市場の角、鍛冶通りの曲がり、門脇。要所に香草の束を薄く置き、札の文字を一段濃くする。ミレイユが差し入れてくれた太字の墨は、紙の縁ですうと伸びて見やすい。イリアが筆を走らせる横で、クロは紙の角を押さえる係に徹し、風で捲れそうな瞬間にぺたと肉球を置く。役に立つ顔だ。
仕上げの最中、関所から使いの子が走って来た。
「セルジオさんから。『夜五、北門帳場にて詰め。狐印の年配、呼出応諾。――路の騒ぎを上げるな』」
「了解」
サビーネが短くまとめる。
「夕方は堰をもう一度見る。夜は外回りを軽い足で。帳場はセルジオ。――私たちは“音の小さい”方を担当する」
空の色が傾き始める。北門へ向かう道で、クロが一度だけ足を止めた。耳が前へ。鼻先がほんの少しだけ震える。
「におい、かわる」
川風が向きを変えた合図。峠の向こうが冷え始めたのだろう。堰の朝見をもう一度、やっておいて良かった。俺はクロの頭をとんと撫で、歩幅を合わせ直した。サビーネは弦を一度だけ弾き、レオンは錘袋の重さを手の中で測る。ヘルミナは携帯の灯芯を指先で確かめ、イリアは控えの束を小さく叩いた。
夜はまだ少し先。静かなうちに、もう一仕事だ。
◇
夕の手前、川風はまた冷えた。堰に寄ると、ナディアが手すり越しに水面を見ていた。
「上+一、下±零、変わらず。――昼に剥いだ樹脂の跡へ、もう一度灰を」
ヘルミナが小袋を開き、灰をさっと落とす。俺は細い風で面を均す。板肌が乾いた手触りに戻る。クロは柱の根元をとんと触れ、「もうねばねばじゃない」と言いたげに尻尾を上げた。
「今夜もここは守る。北門は関所筋に任せるが、報せは互いに回そう」
ナディアに礼を言い、堰を離れた。
北門へ入ると、帳場の灯が一点、静かに立っている。セルジオが座し、ランベルトが壁に貼った地図を指で押さえていた。狐印の倉の並びに赤い小丸が三つ。
「来たか。――年配、呼出に応じた。言葉は硬いが、聞く耳はある」
簀巻きではない。自分の足で来たのだろう。奥の小部屋で、灰色の腕輪を外した年配が手を組んでいた。髪に白。目は落ちてはいない。
「砂糖を路に出したのは誰の指示?」
まずセルジオ。年配は首を横に振る。
「…始めは“塩の縁”だった。小口の借りで、荷を預かっただけだ。『路へ撒くな、灯のそばへ置け』と。馬が止まれば賑わいになる、と」
「名は?」
「名は出さない。呼び名は“アール”。狐印の端の帳場で合図だけ受ける。黒い指輪をしている。昼は出ない。夜五か、夜六」
ランベルトが額に手をやり、短く息を吐く。
「“アール”は噂で聞く。玄関口を汚さず、鍵を借りる手合いだ」
イリアが細筆で書き取り、俺は蝋板を年配の前に置いた。《北門倉庫/狐印/次:夜五/合図:黒◦×二》――さっきの拾い物だ。
「これは“アール”に渡すもの?」
「……棚に差しておけ、と言われた。合図が減れば次もある。増えれば“手が変わる”。そういう約束だ」
「手が変わると?」
「外の車列だ。狼の牙を印にした幌。南の町から来る。三刻も止まらない」
セルジオは年配の視線を逸らさず、声の調子だけを少し緩めた。
「あなたは今ここにいる。腕輪も外した。――次は“街側に立つ”番だ」
年配は沈黙のあと、短くうなずいた。クロが机の上へ前足をぽすと置き、爪を出さないように気をつけて紙角を押さえる。年配の目尻がわずかに動いた。
「“アール”を取る段取りは二つ」
ランベルトが地図で示す。狐印の三棟、裏を流れる水路、荷車置場、板橋。
「一、合図を“偽物”に差し替える。二、置場の影で“待つ”。――騒ぎは広げない。“声”を先にして“刃”は最後」
