第41話 「橋の向こうへ」
昼の港が落ち着くのを待って、俺たちはギルドに集まった。掲示台の端に、新しい紙が三枚。
〈半月と穂――谷調査〉〈狐印の倉庫・帳合洗い〉〈橋外旅券・簡易〉。
ミレイユが指で順に叩く。
「明朝出発。顔ぶれは――サビーネ、アキラ、クロ、写しイリア。道案内に元測量士のオズ(地図持ち)。橋を越えたら関所ケルムで通行確認、谷の紙屋に先触れ。帰りは三日後の予定。いい?」
「行けます」
紙束を受け取って横へ退くと、セレナが医務室の戸口で手を振った。
「出発前に一度、魔力(マナ)の通し方を確認しましょう。旅の最中に増やすより、今ひとつ手を増やしておく」
「風と水は浅くなら動かせます。火は火口程度。雷は…火花がやっと」
「なら、“糸”を一本足す。風と雷を細く束ねて、距離を作る練習。猫さんは横で真似してごらん」
「ぼく、ぴかってする」
裏庭。洗い桶の並ぶ一角で、セレナが短い木棒を二本地面に立てた。間は四歩。
「棒から棒へ。風で道を作り、雷は“鳴らすだけ”。火は絶対に混ぜない。意識は指先ではなく、呼吸の奥。――はい、息を先に吐いて」
吐く、吸う。胸の中で細い線が一本だけ伸びるのを想像する。風の線が先に走り、その上にちいさな静電の粒を乗せる。棒の上でぱちと青い音。
イリアが思わず拍手しかけ、口を押える。セレナは頷いて、控えめに親指。
「いい。今は“音の予告”になれば十分。威力は上げないで。――猫さん」
「ぴか!」
クロは前足の先で地面をとんと叩き、小さな火花をぱちと飛ばした。耳がぴんと立つ。自分で驚いて一歩下がり、すぐ胸を張る。
「できた」
「上出来。猫の雷は体毛から抜けやすい。濡れた場所ではやらないこと」
「うん」
汗が額に滲む。セレナが布で拭き、薬草茶を小さな杯に一口。
「今夜は早く寝てね。明朝は冷える。包帯は一周、結びは外側」
鍛冶通りへ回る。フーゴの工房は炉が低く、金床が乾いた音で静かに呼吸している。
「旅支度だな。棒は軽く磨いといた。先金は削らない。――ベルトの穴をひとつ詰めるか? 荷が増える」
「お願いします。靴底砂も欲しいです」
「砂は袋で出す。……猫の首紐は新しいのに換えろ。谷は風が走る」
「かえます」クロが素直にうなずく。
フーゴは首を指でこつんと叩いて、薄青の布紐を渡した。「噛むな」
「かまない」
「よし」
角の果物屋では、フィオナが干し果皮の袋を二つ用意してくれた。
「谷は酸っぱい木の香りが強いから、喉が楽。――海塩は君だけ。猫さんは塩なし」
「のむ」
宿へ戻り、荷を床に広げて並べる。清潔布、薄手の手袋、油紙、靴底砂、火打ちと炭、予備の包帯。食料は乾燥豆と固いパン、果皮。水袋は大を二。
「イリア、写しは何束?」
「薄紙三冊。地図はオズのに重ねて転記します。――サビーネ、矢は?」
「二十四。予備の矢尻六。谷は風が巻くから、軽い羽も持つ」
サビーネの声はいつも通り低い。けれど、背の弓は旅用に張り直してある。弦が少し柔らかい。長く持つ張りだ。
夕暮れ前、港のまとめに顔を出すと、トビアスが当番表を畳みながら言った。
「半月と穂は向こう側で追え。こちらは“黒灯”の残りを潰す。帰りは橋で笛を鳴らせ。ランベルトが拾う」
「承知しました」
関所の塔影では、セルジオが旅券を封に入れて待っていた。
