第38話 「帳の根を抜く」

 東の白みが濃くなる前に一眠りして、短く起きた。白樺亭の一階はもう湯気が立っている。

 マルタが鍋を回し、リナが木椀を並べた。


「昨夜は動いたね。粥は薄め、猫さんは塩抜き」

「お願いします」

 クロは椅子へぴょんと上って、前足をそろえた。器が置かれると、ひげを一度ふる。

「いただきます」

 少しずつ舐める。舌がちょっとのぞいて、すぐしまわれた。


 食べたら医務室。セレナが手を洗い、脇の擦り傷を見てくれる。

「浅い。夜の動きで擦ったね。油を薄く。今日は昼過ぎまで軽く動いて、夕方にもう一度見せて」

「わかりました」

 クロにも視線を落とす。

「猫さん、ひげはもうきれい。お水は少し多めに」

「のむ」


 関所からの呼びは刻一。余裕がある。装備の点検を兼ねて鍛冶通りへ。

 フーゴは砥石の水を替え、俺の棒の口金を指で押さえた。

「曲がりなし。昨夜の床打ちが軽い角度で入ってる。癖がいい。——胴はどうする? 街仕事が続くなら、布革の胸当てを一枚着な」

 壁から薄革の胸当てを外し、肩に当ててくれる。重くない。動きを邪魔しない。

「銅八。縫い目は内側が粗、外は細。刃より角から守るやつだ」

「買います」

 銅貨を数え、受け取る。フーゴは紐の長さを整え、結びを教えた。

「脇が擦れない位置で。動いて熱くなったら紐を半寸緩めろ。やり過ぎると音が出る」

「気を付けます」


 角の果物屋。フィオナが瓶の口を布で拭き、光に透かす。

「薄め一本。海塩は君だけ。猫さんは塩なし。——昨夜、狐印が封じられたって噂だよ」

「関所で帳面を見るはずです」

「じゃあ喉、無理しないで。干し果皮はおまけ」

 クロが瓶の香りを嗅ぎ、目を細める。

「すっぱい。すこし、すき」


 ギルドに顔を出すと、掲示台の隣に新しい札が増えていた。

《砂糖は紙で/路には置かない》

《黒灯を見たら関所へ知らせる》

 受付のミレイユが指で縁を押さえ、俺たちに向けて親指を立てた。

「昨夜の控え、関所に渡したよ。——昼は街回りの相談が一件。けど、まずは関所だね」

「行ってきます」

 隣のテーブルでは、年長の冒険者が若いのに弩の扱いを教えている。笑い声。視線がこちらに来て、ひとりが顎を上げた。

「お前が昨夜の坊か。よく通したな」

「皆でやりました」

 言うと、年長は満足げに肩をすくめた。

「それが一番だ」


 刻一、関所アルダ。塔影は短い。詰所には紙束が積まれ、セルジオが筆を走らせていた。

「来たね。昨夜の押収、帳面の当たりが取れた。狐印の“主(あるじ)”はモロー。名義を三つ回している。——今から倉を開ける。立ち会ってほしい」

「了解」

 ランベルトが奥から鍵束を持って現れた。

「封札を切って入る。逃げ筋は二つ。裏の水路、屋根通り。屋根は弓、裏は短艇が抑える。中は帳場と粉場、奥に片屋根の小部屋がある。——走るな、ばらけるな」

 サビーネが弦を軽く張り、ミーナは押収袋の紐を締め直した。イリアは写しの薄紙を抱え、クロは俺の踵に鼻先を当ててこつん。

「いく」

 尾がまっすぐ立つ。


 北門の狐印三棟。封札を切る音が短く重なる。板扉が開くと、乾いた粉の匂いが肺に触った。昨日の名残がまだある。