サビーネが矢尻を布で拭き、頷く。
「偽物の刻みは私とイリアで書く。元の符丁に似た癖で、意味だけずらす」
「ずらす?」
年配が顔を上げた。イリアが蝋板を傾け、筆先で細い線を指す。
「“黒◦×二”は黒灯を二。これを“黒—◦二”に。線一本で“灯の位置”を変える癖がある。見慣れた者ほど、焦る」
「焦れば足が乱れる。……なるほど」
セルジオは短く顎を引いた。
「足を乱せば、声が届く距離まで近づける」
準備に入る。イリアが蝋板を刻み直し、墨を擦る。俺は荷車置場から門までの風の通りを頭に入れ、甘い匂いの“逃げ道”だけを想定する。レオンは錘袋を握り直し、ヘルミナは香を数本選び、サビーネは屋根伝いの経路を確認する。クロは地図の水路に鼻先を寄せ、ふにと鳴いた。
「水、におい、つよい」
「この流れだと、匂いが下手へ抜ける。置場の方は薄い」
「なら、板橋の手前で一度“上へ逃がす”」
ヘルミナが香を一つ渡してくれる。鼻に抜ける草の香りが甘さを削る。ポケットに一本、備えておく。
夜五まで刻がある。帳場の裏で軽く体を温め、道具の位置を揃える。サビーネは屋根。俺とクロは板橋の影。レオンは置場の角で“石の残り香”を指先にまとめる。ヘルミナは香の火と包帯。イリアは合図の控えと、捕りの紙。ランベルトは薄鎧を締め、若い衛兵を二人、影に散らした。セルジオは“当番表”をひとつ書き直し、帳場の灯をすこし落とす。
空が濃い藍へ変わる。街道側のざわめきが細くなる。鐘が遠くで一つ。夜五。
狐印の並びに、人影がすっと入った。背は高くない。上衣は黒。右手に黒い指輪。歩幅が乱れない。視線が常に角を見る。足音は軽い。――“アール”だろう。俺は息を一つ整え、板橋の手前、影の浅い位置へ出る。クロが足元に合わせ、尾を低く保つ。
“アール”はまず壁の節を撫で、次に棚の足元へ指を差し入れた。蝋板の癖を確かめる動き。刻みに気づくのは、その次だ。顔がごくわずかに傾く。灯の位置が「違う」。
そこで、屋根からことりと小さな音。見上げた目へ、サビーネの影。弦は張られ、矢はまだ載っていない。だが、そこに“視線”がある。もう一歩、踏み出せば音が出る。踏まなければ届かない。
“アール”は踏まなかった。代わりに、膝をわずかに折り、体を斜めに切って退路を作る。速い。板橋へは来ない。置場の影へ潜るつもりだ。そこでレオンの錘がぱしと石を打ち、音が一つ転がる。反射で目が寄る。俺はその目に“声”を入れた。
「動かないで。関所で話を聞きます」
刃は見せない。両手は開いている。クロが一歩前へ出て、板の継ぎ目をとんと押す。足元の“悪さ”を先に知らせる合図だ。アールのつま先がそれを跨いだ。体の重心が少し高くなる。
ランベルトが影から出た。短槍は下。盾も下。若い衛兵が左右へ間合いを取る。セルジオは帳場から一歩も出ない。声だけが届く。
「荷は押収済み。灯も消えた。――あなたの“後ろ”だけが残っている」
“アール”の目がわずかに笑った。指輪の黒が灯を拾い、細く光る。
「“後ろ”を渡せば、私の先はない」
「渡さなくても先はない」
返したのはサビーネだ。屋根の縁、矢はまだ番えていない。だが、その位置から目を離せば退路が消える。
沈黙が一つ落ちた。次の瞬間、“アール”は自分の外套の裾へ指を入れ、何かをぱらと落とした。粉ではない、小豆より少し大きい粒。地面に触れた瞬間、ちりと小さく火がはぜた。火縄の粉玉。眩しさで視線を切る手だ。俺は反射で手のひらを返し、粉玉の上に風をぱんと叩き落とす。火は広がらない。煙だけがすうと上に抜ける。