「四人と一匹。道中の通行は橋の街道のみ。谷の紙屋は三軒、穀倉組は二番目の広場。合言葉は“帳合を照らす”。――それから」
セルジオは俺の肩越しに、クロを見た。
「猫にとって、橋の隙間は怖い。板の目が空いている。抱くか、紐を短く」
「だっこ?」
「途中までは抱っこで行こう」
「うん」
白樺亭に戻れば、マルタが台所の戸を肩で押しながら顔を出す。
「明日の分の握り飯、四つ。猫さんは塩抜き。夜は早く寝な」
「ありがとうございます」
リナがクロの首紐を新しい薄青に替えてくれた。結び目は外側。鏡に向かって首をふりふりして、クロは満足げに胸を張る。
「にあう?」
「似合う。谷の風に負けない」
「まけない」
夜、短く息を整え、裏庭で“風と雷の糸”を三度だけ通す。力を上げない。手数だけ、体に覚えさせておく。クロは横でぱちを二回。三回目は出そうとして出さず、前足をなめた。
「きょうはおしまい」
「賢い」
灯りを落とし、紙に三行。
――明朝刻一、橋へ。
――谷で帳合の裏取り。
――帰路、港に写し返し。
紙は折って袋に戻す。胸の奥は熱くない。静かに張っているだけだ。
明け方。鐘が一度。宿の下は湯気とパンの匂い。マルタが握り飯の包みを渡し、リナがクロの背をそっと撫でる。
「気をつけて」
「行ってきます」
門でランベルトが外出簿に線を引く。
「橋は風が強い。欄干から身を離して歩け」
「了解」
桟橋とは違う、川の大きな橋。白い霧が流れ、石の欄干が薄い水で光っている。オズが地図を胸に抱え、顎で向こう岸を指す。
「橋の真ん中に継ぎ目。あそこで風が変わる。猫は抱いておけ」
「だっこ」
クロを抱くと、体がきゅと丸くまとまる。鼓動が腕に伝わる。細い爪が衣の布をそっと掴む。
「おもくない?」
「軽い」
石の継ぎ目を踏むと、風が横からふわと抜けた。足を止めずに歩き続ける。川面は幅が広く、流れは早い。遠くで水鳥が一羽、低く滑った。
橋を越えると、空気が変わる。湿りが薄く、木の匂いが強い。道は緩く上り、両側に紙屋の水車の音。谷の入口だ。
サビーネが弓を背に、肩を回す。
「足は温かいか」
「平気です」
関所ケルムの門は低く、塔影は短い。詰所で旅券を見せると、係の男が穀倉組の札を示した。
「半月の穂は中央の広場、二の棟。紙屋なら水路沿い、櫓のあるほうだ」
「助かります」
谷の街道を歩きはじめる。欄干のない用水の縁で、クロが一度だけ前足をすくめた。
「ふかい」
「近づかないで行こう」
谷の風は乾いていて、声が遠くまで届く。水車の羽がぎいと鳴り、紙の匂いが途切れずに流れた。
半月と穂。
その印の向こうに、誰がいるのか。
歩幅を揃え、最初の角を曲がる。次の糸をほどくために。
◇
昼の港が落ち着くのを待って、俺たちはギルドに集まった。掲示台の端に、新しい紙が三枚。
〈半月と穂――谷調査〉〈狐印の倉庫・帳合洗い〉〈橋外旅券・簡易〉。
ミレイユが指で順に叩く。
「明朝出発。顔ぶれは――サビーネ、アキラ、クロ、写しイリア。道案内に元測量士のオズ(地図持ち)。橋を越えたら関所ケルムで通行確認、谷の紙屋に先触れ。帰りは三日後の予定。いい?」
「行けます」
紙束を受け取って横へ退くと、セレナが医務室の戸口で手を振った。
「出発前に一度、魔力(マナ)の通し方を確認しましょう。旅の最中に増やすより、今ひとつ手を増やしておく」