 帳場の戸棚には白紙の束と粗い筆。引き出しを抜くと、底板の下に薄い皮帳。紐の結びは新しい。セルジオが手袋をはめ、紐を切らずに解く。

「扱いが慣れてる。書き手は一人じゃないな」

 帳面の最初は空欄だが、三枚目から小さな字。狐の尾の印。渡しの時刻、受けの場所、合図の符。昨夜拾った蝋板の符丁と重なる記述が二つ、続く。

「照合が取れる」

 イリアが写しの薄紙へ符を移す。炭筆の音が整って心地よい。


 粉場には白い袋が六。衛兵が一つを開け、匂いを確かめ、封を戻す。

「砂糖。混ぜものは少ない」

 ミーナが顎で棚の上を示した。薄い布の奥に包み。取り下ろすと、中に黒い覆いが二、予備の合図竿が一本。受け口に合う寸法。

「昨夜の残り」

 サビーネが軽く頷く。


 奥の片屋根の小部屋は、戸がさほど重くないのに中が見えない。妙だ。

 ランベルトが指で静かに、左右に分かれる合図。俺は戸前に立ち、手を添えて浅く押す。紙が擦れる音。薄い壁の向こうに空気が溜まっている感じ。

「クロ」

 猫は鼻を伸ばして、隙間の匂いを吸った。耳が前に倒れる。

「しん。ひと、いない。でも、した」

 床下か。

 ミーナが膝をつき、床板の木目を指で追った。節の並びが一箇所だけ不自然に切れている。短い釘跡が二つ。

 俺は棒の先で節の横をこつと叩く。返る音が軽い。

「空洞」

 ランベルトが細い梃子を渡す。板を一枚、持ち上げた。


 冷たい空気が上がって、鼻先にかすかに油の匂い。手が入る幅の納戸。中に箱が二つ。細い鍵。

 フーゴにもらった薄鍵を試す場面ではない。セルジオが鍵束から合いそうなものを選び、慎重に回した。かち。

 蓋を上げる。

 皮帳が三冊。硬い背表紙に薄く「受」と「払」の刻印。もう一冊は無印。

 セルジオが手袋越しに開く。目が細くなる。

「ここが根だ」

 紙の間に細い金属板。隠し書き用の型。数字を小さく刻む道具。受け渡しの数、印の持ち主、渡しの順番。関所の札番号まで控えてやがる。

 ミーナが息を詰める。イリアは無言で写す欄を作り、手を止めない。


 その時、裏の水路で短く笛。衛兵の合図。

 サビーネが窓へ寄り、射線を作る。

 細い板橋の上に、薄衣の男。足取りが軽い。手に何も持たず、目だけが鋭い。

「モローだ」

 ランベルトが小さく言って、裏戸へ回る。

 俺は息を整え、紙束をセルジオに渡す。

「任せます」

「任された」

 ランベルトの部下二人が裏で待ち構え、板橋の端を蹴ってぱきと折った。男の足が空を踏む。水に落ちる前、横へ跳び石。落ちない。足が速い。

 サビーネの矢が水面のすぐ上をすうと抜け、男の前の板にかつと刺さる。男は半歩だけ止まり、進路を変えた。

 クロが窓台へひょいと上り、尾をぴんと立てる。

「みぎ!」

 声と同時に、俺は掌で細い風を作り、角の埃を男の顔に送る。男の目が一瞬つぶる。そこへランベルトの体当たり。水路脇の土にどすと落ちた。

 縄が回る。静かに締められる。

 終わった。


 片屋根の小部屋へ戻ると、セルジオが皮帳を箱に戻して封をしていた。

「証拠は十分。夜の黒は折れた。あとは広げて繋ぐ」