そのわずかな隙に、“アール”は板橋ではなく、水路の縁へ踵をかけた。飛ぶ気だ。クロが先に動いた。水面へ出る風の筋を読み、尾をびっと立てて踏み切る。前足が“アール”の袖をぺしと叩き、体の向きを半歩だけ狂わせる。水へは落ちない。だが、着地が浅くなる。
レオンの錘がそこで効いた。脛の前に小さくことと置かれた石へ、“アール”の足がかすって止まる。体が壁へ寄った瞬間、ランベルトの盾ががつと道を塞いだ。若い衛兵の片方が腕を取り、もう片方が指輪の手を押さえる。サビーネは一度も矢を番えないまま、弦だけで逃げ道を縫った。
「終わりだ」
ランベルトの声は低い。“アール”は抵抗を捨てた。指輪を外すと、自分で地面へ置く。顔色は変わらない。セルジオが帳場から出てきて、指輪を袋に落とし、封をした。
「関所で聞く。――連れて行け」
若い衛兵が頷き、静かに連れていく。騒ぎは上がらない。置場の影へ散っていた人の気配が、何事もなかったように戻っていく。
ふう、と息が一本、夜気へ溶けた。クロが足元に戻ってきて、すりと足に顎を当てる。鼻先が冷たい。俺はその頭を撫で、ひげに付いた埃を指先で落とした。イリアが控えを閉じ、ヘルミナが包帯の端を整える。サビーネは屋根から降り、弦を緩めた。レオンは石を数え、錘袋の口を締める。
「今夜はここまで。……街は静かだ」
セルジオが灯を持ち上げ、帳場へ戻る。ランベルトが短槍の穂先を布で拭きながら、俺たちを見た。
「無駄がないのは、いい。猫さんも良い仕事をする」
クロは胸を張ってにゃとも鳴かず、尾だけ高くした。ミレイユに見せたい顔だった。
解散の前、セルジオが一行だけ紙に書いて渡す。
――《黒指輪、押収。倉印“狐”の内側、当面封鎖。堰の樹脂痕、継続観察》
「明朝、堰の“角”をもう一度。樹脂の同種が回ると厄介だ。市場は“香”を薄く続ける。……おやすみ」
「おやすみなさい」
門を離れると、夜風が少しやわらいでいた。白樺亭の灯が小さく見える。クロが歩幅を合わせ、時々こちらを見上げる。ひげが揺れるたび、月の光がきらと乗った。今日は、いい顔のまま眠れそうだ。
◇
白樺亭に戻ると、灯りは低く、湯気が静かに立っていた。マルタが鍋を回し、リナが椀を並べる。
「遅かったね。冷えただろう、薄粥と温かい茶。猫さんは塩抜き」
「助かります」
クロは椅子に跳び上がると、前足をそろえて待つ。湯気をくんと嗅いで、目を細めた。
「あったかい」
「少しずつな」
舌でふちを舐める動作が慎重で、見ているだけで肩の力が抜ける。今夜は刃が出なかった――それだけで胸の奥が軽い。
食後、帳場でマルタが紙束を差し出した。
「堰の札の控え。昼の客が『文字が揃ってて読みやすい』って。明日も同じ調子で」
「はい」
部屋に上がって道具を拭き、革の紐を点検する。クロは寝台の端で毛繕い、尻尾の先で布団をちょいちょいと突ついた。灯を落とすと、彼は胸の上に丸くなり、鼻先を俺の襟にすりと押し当てる。
「アキラ、ねる?」
「寝る。明朝、堰」
「うん」
呼吸を合わせるように、眠りが深くなった。
◆
薄い靄が川面にたなびく夜明け。堰の手すりは冷たく、木の肌が露を吸っている。ナディアが見印棒を覗き、短く頷いた。
「上+一、下±零。――昨夜の樹脂跡、もう一度あぶる」
ヘルミナが香に火をつける。灰色の煙をふと流すと、板の目の一部がわずかに鈍く光る。昨日削いだはずの面に、指先でなすったような新しい薄膜。
「誰かが“試し塗り”をしたね。軽い質だ。流れに混ぜて運ぶ気」
「朝のうちに落とす」
刃ではなく、麻布と灰を使う。俺は細い風で灰を面に押し付けるようになぞり、ヘルミナが水で払う。灰が樹脂を抱えてくれ、板肌が呼吸を取り戻す。クロは柱の根に前足を乗せ、爪を出さないようそっととんと触れてから、首を傾げた。