「風と水は浅くなら動かせます。火は火口程度。雷は…火花がやっと」
「なら、“糸”を一本足す。風と雷を細く束ねて、距離を作る練習。猫さんは横で真似してごらん」
「ぼく、ぴかってする」
裏庭。洗い桶の並ぶ一角で、セレナが短い木棒を二本地面に立てた。間は四歩。
「棒から棒へ。風で道を作り、雷は“鳴らすだけ”。火は絶対に混ぜない。意識は指先ではなく、呼吸の奥。――はい、息を先に吐いて」
吐く、吸う。胸の中で細い線が一本だけ伸びるのを想像する。風の線が先に走り、その上にちいさな静電の粒を乗せる。棒の上でぱちと青い音。
イリアが思わず拍手しかけ、口を押える。セレナは頷いて、控えめに親指。
「いい。今は“音の予告”になれば十分。威力は上げないで。――猫さん」
「ぴか!」
クロは前足の先で地面をとんと叩き、小さな火花をぱちと飛ばした。耳がぴんと立つ。自分で驚いて一歩下がり、すぐ胸を張る。
「できた」
「上出来。猫の雷は体毛から抜けやすい。濡れた場所ではやらないこと」
「うん」
汗が額に滲む。セレナが布で拭き、薬草茶を小さな杯に一口。
「今夜は早く寝てね。明朝は冷える。包帯は一周、結びは外側」
鍛冶通りへ回る。フーゴの工房は炉が低く、金床が乾いた音で静かに呼吸している。
「旅支度だな。棒は軽く磨いといた。先金は削らない。――ベルトの穴をひとつ詰めるか? 荷が増える」
「お願いします。靴底砂も欲しいです」
「砂は袋で出す。……猫の首紐は新しいのに換えろ。谷は風が走る」
「かえます」クロが素直にうなずく。
フーゴは首を指でこつんと叩いて、薄青の布紐を渡した。「噛むな」
「かまない」
「よし」
角の果物屋では、フィオナが干し果皮の袋を二つ用意してくれた。
「谷は酸っぱい木の香りが強いから、喉が楽。――海塩は君だけ。猫さんは塩なし」
「のむ」
宿へ戻り、荷を床に広げて並べる。清潔布、薄手の手袋、油紙、靴底砂、火打ちと炭、予備の包帯。食料は乾燥豆と固いパン、果皮。水袋は大を二。
「イリア、写しは何束?」
「薄紙三冊。地図はオズのに重ねて転記します。――サビーネ、矢は?」
「二十四。予備の矢尻六。谷は風が巻くから、軽い羽も持つ」
サビーネの声はいつも通り低い。けれど、背の弓は旅用に張り直してある。弦が少し柔らかい。長く持つ張りだ。
夕暮れ前、港のまとめに顔を出すと、トビアスが当番表を畳みながら言った。
「半月と穂は向こう側で追え。こちらは“黒灯”の残りを潰す。帰りは橋で笛を鳴らせ。ランベルトが拾う」
「承知しました」
関所の塔影では、セルジオが旅券を封に入れて待っていた。
「四人と一匹。道中の通行は橋の街道のみ。谷の紙屋は三軒、穀倉組は二番目の広場。合言葉は“帳合を照らす”。――それから」
セルジオは俺の肩越しに、クロを見た。
「猫にとって、橋の隙間は怖い。板の目が空いている。抱くか、紐を短く」
「だっこ?」
「途中までは抱っこで行こう」
「うん」
白樺亭に戻れば、マルタが台所の戸を肩で押しながら顔を出す。
「明日の分の握り飯、四つ。猫さんは塩抜き。夜は早く寝な」
「ありがとうございます」
リナがクロの首紐を新しい薄青に替えてくれた。結び目は外側。鏡に向かって首をふりふりして、クロは満足げに胸を張る。
「にあう?」
「似合う。谷の風に負けない」
「まけない」