 机の上に並んだ三冊の皮帳。その背の地味な刻印が、やけに重く見えた。


 表へ出る。空はもう明るい。市場の屋台が開き始め、パンの香りがふわりと流れる。

「一度、ギルドへ控えを回す。昼過ぎに街回り。——その前に、食べよう」

 ミーナが腹を押さえ、笑った。クロがこくこくとうなずく。

「パン、すき」


 白樺亭の扉を押すと、湯気が迎えてくれた。短く座って、短く食べて、また立つ。

 今日は陽の下で続きをやる。黒い灯は落ちた。帳の根は掘り当てた。

 次は、ここから街に伝える番だ。



 関所の裏庭に簡単な机が出て、縄をかけられた男が腰を下ろされた。濡れた靴から水がぽたぽた落ちる。

 セルジオは皮帳を三冊、机に置くと、筆先で扉の方を指した。


「中ではやらない。ここで十分だ。——名は」

「……モロー」

「狐印の名義は三つ。偽名はどれだ」

 男は沈黙する。ランベルトが背後で腕を組み、周囲の衛兵が距離を取る。騒ぎにしないやり方だ。


 イリアが控え用の薄紙を広げ、俺とミーナが押収袋を机の脇へ置いた。クロは机の脚の影に座って、前足をそろりと揃える。

 セルジオは皮帳の一冊を開き、昨夜拾った蝋板と同じ符丁を指で弾いた。

「『夜五/黒丸二』。お前の帳にある。印の押し手も、筆の癖もここだ」

 男の喉が一度だけ動く。

「……印の主は俺じゃない。受け子だ」

「じゃあ主の名を言え」

 沈黙がまた落ちる。

 その時、クロが机の上へぴょんと上がって、皮帳の端をちょいと前足で押した。角がめくれて、古いページに走る細い線がのぞく。

 セルジオが目を細め、そこを開いた。

 線の先には、王都で使われる倉印の写し——それに似せた偽の印影が貼られていた。


「偽の通過印。王都印に似せてあるが、枠が一筆多い。地方の目ならごまかせる」

 セルジオの声は淡々としているが、脇で聞いている衛兵の表情が硬くなる。

 モローは最後に肩を落とし、石を見るような目で言った。

「……“灰指”の線だ。俺は倉だけ出した。印は“紙縒り(こより)”が持ってきた」

「紙縒りは誰だ」

「顔は知らない。合言葉と印だけだ。受け渡しは、黒灯の夜。狐の尾の下でやる」

 そこで口をつぐむ。これ以上は出てこないだろう。


 セルジオは筆を置いた。

「十分。——皮帳は預かる。お前は関所で預かり、都の検めを待て」

 ランベルトが縄を握り、男を静かに立たせる。

 クロが席から降りて、机の端に残った粉をふんと嗅ぎ、鼻をひくひく。

「あまい、すこし。もう、ない」

「もうないね」俺は小さく答え、指で粉を拭い落とした。


 詰所に戻る廊下で、セルジオが歩きながら言う。

「昼は街回りを一度。掲示の更新と、水飲み場の点検。——それと、商組合に一言通す。砂糖の扱いは店内だけに、路では紙」

「了解」

 イリアが頷き、札束を抱え直す。ミーナは押収袋を肩に担ぎ直し、サビーネは弦をゆるめる。

 クロは俺の踵に鼻先を当ててこつんと合図した。

「いく」



 市場の表は、朝の陽が当たって明るい。屋台の人たちがこちらを見て、昨夜の噂を短く交わす。

 ミレイユがギルドから走って来て、札束を俺に手渡した。