「におい、うすくなった」
「よし」
点検歩廊に移る。手すりの影に、髪の毛のような細い糸が渡っていた。昨日、倉の裏で見た麻糸よりも細い。
「鳴子にも満たない。けれど“来た”を知らせるには十分」
サビーネが矢尻で糸をこつと持ち上げ、イリアが糸の結びを紙に描き写す。ほどいた端はヘルミナの小瓶に入れ、栓をした。
「“灰指”の癖、揃ってる。糸の締め方が同じだ」
「なら、向こうは堰に“印”を置いて自分に合図を欲しがってる。……合図をすり替えた昨夜と同じ筋で行ける」
ランベルトから夜のうちに届いた紙には、もう一つ情報があった。“アール”が口を割ったという。昼前、古橋の下で伝令と接触――印は“黒い針”。短い会釈で合図し、言葉は少ないらしい。
「堰は任せる。俺とクロは古橋へ顔だけ出す」
「私も行く」
サビーネが言い、イリアが控えをまとめる。ナディアは柱を軽く叩いた。
「昼の“半目”は私たちで回す。戻りでまた寄れ」
「お願いします」
しばらくのあいだ、見張り台の上で風を読む。練習のつもり、と言えば大げさだが、やっていることは同じだ。葉を一枚、水面に浮かべる。手のひらで空気の縁をそっと返す。葉は渦の脇を滑り、流れの筋が目に見えるようになる。クロが身を低くしてそれを見つめ、前足で空をすっと掻くまねをした。
「ここ、まわってる」
「うん、見えてるな」
ほんの数呼吸だが、身体の芯が温まっていく感覚があった。堰の音を聞きながら息を整える――戦いではないけれど、こういう積み重ねがいざという時の手になる。
◆
古橋は市場の北、石の三連。橋脚が太く、下に小さな舟着きがある。昼前の風は乾いていて、行き交う人の靴音が軽い。橋の腹は陰になり、声が響きすぎない。接触には都合がよい。
ランベルトの若い衛兵が見回りに紛れ、焼き栗の屋台がひとつ場所を取っている。皮の焦げる匂いに甘い香りが混じらないか、まず確かめる。大丈夫だ。クロは舟の綱に鼻を寄せ、尾を立てた。
「ここ、ひと、たくさん。でも、しずか」
「声を上げない場所だ」
約束の刻が近づく。舟着きの影から、一人が現れた。年は若いが、足の運びが荒くない。上衣の袖口が微かに黒ずんでいる。指先に細長い針――針の頭が黒い。合図の印だ。橋の腹の中央で立ち止まり、周囲の壁と石畳を一度ずつ見る。目だけが忙しい。
俺が一歩出ると、彼はわずかに体の向きを変えた。逃げ道を意識している角度。サビーネは屋台の陰に立ち、弦に触れていない手を腰に添える。焼き栗屋の親父は、栗を転がす音だけを増やしてくれた。通りの雑音がうまく隠れる。
「黒い針を探しているなら、ここ」
俺はポケットから針を一本出して見せる。昨夜、押収した袋に一本だけ混ざっていた“合図用”。若者の目がそこに寄る。無理に奪いに来ない。目だけで距離を計る手合いだ。
「“アール”に渡す物はもう要らない。――別の話をしよう」
「……関所の人間か」
「街の人間だ」
返す間に、クロが若者の足元をすりと舐めるように回り込んだ。尻尾が軽く若者の脛に触れ、そこに“段”があることを知らせる。橋の石は磨り減って浅く窪んでいる。走れば踵を取られる。逃げ足を選ぶ者ほど、ここで躓く。
若者はそこを避けて半歩ずれた。賢い。けれど、避けた先には衛兵の影がある。ランベルトが言っていた。「退路は“自分で”塞いでもらうのがいちばん早い」
「お前らは何者だ」
「市場で砂糖を拾って拭く側」
「……やりづらい世の中だ」
「馬が鼻を下げて転ぶより、ましだろう」