夜、短く息を整え、裏庭で“風と雷の糸”を三度だけ通す。力を上げない。手数だけ、体に覚えさせておく。クロは横でぱちを二回。三回目は出そうとして出さず、前足をなめた。
「きょうはおしまい」
「賢い」
灯りを落とし、紙に三行。
――明朝刻一、橋へ。
――谷で帳合の裏取り。
――帰路、港に写し返し。
紙は折って袋に戻す。胸の奥は熱くない。静かに張っているだけだ。
明け方。鐘が一度。宿の下は湯気とパンの匂い。マルタが握り飯の包みを渡し、リナがクロの背をそっと撫でる。
「気をつけて」
「行ってきます」
門でランベルトが外出簿に線を引く。
「橋は風が強い。欄干から身を離して歩け」
「了解」
桟橋とは違う、川の大きな橋。白い霧が流れ、石の欄干が薄い水で光っている。オズが地図を胸に抱え、顎で向こう岸を指す。
「橋の真ん中に継ぎ目。あそこで風が変わる。猫は抱いておけ」
「だっこ」
クロを抱くと、体がきゅと丸くまとまる。鼓動が腕に伝わる。細い爪が衣の布をそっと掴む。
「おもくない?」
「軽い」
石の継ぎ目を踏むと、風が横からふわと抜けた。足を止めずに歩き続ける。川面は幅が広く、流れは早い。遠くで水鳥が一羽、低く滑った。
橋を越えると、空気が変わる。湿りが薄く、木の匂いが強い。道は緩く上り、両側に紙屋の水車の音。谷の入口だ。
サビーネが弓を背に、肩を回す。
「足は温かいか」
「平気です」
関所ケルムの門は低く、塔影は短い。詰所で旅券を見せると、係の男が穀倉組の札を示した。
「半月の穂は中央の広場、二の棟。紙屋なら水路沿い、櫓のあるほうだ」
「助かります」
谷の街道を歩きはじめる。欄干のない用水の縁で、クロが一度だけ前足をすくめた。
「ふかい」
「近づかないで行こう」
谷の風は乾いていて、声が遠くまで届く。水車の羽がぎいと鳴り、紙の匂いが途切れずに流れた。
半月と穂。
その印の向こうに、誰がいるのか。
歩幅を揃え、最初の角を曲がる。次の糸をほどくために。
◇
夜明け前、谷は白い息をひとつ吐いて目を覚ます。宿の台所から麦粥の湯気。猫用の皿は塩抜き。クロは椀のふちに顎をのせて一拍ため、ちいさく舌を出した。
「あったかい」
「今日は帳面と倉庫だ。長く歩く。ゆっくり食べて」
「うん」
半月と穂に集合。レオンと、紙工組合の立会い人ヘルミナが待っていた。骨張った手に真鍮の秤。関所ケルムからは詰所役のヴィダンがひとり。紙束の封緘を切るための封蝋台と、押収印の木札を提げている。
「倉庫“狐印・三”から始めよう。昨夜の押収荷の続きだ」
イリアがうなずき、写し帳を抱え直す。オズは図面を丸め、腰に差した。
谷風は上へ抜け、路地の影はまだ青い。狐印の三番倉は水路沿い、丸太の台座に乗った長屋だ。扉には昨夜の押収紙が貼られ、結び目に組合の印。ヘルミナが結びを解き、扉木口の削れを撫でる。
「昨日、誰かが慌てて閉めたね。癖が残ってる」
中は広くない。手押し台車が二台、左奥に紙束の山、右手に粉袋。粉の列は昨夜より少ない。どこかへ動いたあとだ。ヴィダンが短く合図し、兵がふたり入る。俺たちは通路を挟んで左右に散り、まずは計量から。
「狐印・三、紙束十八。銘柄“浅瀬・上”。」
ヘルミナが秤に一束載せ、レオンが規格票を読み上げる。
「……軽い。規格比、二分落ち」