「更新分。言い回しは揃えたよ——『砂糖は紙で/路に置かない』『黒い覆いを見たら関所へ』。あと一枚、『倉の印は見せてから受け取る』」

「助かります」

 掲示位置は三箇所。門、広場、倉庫街の角。

 俺とイリアで貼り、ミーナが紐を二結びで締める。サビーネは通りの流れを見る。クロは広場の水飲み場の縁に前足を乗せ、匂いを嗅いだ。

「しろ、なし」

「よし」


 そこへ、仕立ての良い上着の男が歩み出た。革靴の音が石に硬い。二、三人を連れている。

「騒がしいね。狐印は騒ぎが大きくなるほど価値が下がる。——札を減らしてくれないか。客が逃げる」

 声は柔らかいが、目が笑っていない。

 俺は貼り終えた札の縁を押さえ、振り向いた。

「路に砂糖を置かなければ、札は用を終えて外れる。短く済む話です」

 男は肩をすくめる。

「少年、言い分は正しい。だが商売は“目”で立つ。札ばかり増えれば、悪い品だと疑われる。——関所に献金を出そう。札の言葉を柔らかくしてくれ」

 ミーナの目が細くなる。イリアは一歩だけ札の前に立ち、炭筆を握り直した。

 サビーネは言葉を飲み込み、矢筒の金具がかすと鳴る。

 クロは男の前にととと歩み出て、上着の裾をちょいと前足で触れた。ひげがぴんと張る。

 男は一瞬だけ言葉を失い、苦笑を作った。

「猫殿に怒られたな」

 俺は言った。

「札は短いほど読む。読むほど事故は減る。——それでも言い分があるなら、関所で帳面に書いてください。ここで揉む話じゃない」

 男は唇の端を上げ、肩をすくめて踵を返す。連れが何かを言いかけたが、手で制された。

 去っていく背中を見送り、サビーネが小声で言う。

「“紙縒り”の線を辿れば、こういう顔はまた出る」

「出ても、やることは変わりません」

 言うと、サビーネは短く頷いた。


 広場の一角では、子どもが五人、札の前で声に出して読んでいた。

「『砂糖は紙で』……紙?」

「ほら、これだよ」

 俺は薄紙の切れ端を差し出し、井戸の縁に置いた少量の砂糖を紙にささと包んで見せた。

「こうやって持つ。道に落とさない。食べるなら、家で。——路にこぼすと、馬が鼻を下げる」

 クロがこくこくとうなずき、紙包みに鼻をちょんと当てる。

「かみ。あまい、におい、すこし」

「そう、少しだけ。紙が匂いを持ってくれる」

 子どもたちの顔がぱっと明るくなり、ひとりが胸を張った。

「家で食べる!」

「それがいい」



 昼前、倉庫街の角に戻ると、板の割れ目に白い粉の筋が短く残っていた。昨夜の名残だ。

 ミーナが小さな刷毛でさっと拭い、俺は手のひらで風を起こして路肩へ流す。甘い匂いが上へ逃げ、薄くなる。

 イリアが薄紙に一行。

「『白筋の名残、拭去』」

 サビーネが肩越しに空を眺め、眉を寄せた。

「屋根通りに、午前の“見張り”が一人。棒は持たず、目だけ」

「追わない。顔を覚えるだけで十分です」

 そう言って、俺は視線を一瞬だけ上に流す。影はすぐに消えた。


 関所への帰り道、角の果物屋。フィオナが札を見上げて頷く。

「短いのがいい。——はい、薄め一本。猫さんは塩なし」

 クロは瓶の口に鼻を寄せ、ぺろと一舐め。

「すっぱい、すき」