若者は少しだけ笑った。指の針がわずかに沈む。心臓の拍に合わせて、小刻みに揺れているのが見える。緊張が指先に出るタイプだ。
「伝える先は“牙”か?」
サビーネが低く問い、若者の目が一瞬だけ右へ滑った。橋の北側――倉の屋根が並ぶ方角。狼の牙印の幌が昼過ぎに流れる筋。
「言いたくないなら、うなずくだけでいい」
若者はうなずかなかった。代わりに、胸の前で指を一本だけ曲げた。一本。北の倉の一番手前。語らずに、指で伝える。
「いつ来る」
「……午後の、鐘の前」
「幌の色は」
「黄土。布は厚く、縁に黒糸」
言うほどに、目が揺れる。自分で自分の舌を驚いている顔だ。クロがにゃとも鳴かず、尾をゆっくり下げる。落ち着け、の合図。
「お前はどうする」俺が問う。
「俺は、もう渡さない」
それは、逃げるという意味にも、違う場所に行くという意味にも取れる。サビーネが目で俺に問う。俺は小さく首を横に振った。今、縛るのは簡単だ。でも、ここで紐をかければ、同じ“針”が別の手に移るだけだ。
「橋の下に、紙を一本置く。そこを見てから町の外へ出ろ。南じゃない。西へ」
「西?」
「畑が続く。今は風が弱い。匂いが残らない」
若者は一拍ののち、針を袖に差し込み、橋の影に消えた。栗の匂いだけが残る。焼き栗屋の親父が、焦げ目を見ながらぽつり。
「若い背中は、風に押されやすい」
「押し返す風が、足りてほしいです」
親父は笑って、栗を二つ包んでくれた。銅貨を置くと、首だけで「またおいで」と言った。
◆
関所へ戻ると、セルジオは既に北門隊と段取りを詰めていた。地図の上で、幌の通り道、止めやすい角、視界の重なる屋根が次々に指で示されていく。レオンは角石の残りと錘の数を確認し、ヘルミナは香と布水を補充。イリアは捕りの紙を三枚、名前欄だけ空けて用意した。サビーネは屋根渡りの足場の癖を描いていく。
「狼の牙の幌は“商い”に紛れる。止めるなら“一度”で決める」
ランベルトが短く言い、セルジオが続ける。
「市場側に“騒ぎ”を流さない。幌は押収、車は別へ。人は動かす。――堰は?」
「朝に樹脂の薄膜。落として、糸を回収。昼の半目はナディアが回すと言ってました」
「良し。夕刻の水は俺からも見に行く。……少年、猫」
「はい」
「お前たちの“風”は、目立たずに効く。幌の前で一度、後ろで一度。やりすぎないこと」
「肝に銘じます」
クロが机の端へ前足をちょんと置き、紙角を押さえた。「ぼくも、やる」と言う顔だ。セルジオが思わず笑う。
「彼には“鼻”と“間”を頼む。――よし、食って、動け」
白樺亭で粥をかきこみ、角の果物屋で薄い果実水を一本。フィオナが栓を拭きながら目を細める。
「昼過ぎ、通り場を一度空けるね。幌が抜けやすいように。……猫さん、がんばって」
「がんばる」
クロは瓶の口をくんと嗅いで頷いた。
鍛冶通りのフーゴは、短い棒の革を指でぴんと弾く。
「革、乾き良し。――手袋の縫い目、ほつれかけだ。今直す」
針が走るあいだ、俺は見印棒の先を布で拭く。フーゴがちらと横目で見て、口の端を上げた。
「手の癖が落ち着いてきたな」
「川の音で、息が揃う感じです」
「それでいい。息が整わないと、目が乱れる」
戻る道すがら、クロが胸を張って歩幅を合わせてくる。尻尾の先がゆらりと揺れて、日差しにきらと光る。彼の足音は軽いが、土の上でリズムが崩れない。いちど振り返って、俺の顔を確かめる。
「アキラ、だいじょうぶ?」
「大丈夫だ。昼が来る」
鐘まで、もう少し。幌はまだ見えない。空気の張りだけが、街の骨組みを鳴らしているみたいだった。
◇