さらに三束、無作為に測る。二分、二分半、三分。イリアが記録し、オズが束の底を軽く叩く。空洞の音はしない。水分でもない。
「水印を」
レオンが見本紙を当てて透かす。谷の印が薄い。昨夜見た“浅い水印”と一致する。
粉袋の列へ移る。封は新しい。縫い目は粗い。ナイフで縫い糸の一端だけを切り、指で糸を引く。袋口が開き、甘い匂いがふっと広がった。クロが鼻先を上げ、首を振る。
「すこしだけ」
「触らない。見るだけだ」
袋の口から、紙屑のような白い粉が見えた――が、ひとつ掬って潰すと、溶けが早すぎる。
「砂糖に砕いた紙粉を混ぜてる。線を太らせるための“重し”」
イリアが眉を寄せる。
「馬の鼻には甘い、でも人の舌には薄め……」
その時、奥の壁の裏でこつと小さな音。サビーネが視線を横切らせ、矢筒の口をほんのわずか開く。
「裏に誰か」
オズが倉の平面図を脳裏でなぞるように、柱間の隙を探る。指で床板の縁を押すと、板がわずかに沈む。短い通い路――昨夜の工房と同じ仕組みだ。
「開ける」
ヴィダンが頷き、兵が二人で板を外した。湿った土の狭い道が水路へ続いている。土に新しい擦れ跡。足音が――奥へ走る。
サビーネが屋根へ跳び、俺は入口側にまわる。外の水路でばしゃと水、金具のぶつかる音。逃げ足は軽い。
倉の表へ回り込むと、灰の外套がひとり、水路沿いの板道を駆けていた。肩に細い包み。風上。距離は二十歩。追えば届くが、ここで転ばせれば荷が水に落ちる。
「クロ、右」
「いく」
クロが板道の影をぴゃっと走り、逃げる男の前に滑り込む。前足で板の隙間に爪をかけ、かりっと引く。板がわずかに浮いて、男の足先が一瞬もつれた。
俺は手のひらで空気を細く絞り、足もとへ落ち葉をひと筋集める。乾いた葉が靴底に絡み、男の歩幅が崩れる。サビーネの影が屋根から落ち、男の前を横切って欄干に矢をとすと刺した。男の肩が止まる。包みが落ちる。
ヴィダンの兵が追いつき、腕を捻って地面へ。包みを開くと、薄い金属板がふた枚。水印用の“偽版”だ。谷印と似ているが、枠が浅い。
「これで軽い束が出来る」
レオンが苦い顔になる。ヘルミナが偽版の縁を指で撫で、爪で傷をつける。
「粗い仕事だ。押す側の良心がない」
倉の中へ戻ると、帳場の机に火打ちと油壺がぽんと置かれていた。帳付の若い男が青い顔。ヴィダンが目で問い、青年は肩を落とす。
「燃やせって……言われました」
「誰に」
「知らない男です。灰の輪、してた」
ヘルミナが帳面を抱え、イリアと肩を並べて頁を繰る。
搬入記録の数字が不自然に揃っている。日付の欄に小さな点――挿し替えの癖がある。オズが輸送路の図を開き、昨夜の橋と工房を線で結ぶ。
「ここで量を落とし、ここで束を軽くして、橋で混ぜる。……狐印・三は“通し”だ」
サビーネが外の路地に目を流し、矢を弦から外した。
「押さえる相手は倉庫主だ。下は“逃げたい顔”をしている」
ヴィダンが頷き、押収印の木札を粉袋の列に付けていく。兵が粉袋を台車へ移す。帳場の青年はため息をひとつ吐き、机の引き出しから小さな蝋板を二枚出した。
――《夜/黒◦一 浅瀬》
――《帳合 半月へ 二》
「上から降りてきた合図です。僕は、ここまでしか……」
そのとき、倉の裏壁からぱちぱちと乾いた音。薄い煙。奥の物置で火が上がりかけている。誰かが火打ちを隠していた。