 リボンのように揺れる尻尾がぴんと伸び、背中がふにゃっと緩む。周りが少し笑った。


 詰所へ着くと、セルジオが地図の上に皮帳の転記を並べていた。狐印の三棟から伸びる線が、北門の外へ、さらに二本。

「街外れの粉屋と、川沿いの小さな倉に線が出た。——“紙縒り”はここを使うかもしれない」

 ランベルトが腕を組み、時刻を見て判断する。

「昼は街回りを続けて、夕刻に軽い捜索。外に出るなら、隊を二つ。——少年、行けるか」

「行けます。夜に響かない動きで」

「よし」

 セルジオが札束を指した。

「それと、商組合の掲示。言葉はさっきと同じ。『店で包む』『路で広げない』。——揉まれても崩すな」

「崩しません」


 昼餉は白樺亭で短く。粥は薄め、香草少なめ。

 クロは椀の縁に前足をちょんと置いて、湯気をふがと吸ってから一口。

「おいしい」

「よかった」マルタが微笑み、リナがクロの頭をそっと撫でる。「がんばってるね」

「がんばる」


 食べたらすぐ立つ。昼下がりの陽はまだ高い。

 次は、組合の札と、川沿いの倉の様子見。

 夜はまだ遠いけれど、合図より先に手を打てば、灯は立たない。

 そのための歩幅で、俺たちは通りに出た。



 商組合の玄関に札を三枚。

〈砂糖は店で包む/路に置かない〉

〈黒い覆いを見たら関所へ〉

〈受け渡しは印を見せてから〉

 字は太く、行は短く。イリアが縁を濃く取り、ミーナが紐を二結びで締める。サビーネは出入りの流れを見て位置を少しずらした。


 帳場から年配の書記が出てきて、札を一枚ずつ読み、うなずいた。

「これでいい。——昨夜の荷で、馬が二頭暴れた。路の砂糖はうちでも困る」

「組合回覧に一文入れてください。店前に砂糖をこぼしたら、すぐ紙で包む、です」

「書くよ」


 奥からさっきの上等な上着の男も顔を出したが、今度は何も言わなかった。書記が脇で咳払いをすると、肩だけすくめて引っ込んだ。クロは帳場の脚にすりと体をこすり、尻尾をたて直す。書記が笑って頭を下げる。

「いい相棒だ」



 川沿いの道は、水車の低い音が続いている。粉屋の前では、濡れた袋が並び、香りは淡い小麦。甘さはない。

 問題の小倉は、その先の角を曲がった奥。板壁が新しく、扉の桟だけやけに白い。昼でも人影が少ない。水路に細い板橋が渡してある。


 まず、匂い。クロが板橋の際に鼻を当て、くんと短く鳴く。

「あまい、すこし。きのうほどじゃない」

 扉の隙に棒の先をそっと入れ、こつと鳴らす。中の空気の返りは重い。袋が積まれていれば、音が沈む。

 イリアが薄紙に小さく記す。

「『川倉・内部重音/粉袋有』」


 真っ向は避け、裏手へ。水路の向こうに古い足場板が積んであり、そこに紙縒りの切れ端——硬くよじった白紙を見つけた。ミーナが拾い上げて指でひねる。

「“紙縒り”の目印。わざと残してある」

 サビーネが屋根の縁を見上げ、視線だけで合図。

「上にも一人。見張りは一。棒なし」


 風の向きを確かめたくて、粉屋の軒先からひとつまみおが屑を借りた。掌にのせて、指先でそっと吹く。細い粒が倉の扉に沿って上へ流れ、梁で渦を作る。——上の窓から吸いがある。

 イリアが隣で見て、目を丸くした。

「すごい、見える」

「夕方、ここで“立てる”なら、上から合図を入れる。風は上に逃がす。——灯は作らせない」


 いったん離れて関所へ戻り、セルジオに線を重ねる。狐印の三棟——川倉——北門。

「夕刻、『夜五』の手前で張る。灯を先に殺してから人を止める。衛兵は二組、路の両端に隠す。——少年たちは先に入れるか」

「入れます。合図は短く」

 ランベルトが地図上の角をひとつ指す。

「逃げ足に舟が出る道が一本ある。俺がそこに回る。……猫は橋」

「まかせて」クロがぴっと尾を上げる。



 刻が落ちるまでの間に、道具を少しだけ足した。

 果物屋で薄い紙束をもう一綴り。フーゴの店で小さな布網を二。音が出ないよう、紐の輪に布を巻いてもらう。

 フーゴは目だけで状況を問う。

「灯を落とすのか」

「落とす。粉は紙で包む。——路には残さない」

「なら、刃は要らん。棒の革だけ換えとけ」

 革キャップを新しいものに替えてくれた。クロは作業台の端によいしょと前足を乗せ、真剣な顔で見学する。

「クロ、さわらない」

「さわらない」

 素直に引っ込めるのが可笑しくて、フーゴが小さく笑った。


 医務でセレナに脇の擦り傷を見せ、布薬を薄く。

「動きは保てる。夜は水を刻んで。猫さんは塩なし」

「のむ」クロが即答し、診療台の端でふみふみ。セレナが目尻を下げる。

「緊張、ほどけたね」



 夕刻、川沿いの影が伸びる。倉の窓には、薄い紙が一枚貼られ、内側で揺れた。合図を待っている。

 配置につく。サビーネは屋根筋、ミーナは裏の板橋。イリアは対岸の陰で写し。俺とクロは正面の影。衛兵二組は、角の先と舟道へ。


 まず、匂いを切る。風を扉の縁に沿わせ、上の窓から吸う流れと逆にする。中に一息、粉の匂いがもどるはずだ。中の者が咳をすれば、合図はずれる。

 扉の桟がきしと鳴った。中の若い声が短く。

「まだだ、黒丸は二だろ」

「一を試すって言ったろ」

 言い合い。——いい。隙ができる。


 上窓に黒い覆いがちらと見え、持ち上がる前にサビーネの矢がかんと縁を叩いた。

 同時に俺は扉をとんと叩いて声だけ落とす。

「火は使わない」

 中で驚きの声。閂が半分外れた瞬間、クロがするっと足元を抜け、扉の内へ。

「クロ——」

「だいじょうぶ」尻尾が一度だけ見えて、影に沈む。


 俺は隙間に布網を差し入れ、手首に引っかける構え。

 扉が一気に開いて若いのが飛び出す——網を上からさっと落とす。足が絡む。ミーナが裏から走り込み、反対側の足を押さえる。

 もう一人が窓に手をかけ、黒い覆いを持ち上げようとする——サビーネの二本目が窓枠にどす。覆いが落ち、吸いが止まる。灯は立たない。


 中から小弩の音。乾いた鳴りだけ。矢は外へ出ず、梁で止まった。クロの低いふっという声。弦を叩いたのだ。

 俺は中へ一歩。棒で弩の腕を上から払って床に落とし、肩で押して壁に沿わせる。刃は使わない。

 その時、裏の板橋で足音。走る一人。舟道へ逃げる気配。——角で待つ影の長さが変わった。ランベルトが腰を落として受け、静かに倒す音。叫びは上がらない。


 短い沈黙。粉袋の匂い。

 中の年長がとうとう腕を下げた。

「……負けだ」

 サビーネが屋根の縁から降り、矢を抜いて矢尻を布で拭う。

 ミーナが布紐で二人の手首を縛り、俺は粉袋の口を紙で包む。イリアが外で一行ずつ落としていく。

「『川倉・黒灯未設置で制止/拘束二・確保一/粉袋押収』」


 梁の上に、紙縒りの新しい束が一本、目印のように差し込まれていた。指先で引き抜くと、中に薄い蝋板。

 ——《明:狐→港倉/昼合図/客:指輪》

 港倉。次は川下、船の倉。合図は昼、客は“指輪”。印で通すつもりだ。


 ランベルトが舟道から戻ってきて、息を整えた。

「舟は出せてない。……それ、見せろ」

 蝋板を渡すと、彼は短く頷く。

「明日は昼が本線か。都の役人を呼ぶ。狐印は“紙縒り”で繋がる。——今夜はここまでだ」


 粉袋を押収し、倉の戸を封じる。封印の紙に関所の印。サビーネが上窓の覆いを外し、布で包む。

 クロが棚の下をのぞき込んで、ちょいと前足で何かを引き出した。小さな鈴。

「りん」

「合図用だな。返して」

 クロは鈴をそっと置き、代わりに俺の手の甲をぺたと触った。

「よし」


 外に出ると、川風がひやりと頬に当たる。

 イリアが薄紙を束ね、ミーナが押収袋を肩に担ぎ直す。サビーネは矢を数え、一本ずつ確かめた。

 セルジオへの報せと、夜の巡回は軽く一度。——明日の昼に港倉。

 歩き出すと、クロが俺の足にぴとと体を寄せてきた。

「きょうは、ねる?」

「寝る。明日に力を残す」

 尻尾がふりと一度。足音が揃う。川の音が遠くなっていく。



 商組合の玄関に札を三枚。

〈砂糖は店で包む/路に置かない〉

〈黒い覆いを見たら関所へ〉

〈受け渡しは印を見せてから〉

 字は太く、行は短く。イリアが縁を濃く取り、ミーナが紐を二結びで締める。サビーネは出入りの流れを見て位置を少しずらした。


 帳場から年配の書記が出てきて、札を一枚ずつ読み、うなずいた。

「これでいい。——昨夜の荷で、馬が二頭暴れた。路の砂糖はうちでも困る」

「組合回覧に一文入れてください。店前に砂糖をこぼしたら、すぐ紙で包む、です」

「書くよ」


 奥からさっきの上等な上着の男も顔を出したが、今度は何も言わなかった。書記が脇で咳払いをすると、肩だけすくめて引っ込んだ。クロは帳場の脚にすりと体をこすり、尻尾をたて直す。書記が笑って頭を下げる。

「いい相棒だ」



 川沿いの道は、水車の低い音が続いている。粉屋の前では、濡れた袋が並び、香りは淡い小麦。甘さはない。

 問題の小倉は、その先の角を曲がった奥。板壁が新しく、扉の桟だけやけに白い。昼でも人影が少ない。水路に細い板橋が渡してある。


 まず、匂い。クロが板橋の際に鼻を当て、くんと短く鳴く。

「あまい、すこし。きのうほどじゃない」

 扉の隙に棒の先をそっと入れ、こつと鳴らす。中の空気の返りは重い。袋が積まれていれば、音が沈む。

 イリアが薄紙に小さく記す。

「『川倉・内部重音/粉袋有』」


 真っ向は避け、裏手へ。水路の向こうに古い足場板が積んであり、そこに紙縒りの切れ端——硬くよじった白紙を見つけた。ミーナが拾い上げて指でひねる。

「“紙縒り”の目印。わざと残してある」

 サビーネが屋根の縁を見上げ、視線だけで合図。

「上にも一人。見張りは一。棒なし」


 風の向きを確かめたくて、粉屋の軒先からひとつまみおが屑を借りた。掌にのせて、指先でそっと吹く。細い粒が倉の扉に沿って上へ流れ、梁で渦を作る。——上の窓から吸いがある。

 イリアが隣で見て、目を丸くした。

「すごい、見える」

「夕方、ここで“立てる”なら、上から合図を入れる。風は上に逃がす。——灯は作らせない」


 いったん離れて関所へ戻り、セルジオに線を重ねる。狐印の三棟——川倉——北門。

「夕刻、『夜五』の手前で張る。灯を先に殺してから人を止める。衛兵は二組、路の両端に隠す。——少年たちは先に入れるか」

「入れます。合図は短く」

 ランベルトが地図上の角をひとつ指す。

「逃げ足に舟が出る道が一本ある。俺がそこに回る。……猫は橋」

「まかせて」クロがぴっと尾を上げる。



 刻が落ちるまでの間に、道具を少しだけ足した。

 果物屋で薄い紙束をもう一綴り。フーゴの店で小さな布網を二。音が出ないよう、紐の輪に布を巻いてもらう。

 フーゴは目だけで状況を問う。

「灯を落とすのか」

「落とす。粉は紙で包む。——路には残さない」

「なら、刃は要らん。棒の革だけ換えとけ」

 革キャップを新しいものに替えてくれた。クロは作業台の端によいしょと前足を乗せ、真剣な顔で見学する。

「クロ、さわらない」

「さわらない」

 素直に引っ込めるのが可笑しくて、フーゴが小さく笑った。


 医務でセレナに脇の擦り傷を見せ、布薬を薄く。

「動きは保てる。夜は水を刻んで。猫さんは塩なし」

「のむ」クロが即答し、診療台の端でふみふみ。セレナが目尻を下げる。

「緊張、ほどけたね」



 夕刻、川沿いの影が伸びる。倉の窓には、薄い紙が一枚貼られ、内側で揺れた。合図を待っている。

 配置につく。サビーネは屋根筋、ミーナは裏の板橋。イリアは対岸の陰で写し。俺とクロは正面の影。衛兵二組は、角の先と舟道へ。


 まず、匂いを切る。風を扉の縁に沿わせ、上の窓から吸う流れと逆にする。中に一息、粉の匂いがもどるはずだ。中の者が咳をすれば、合図はずれる。

 扉の桟がきしと鳴った。中の若い声が短く。

「まだだ、黒丸は二だろ」

「一を試すって言ったろ」

 言い合い。——いい。隙ができる。


 上窓に黒い覆いがちらと見え、持ち上がる前にサビーネの矢がかんと縁を叩いた。

 同時に俺は扉をとんと叩いて声だけ落とす。

「火は使わない」

 中で驚きの声。閂が半分外れた瞬間、クロがするっと足元を抜け、扉の内へ。

「クロ——」

「だいじょうぶ」尻尾が一度だけ見えて、影に沈む。


 俺は隙間に布網を差し入れ、手首に引っかける構え。

 扉が一気に開いて若いのが飛び出す——網を上からさっと落とす。足が絡む。ミーナが裏から走り込み、反対側の足を押さえる。

 もう一人が窓に手をかけ、黒い覆いを持ち上げようとする——サビーネの二本目が窓枠にどす。覆いが落ち、吸いが止まる。灯は立たない。


 中から小弩の音。乾いた鳴りだけ。矢は外へ出ず、梁で止まった。クロの低いふっという声。弦を叩いたのだ。

 俺は中へ一歩。棒で弩の腕を上から払って床に落とし、肩で押して壁に沿わせる。刃は使わない。

 その時、裏の板橋で足音。走る一人。舟道へ逃げる気配。——角で待つ影の長さが変わった。ランベルトが腰を落として受け、静かに倒す音。叫びは上がらない。


 短い沈黙。粉袋の匂い。

 中の年長がとうとう腕を下げた。

「……負けだ」

 サビーネが屋根の縁から降り、矢を抜いて矢尻を布で拭う。

 ミーナが布紐で二人の手首を縛り、俺は粉袋の口を紙で包む。イリアが外で一行ずつ落としていく。

「『川倉・黒灯未設置で制止/拘束二・確保一/粉袋押収』」


 梁の上に、紙縒りの新しい束が一本、目印のように差し込まれていた。指先で引き抜くと、中に薄い蝋板。

 ——《明:狐→港倉/昼合図/客:指輪》

 港倉。次は川下、船の倉。合図は昼、客は“指輪”。印で通すつもりだ。


 ランベルトが舟道から戻ってきて、息を整えた。

「舟は出せてない。……それ、見せろ」

 蝋板を渡すと、彼は短く頷く。

「明日は昼が本線か。都の役人を呼ぶ。狐印は“紙縒り”で繋がる。——今夜はここまでだ」


 粉袋を押収し、倉の戸を封じる。封印の紙に関所の印。サビーネが上窓の覆いを外し、布で包む。

 クロが棚の下をのぞき込んで、ちょいと前足で何かを引き出した。小さな鈴。

「りん」

「合図用だな。返して」

 クロは鈴をそっと置き、代わりに俺の手の甲をぺたと触った。

「よし」


 外に出ると、川風がひやりと頬に当たる。

 イリアが薄紙を束ね、ミーナが押収袋を肩に担ぎ直す。サビーネは矢を数え、一本ずつ確かめた。

 セルジオへの報せと、夜の巡回は軽く一度。——明日の昼に港倉。

 歩き出すと、クロが俺の足にぴとと体を寄せてきた。

「きょうは、ねる?」

「寝る。明日に力を残す」

 尻尾がふりと一度。足音が揃う。川の音が遠くなっていく。

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