鐘まであとわずか。北門前の通りは、露店が半歩ずつ身を引き、衛兵が角ごとに立ち位置を固めていた。レオンは角石を二つ、路面のわずかな傾きに合わせて置く。布袋に砂を詰めた錘は、縄で結んで梶棒の軌道に沿う位置へ。人の流れはランベルトが口で導く。「右寄せで歩き」――短い言葉だけで、通りの呼吸が整っていく。
俺とクロは、幌の進行線の手前に立つ。サビーネは屋根。イリアは掲示台の影で控えを用意し、セルジオは詰所から全体を見る。ヘルミナは布水の壺、レオンは角石の前にしゃがんで最後の角度を見直した。
「来る」
クロが前足を一歩出し、尾を立てた。黄土の幌。縁に黒糸。車輪の油は新しい匂い。御者の脇には荷役が二人、後ろにもう一人。袖口の黒ずみ。目だけが忙しい。
人の帯が細くなる刻(とき)を待つ。ランベルトの顎がわずかに動き、俺は息を整えた。強い風はいらない。幌の前で一度、後ろで一度。あくまで“速度”を削るだけだ。
御者台の鞭が上がる瞬間、俺は幌の前に細い空気の板を置いた。布がふと張り、黄土の影が一拍だけ膨らむ。御者が本能で手綱を抑え、車輪が半歩遅れる。その遅れに、レオンの角石がぴたりと合った。前輪がこつと乗り、手応えだけで進路が半手分ずれる。梶棒は砂袋の縄へ誘導され、ランベルトが左右に腕を開く。
「歩きで止める!」
馬は怯えない。ヘルミナの布水が鼻先の空気を薄く洗い、甘さは届かない。荷役の一人が腰から短剣を抜こうとしたが、サビーネの矢が鞘の金具をかんと打ち、手の動きが止まる。後ろの一人は弩の袋に指を入れ――クロが御者台へぴょんと跳び、尻尾で顔をぱしと払った。狙いがずれる。弩は抜けず、袋ごと手から落ちた。
「武器を置け」
ランベルトの短い声。御者が目を細め、ふいに足で梶棒を蹴って車を揺らそうとする。角石がそれも殺す。揺れは膝のあたりで消え、後輪が砂袋にもすと沈む。進めない。
俺は幌の後ろに軽い風を差し込み、布をわずかに浮かせた。黒い縫い糸が露出する。縁の内側、折り返しに薄い蝋の線――封蝋に混ぜた粉が縫い目に塗り込めてある。荷が揺れても粉が舞わないための細工。近い。
セルジオが詰所から歩み出る。紙を一枚だけ掲げた。
「押収する。幌を開けろ」
荷役の一人が顔を歪め、口笛を吹こうとした。サビーネの二本目が笛の革紐をとんと裂き、笛は石に落ちる。クロが前足で押さえ、きょとんとした顔で見上げた。場の力がそこで抜ける。
御者が観念し、梶棒から手を離した。ランベルトの部下が手早く縄をかけ、手首を固定する。レオンは角石を外し、後輪の砂袋を解く。ヘルミナが馬の鼻筋を撫で、呼吸を整えさせる。馬は落ち着いている。よかった。
幌が開く。厚手の布の下には、かさ張らない木箱が五。板の合わせ目は樹脂で封じ、指で触ると油の匂い。セルジオが刃の代わりに薄いへらを差し込み、樹脂をぺりと開ける。内側、布で包んだ白い束。瓶はなし。粉は乾いている。さらに底板の裏――薄い布袋。黒ずんだ針の束と、小さな蝋板。指の刻印の付いた薄革の輪。〈灰指〉の“誓い輪”。
「記録」
イリアが短く言い、紙に印を重ねていく。箱の数、束の数、蝋板の刻み。
――《牙の幌/北門受渡/夜刻:五/合図:黒針一本》
昨夜と同じ筋。橋の下で針を上げるだけの合図。小さく、わかりづらく、しかし確実に。
荷役の一人が唇を噛んだ。
「俺たちは運べと言われただけだ」
「運ぶ先で子どもが滑っても、同じことを言うのか」
セルジオの声は冷たくない。けれど、逃げ場がない響きだった。男は口を閉じ、肩を落とした。
詰所へ荷を運ぶ列が動く。人だかりはできない。ランベルトが通りへ向き直り、いつもの調子で短く流す。