クロが耳を伏せて低く鳴き、俺は手のひらを上に向ける。
「“水”、少し借りる」
外の水路から湿り気を細く引き、煙の上だけに冷えた空気を落とす。サビーネが濡れ布を投げ、ヘルミナが素早く被せた。火はすすで黒くなって消えた。
ヴィダンが低く唸る。
「証拠も一緒に燃やすつもりだったか。……倉主は?」
表の通りに視線をやれば、派手な外套の男が人垣の後ろに立っていた。狐印の佩環。こちらと目が合うと、笑みだけ作って肩をすくめる。
「立会いは結構。帳合は昼でよろしいかな?」
声だけは柔らかい。イリアが帳面を抱えたまま、はっきり首を横に振った。
「いま、照らします。数字は逃げません」
男の笑みが紙のように薄くなる。サビーネは視線だけで屋根の死角を掃き、俺はクロを足もとに引き寄せた。
秤に紙束、帳面に数字、偽版に押収札。作業が進むにつれ、倉主の外套の肩が落ちていく。
最後の束を測り終えたところで、ヘルミナが立会人の判を押した。
「“狐印・三”の帳合、差異を認める。組合は浅瀬銘柄の出荷を三日止める。倉は抜き打ちで見に来る」
ヴィダンも押収印に印璽を重ねた。
「粉袋、偽版、蝋板――全部詰所へ。倉主は事情聴取。逃げた男は別件で捕まえる」
倉主はまだ笑おうとしたが、頬が引きつるだけだった。
「谷の流通は……止まりますよ」
「止まらない」
レオンが静かに言い、窓を開けて水路の音を入れた。
「“軽い束”が抜ければ、重さは戻る。谷は回る」
外へ出ると、日差しが一段強くなっていた。谷の藍が浅くなる。
半月と穂に戻り、結果を渡す。レオンは深く頭を下げ、秤を机に置いた。
「ありがとう。夜の黒灯を落とし、朝に帳を照らした。……これで谷はひと呼吸つける」
オズが図面に赤ペンで**×**を打つ。
「偽版の入り口は潰れた。橋も片づいた。残るは“指”。輪の上にいる連中だ」
サビーネが肩の弓を撫で、弦をわずかに緩めた。
「動く前に昼を食べよう。午後は詰所で引き渡し、そのあと“カワベ”へ再訪。床下の釘は効いているか」
店を出ると、クロが吸い寄せられるように露店の焼き饅頭へ歩いていき、尻尾で俺を呼んだ。
「いいにおい」
「半分だけだぞ」
「はんぶん!」
小さな歯がもちもちをちぎる。口の端に粉が付く。イリアが布で拭き、クロが誇らしげに胸を張る。
「きれい」
昼の鐘。詰所で押収物の受け渡しを済ませる。ヴィダンは偽版を箱に収め、厳重に封をした。
「渡し場の水夫が助かったと言っていた。……“笛を落とした猫”の話も回ってる」
クロは胸をぐっと張り、きゅると短く鳴く。詰所の兵が笑って親指を立てた。
午後、もう一度“カワベ”へ。女主人は待っていたように出て来て、床下の板を示した。
「釘、効いたよ。下手な子分はもう潜れない」
工房の奥、紙干し場の影に昨日の灰外套は見えない。水車の音だけが整っている。
レオンが水印の深さを再確認し、ヘルミナが出荷を明日午後からに調整した。谷の流れは、必要な分だけ絞って続く。
橋へ回る。浅瀬の欄干には昨夜の刺し傷が残っていて、柳が明るい水を撫でていた。
クロが欄干に前足をのせて、川面を覗く。
「きらきら」
「今夜の黒灯は、もうつかない」
「ねる?」
「その前に、もう一件。狐印の帳場だ」
サビーネが短く言い、矢筒の蓋を閉める。
黒い輪はまだどこかで動いている。けれど谷は、灯りひとつ落とすごとに静けさを取り戻している。
足を返し、俺たちは狐印の主屋へ向かった。午後の光が背中を押す。クロの足音が、石にとんとんと軽く響いた。
◇
狐印の主屋は、通りから半歩引いた場所にあった。白壁に柿色の庇。昼の光を受けて、塗り直したばかりの格子が妙にきれいだ。門番が二人、槍は持たず棍だけ。表情は「見張っている」より「見られたくない」に近い。
「組合立会と関所の照合だ。帳場へ通してくれ」
レオンが先に声を出す。兵のヴィダンが一歩横で無言の圧を置くと、門番は肩をすくめ、内側の小走りを呼んだ。
通された帳場は広く、香の匂いがやや強い。机が二列、帳簿は背の揃った革装。壁に“浅瀬”の見本束が額入りで掲げられている。狐印の倉主――派手な外套の男が、すでに椅子に腰をかけていた。笑みは薄い。
「忙しい時に、よく来る。……で、何の用かな」
「軽い束と粉の混ぜもの。倉庫“狐印・三”で押収した。偽版もある」
ヘルミナが淡々と告げ、封のついた箱を机の上に置く。男の笑みが、その一拍で固くなる。
「誤解だ。浅瀬は谷の誇りでね。軽い、と言うなら水分だろう。天気の加減で」
「規格比二分から三分の落ち。三束連続。水ではない」
レオンが秤の記録を差し出す。男は紙を見もせず、指先で机をとんと叩いた。
「……証拠は?」
「ある」
ヴィダンが短く言い、箱の封を解く。偽の水印版が光を吸い、机上に陰を落とした。男は一瞬だけ目を逸らしたが、すぐ笑顔に戻した。
「それがうちの物だという証は?」
「帳面だ」
イリアが一歩進み、昨夜からの写し帳を開く。搬入数、束数、押印者――頁の隅に小さな点。挿し替えの癖が同じ。さらに、倉庫の棚から出た蝋板を机に置く。
《帳合 半月へ 二》
「上から来た合図。君の帳場に向けて」
男の笑みが消えた。指が机の下へ降りる。響きで分かる。警鈴だ。サビーネはその瞬間、矢を半引き――ではなく、身を流して机の脇に手を伸ばし、鈴緒をひょいと引き抜いた。からんと軽い音が床で転がる。
「やめて。鳴らして困るのは、ここにいる全員よ」
「脅すのか」
「助言だ」
サビーネの声色は乾いている。男は乾いた唇を舐め、今度は口で攻めに出た。
「谷を止める気か。商いを止めた責は誰が取る。お前たちは外から来た。川を知らない」
「止めない。曲がりを戻す」
俺が言うと、男の目がこちらに向いた。薄い嘲りが浮かびかけ――止まる。クロが机にぴょんと飛び乗って、帳簿の上にちょこんと座ったからだ。前足をそろえ、尻尾でぴしっと紙の端を押さえる。
「だめ」
猫の声に、帳場の書記たちが思わず笑いを漏らし、空気に一裂け目ができた。イリアはその薄い隙に、決定的な頁を開く。貼り直しの痕。剥がすと、下に指印。
「浅瀬・上 減量処置 “灰指”扱い」
墨はまだ若い。男の頬が引き攣った。
「……どこで手に入れた」
思わず漏れた本音。ヴィダンがそこを逃さない。
「工房“カワベ”。床下の通い、橋の越し。昨夜は笛が落ちた」
クロは胸を張り、きゅると一声。男は視線だけで猫を刺し殺すつもりかという目をしたが、刺さらない。
逃げ口上の余白が消えたと見るや、男は机の裏に手を伸ばした。小さな陶壺。蓋に穴が空いている。嗅ぎ慣れぬ甘い匂い――鼻を麻痺させる香粉だ。投げれば場が崩れる。腕が振りかけた瞬間、俺は手のひらで空気をぎゅっと絞り、壺の口に向けて狭い“壁”を立てた。粉が風に乗りきれず、男の手元に戻ってむせる。サビーネが踏み込んで手首を払う。壺がぱんと割れた。粉は床へ。クロがくしゃみを一つ。くしゅん。可愛いが、近づけないよう俺が抱き上げる。
「猫には吸わせない」
「のむ、しない」
男は椅子に沈んだ。派手な外套が、ただ重そうに見える。
「……相手は“灰指”だ。お前たちが触れていい火じゃない」
「灯は落ちる。昨夜も、今夜も」
レオンが平らに言い、組合印の封蝋を二つ押した。ヘルミナが宣言する。
「狐印の出荷停止――七日。帳合は関所立会い。偽版と蝋板は押収。関係者は聴取、場合によって拘留」
ヴィダンが頷き、兵が静かに位置へつく。帳場の書記は誰も動かない。動けない。男の肩から、力が抜けて落ちた。
引き渡しを終えて外へ出ると、空は薄雲。谷風が乾いていた。半月と穂に戻る前に、橋でひと息。柳の影が水に揺れて、昼の喧騒が少し遠い。
「終わった?」
クロが欄干に前足を乗せ、覗き込む。鼻先に涼しい匂いが触れ、尻尾がぱたと左右に跳ねた。
「ひと区切りだ。けど、まだ“指”の上に親玉がいる」
「おおきい?」
「多分な」
サビーネが矢筒の口を軽く叩く。
「夜の黒灯は落ちた。昼の帳も照らした。次は“運び路”の源だ。谷の口か、峠の上か」
レオンは秤の箱を抱えながら、店の看板を振り返った。
「浅瀬の銘柄は、三日で戻す。重さも、誇りも」
「戻るさ」
ヘルミナの声は固くて温かい。彼女は手拭いでクロの口元をそっと拭いた。
「粉、もうない。きれい」
「きれい!」
詰所で最後の書付けを済ませると、ヴィダンがひそめ声で教えてくれた。
「北の渡しで、おかしな買い上げが続いてる。荷を見ずに“重さだけ”で金を置く連中だ。印は付けない。今夜は見張りを増やす」
「俺たちも見る」
「頼む。……それと」
ヴィダンはクロを見て目尻を下げた。
「笛を落とした猫、詰所で人気だ」
クロは胸を張り、にゃっと短く鳴いた。尻尾が自慢げに反った。
半月と穂に戻れば、女主人がにこにこと伝票の束を振る。
「紙の注文、戻ってきたよ。『軽いのは嫌だ』ってさ」
「それがいい」
オズが図面を丸め、イリアが写し帳を整理する。サビーネは肩を回し、弦を少しだけ緩めた。
遅い昼をとりながら、これからの段取りを合わせる。夕暮れは、北の渡しの見張り。夜は、黒灯の再点検。明日は峠の聞き込み――橋の“向こう側”だ。谷を出入りする長い路のどこかに、“灰指”の親玉が足を置いている。
「アキラ」
クロが膝に前足をのせて、目を細める。
「きょう、がんばった?」
「うん。猫も、がんばった」
「えへん」
胸の毛がふわっと立った。イリアが笑って、焼き饅頭の小さいのを半分、皿にのせた。
「はんぶんだけだよ」
「はんぶん!」
窓の外、川面が細かく光る。橋の向こうから吹き上げる風は、少しだけ冷たい。ここから先は、市場の騒ぎだけでは済まないだろう。けれど――灯は落とせる。秤は戻せる。路は、まっすぐにできる。
俺は湯のみを置き、指で地図の“峠道”に軽く触れた。
「夜までに、弓と印と紐を見直す。橋の向こうへ行く準備だ」
クロが尻尾でぴしっと机を叩き、頷いた。
「いく」
◇
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