「右寄せで歩き。――終わりだ。散ってくれ」
声は強くない。それで十分、人は足を前へ出す。露店の親父が栗の鍋を回し直し、子どもがひそひそと「猫が笛を止めた」と笑った。クロは胸を張り、ふふんという顔でしっぽを立てる。近くの女将が小声で「いい子ね」と言い、彼は得意そうに椅子の足に頬をすりと押し付けた。
受け渡しが済むと、セルジオが俺たちに向き直る。
「よく止めた。――堰は?」
「朝、板の薄膜を落としました。昼の半目はナディア。夕刻にもう一度見に行きます」
「私も行く。水は街の血脈だ。……その前に、関所で記録を整える」
詰所の机に、イリアの紙が並ぶ。押収の目録、蝋板の写し、腕輪の写し。ランベルトが“牙”の筋を地図に赤で記し、ヘルミナが粉の状態を書き付ける。レオンは角石の置き場と角度を図に残し、サビーネは弓弦の張りを指先で整えた。
「今夜の“黒灯”は?」
「乾燥塔と南脇は沈黙。狐印の倉は鍵を替えさせた。……牙は今日の便で一度“詰まる”。次は外で合図を探すだろう」
「堰筋か、古橋の下か」
「どちらも目を置く」
クロが机の端で前足を揃え、紙の角をちょんと指した。イリアが笑って、猫の欄外に小さな肉球印を描く。「功労者」
短い休憩。白樺亭で薄粥を少し。マルタが器を置く手を止めずに言う。
「昼の賑わいが落ち着いたよ。ありがとう。猫さんは塩抜き」
「のむ」
クロは真面目な顔で舌をぺろと出し、ふちを丁寧に舐める。リナが「えらいね」と囁くと、彼は照れたように耳を伏せた。
◆
夕刻、堰。川面の光は黄から薄青へ。ナディアが見印棒を覗き、短く息を抜く。
「上+一、下±零。半目、一往復だけ確認する」
小一→小二→小一。木の腹が鳴り、水は素直に従った。板の目に新しい薄膜はない。朝の灰が効いている。歩廊の影に、また細い糸――今度は結び目が甘い。触る前に、クロが鼻先でくんと嗅ぎ、「あたらしい」と小声で告げた。
「合図を焦ってる」
サビーネが糸をほどき、ヘルミナが小瓶に落とす。イリアは今日の日付の横に“糸二”と書き、俺は風の縁で水の腹を撫でて、葉を一枚だけ流した。渦は浅い。夜は静かに終わる兆し。
石段を上がる帰り道、ナディアが言う。
「街の内は今日で一度“整う”。明日、外で動く気配があるはずだ」
「古橋の筋か、堰尻の葦か」
「どちらにしても、短い言葉で通すこと」
「はい」
門に近づくと、ランベルトが外出簿を軽く叩き、骨のような笑いを一度だけ見せた。
「今日は鈴を鳴らさずに済んだな」
「鳴らさずに済む日が続けば、もっといい」
「そうだ」
ギルド。ミレイユが札束を指で揃え、掲示台に今日の控えを二枚足す。〈牙幌押収〉〈黒灯沈黙〉〈堰半目良〉。台所からは湯気。セレナが奥から出てきて、俺の脇に目を落とした。
「擦り傷。布で押さえて終わり。――猫さんは、よく働いたね」
「がんばった」
クロは胸を張り、でも撫でられるととろんと目が細くなる。
部屋に戻り、道具を拭く。角石の粉を払って布を干し、紙の束を三つに分ける。街/路/堰。クロは寝台にとんと跳び、丸くなって尻尾で鼻を隠した。
「アキラ、あした?」
「朝いちで堰。昼、古橋の筋を一度見る。……それから、外へ」
「いく」
灯を落とす。外は静かだ。今日、街のどこにも“黒い灯”は立っていない。息を吐くと、胸の重さがひとつ減る。窓の隙間から夜風が入り、紙の角がかさと鳴った。
明日も歩く。短い言葉で、人を動かす。街を軽く保つ。
クロの寝息が、心地よく続いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます