第36話 「管を断て」

 夜明け前の空は、墨の端に薄い灰を混ぜたみたいに色が変わりはじめていた。

 ギルドの裏手、荷置き場の梁の下に、顔ぶれが集まる。


 サビーネ、ミーナ、イリア、ハーゲン。衛兵からはランベルト。鍛冶のフーゴは布で巻いた工具包みを抱え、工匠のノルドが真鍮の鉗子と木楔を腰にさしている。関所アルダからはセルジオが帳面を抱え、短くうなずいた。


「目的は三つ。狐印倉庫の声管の口を見つける。連絡文言を一つでも拾う。安全を確保して管を断つ。――順番は守る」


 ミレイユが厚紙の簡易図面を広げた。昨夜、イリアと二人で急ぎ起こしたものだ。梁の上、板壁の中、柱の合わせ目。声が通る可能性がある道を赤の細線で印してある。


「まずは三番庫。裏手の板橋から入る。アキラは風の具合を見る役、クロは匂いと音。サビーネは上、ミーナとイリアが記録、ハーゲンは入口の背中を守って」


「了解」


 フーゴが俺の手に、布に包まれた小さな器具を渡した。

「管口押さえだ。革を二枚合わせた口金。あてがってから、ここをひとひねり。音が外に逃げない」


「ありがとうございます」


 クロは工具包みに鼻をつけ、くんくんしてから「におい、だいじ」と小さく言った。いつもより真面目な顔だ。耳が前を向いている。


 東の空が細く白む。俺たちは足音を揃えて、狐印の並ぶ通りへ向かった。昨夜と違い、門の鈴は鳴らない。静かな朝の匂いの中に、粉の甘さはない。代わりに、乾いた木と油の匂いが梁のほうから落ちてくる。


 板橋を渡り、裏戸。ノルドが耳を当て、指で桟を叩いた。

「中は二人分の足音。動きはない。……梁の中、空洞音が返る」


 ミーナが小声でイリアに伝え、薄紙の端に黒丸を打つ。サビーネは雨樋を伝って屋根へ。

 ノルドが針金のような細具を合わせ目に差し込み、閂をふっと持ち上げる。音は出ない。

 戸が開く。埃っぽい暗がり。昨日よりきれいに片づけられている。棚の並びが変わったせいで、梁の根元がむき出しになっていた。


 クロが前足で床をとん、とんと押した。

「うえ、から、おと」


 天井板に耳を寄せる。細い声が、管の中を走ってきたみたいに響いた。


 ――〈夜五は見送り。三番庫は……〉


 言葉がそこで波のように乱れ、また続く。

 ――〈……狐の印は替えない。赤帯は……〉


(赤帯)


 昨夜の蝋板の符牒が、足の裏で冷たく思い出される。

 イリアが震えない手で筆を走らせ、聞き取れた言葉だけを書き留める。


「抑える」

 フーゴが管口押さえを俺に手渡す。梁に沿って探ると、柱の合わせ目に、小さな真鍮の口が埋めこまれていた。煤で黒い。鼻を近づけると、微かに油のにおい。そこへ口金をあてがい、革を押しつけて固定する。


 俺は息を落ち着かせ、風を狭く絞る。管の中を逆向きに押すのではなく、周りの空気の揺れを止めるイメージ。外の音と切り離す。ノルドが頷き、真鍮の鉗子を用意した。


 その刹那、管の奥がふっと温かくなった。

 (火? いや、油)


「待って」

 クロの耳がきゅっと寝る。「あぶら、つよい」


 ノルドが目で合図し、鉗子を一度引く。「油煙を通す仕掛けだ。切る前に逃がす」


 窓の隙を開け、俺は風の角度を変える。管の奥から来る温い空気を外の明かり取りへ押し上げてやる。強くし過ぎない。油煙を散らせば、外の屋根で引火もあり得る。細く、一定に。


 温度が下がるのを指先で確かめ、ノルドがうなずいた。

「行く」


 鉗子の刃が、金属の細い音を立てる。真鍮の管がかちりと二つに分かれた。

 同時に、天井の別の場所――梁の影で鈴のような金物が小さく鳴った。合図だ。どこかで誰かが切断を知った。


 屋根の上で、瓦が一枚だけ音を立てる。サビーネが短く呼ぶ声。

「上、二」


 ハーゲンが戸口に体を寄せ、槍の石突で床を軽く叩いた。

 ランベルトが外へ半歩出て、短い笛を一度。

 ――味方への合図だ。追い散らす音ではない。位置を揃える音。


 足音が近い。裏戸の向こう、板橋の手前で誰かが止まる。火打ちの石が擦れる乾いた音。

 (火はだめだ。さっきの油煙がまだ薄く残っている)


「ミーナ、戸の合わせ目、濡れ布」

 彼女がすぐに布を出し、水で湿らせてぴたりと貼る。

 俺は窓の隙へ掌を寄せ、外へ向かう風をほんの少し強めた。火種の向きだけ逸らせればいい。


「――開けろ、倉番だ」


 戸の向こうの声は若い。偽名を使う時の平らな言い方。

 ランベルトが低く返す。「関所通しだ。帳面を見せろ」


 沈黙。すぐに別の足音が屋根へ回った。サビーネが瓦の列に身を沈める乾いた気配。矢の向きが変わる。


 その瞬間、管の奥からまた声。切れた先から、遠くのざわめきが返って来た。


 ――〈……三は沈黙。四に回せ。黒灯は二。赤帯は――〉


 イリアが紙を二枚重ね、聞き取れた音だけ拾う。筆が跳ねない。手が慣れている。


「止めるべきは黒灯の二本目。……赤帯の指示は別の管からも来てる」

 ミレイユの図面に、イリアが新しい線を入れる。梁の向こう、隣の棟へ渡る細い穴。二系統だ。


 ノルドが短い鉤を出す。「隣りへ抜け管がある。塞ぐか、追うか」


 板橋の先、戸に短い衝撃。押してる。ハーゲンが肩で受ける。

 ランベルトが笛を二度。交代の衛兵が角へ走る音。互いの段取りが頭に入っているから、声は少ない。


 サビーネの矢がからんと雨樋の金具を叩く。屋根を回った足音が跳ねて離れた。

 外の火は起きない。油煙はもう薄い。深呼吸を一つ。肺が熱くならないのを確かめてから、俺は抜け管へ掌を寄せた。


 風を四角く組む。穴をふさぐのではなく、向こう側の空気だけ止める。音の通り道を迷わせる。ノルドが木楔を捻って差し込み、フーゴが上から革の栓を重ねる。三点止め。


「よし。書き取りはここまで」

 セルジオが帳面を閉じた。「管切り一、抜け管封じ一。黒灯二の指示あり。――次の灯に走れ」


 裏戸の押しは止んだ。押していた連中は、別の灯へ向いたのだろう。

 板橋へ出る前に、クロが小さく鼻を鳴らす。「まだ、うえ」

 屋根の向こう、瓦の影に一つ、浅い影。矢は要らない距離。逃げ足の速さだけが取り柄の、使い走りの動き。


「追わない」

 サビーネが短く言って、かわりに屋根の縁を鳴らす。向こう側へ下がれ、の合図だ。影がするすると消えた。


 朝の光が、通りの端にかすかに触れる。黒灯が立つなら、夜が薄れる前だ。

 ランベルトが頷いた。「門は俺たちが抑える。お前たちは南脇と市場角を見ろ。二本目はそこで効く」


 フーゴが工具包みを肩に担ぎ、ノルドが木楔の残りを数える。イリアは紙を抱え、ミーナが結び目を確かめる。

 クロは板橋の端に座って、尻尾の先をぴんと立てた。

「いく?」


「行く」


 俺たちは倉庫を出た。朝の冷えが、汗の乾いた襟に少しだけ触れる。

 管は断った。声は一つ、消えた。

 二本目の灯を落とすまで、まだ余裕はない。歩幅を揃えながら、次の角へと急いだ。



 倉庫街を抜けると、南脇の狭い通りは朝露で石が鈍く光っていた。屋台はまだ布をかぶったまま、人の気配だけが角ごとに溜まっては流れる。甘い匂いは……弱い。昨夜より薄い。


「南脇、手前二本は空」

 サビーネが雨樋を伝って屋根へ。瓦一枚ぶん身体を沈め、通りの奥を窺う。

 クロは排水溝の縁に前足をのせ、とん、とんと二度。鼻先を持ち上げて小さく鳴いた。

「におい、かわる。ひだりから、すこし」


 左は市場角へ抜ける筋。朝の仕込みが始まる時間だ。甘さを使うなら、人の流れが膨らむそこに立てる。

 ハーゲンが短く言う。「角を先に見る。俺は背を押さえる。ランベルト、通行の声を頼む」

「任せろ」


 市場角に近づくほど、別の匂いがまざる。鉄、油、干し魚。そこへ薄い砂糖の甘さが上から落ちてくる感じ――どこかで匂いを吊っている。


 角に出る。柱の影に黒い覆い。昨夜のものに似ているが、台座が違う。脚が高い。人の頭より少し上で匂いを振るつもりだ。

 覆いの下には蝋で固めた白い束が四。隅に巻いた布が一本、赤い帯。目印の色まで仕込んである。


「上から押さえる。合図で外す」

 サビーネが屋根のへりに指をかけ、矢を一本抜く。

 フーゴが俺に革の口金を渡し、ノルドは台座の根元に木楔を二つ。

 ミーナは布を広げ、落とした粉をまとめる準備。イリアが紙を用意し、刻を小さく書き入れる。


 俺は呼吸を整え、覆いの吸いに風を合わせる。上へ逃がす角度だけ作る。地面へ落ちる前に、匂いを薄める。

 クロが灯台の脚に前足をそっとのせ、耳を倒す。「いま?」


「いま」


 屋根の上で矢がかんと覆いの縁を打つ。火の世話役が反射で上を向く。その隙に、俺は覆いの口へ革をあてがい、ノルドが根元へ楔。吸気が止まる。風で芯の呼吸を切る。じゅ、と音。火が落ちた。


 同時に、角の反対側から荷車の音。

 (来た)


 干し魚の札を掲げた車。樽と箱。その間に、布袋が短く二束。赤帯で口元が括られている。御者は若い。背に短い棒、腰に小さな刃。後ろにはもう一人、肩で荷を押えるふり。


 ランベルトがさっと前に出て、柱に貼った掲示を指で叩く。

「歩きで通れ。角は止まる」

 通行の足が一瞬そろう。御者の顔色が変わる。早足で抜けたい気配。匂いを使う算段が崩れたのだ。


「梶棒、戻して」

 俺は短く声を置く。走らせない言い方だけ選ぶ。

 御者は聞かない。梶棒を切って右へ抜けようとした瞬間、クロがぽんと前へ跳び、梶棒の影に尻尾を立てた。猫一匹ぶんの幅で、進路が止まる。


「どけ!」

 後ろの男が短剣へ手をやる。

 ハーゲンが半歩だけ出て、槍の石突で車輪の前をとんと叩く。

「刃はやめておけ。輪が割れる」


 サビーネの矢が梶棒の先にどすと刺さる。走らせる気配を止める浅い刺し方。目が合う。逃げに切り替えるべきか測っている目だ。


 その間に、ノルドが台座を回し、フーゴが覆いをはずす。ミーナが白い束を布で包み、イリアが紙に押収印を書く。

 俺は布袋の縁に掌を寄せ、匂いが外に出ないよう内向きの流れを作る。周囲に撒かないのが先だ。


「荷を見せて」

 俺が言うと、御者は歯を食いしばる。「魚だ」

「袋は魚じゃない。赤帯は倉庫の印だ」

 クロが布袋に鼻を寄せ、くん、と短く鳴いた。「あまい。ちょっと、にがい」

 砂糖に防虫の油を薄く塗ってある匂い――遠目では魚の匂いにまぎれる。考えたやり方だ。


 御者が短剣を抜く前に、ランベルトの副官が短槍の柄で手首をはたいた。刃が石に落ちる。

 後ろの男は反射で笛に手を伸ばす。サビーネの矢が笛の指穴をぱちと割った。音は鳴らない。

 ハーゲンは誰も倒さない距離で前へ出る壁になり、通行の足を安全に流す。市場角が止まらない。それが一番効く。


 押収が済むまでの短い間、俺は覆いの芯を見た。

 本体は昨夜より手が込んでいる。吸い口が二つに分かれ、片方は下へ、片方は上へ。匂いの方向を切り替えられる作り。真鍮の回し金具に抜け管の刻み。

「ノルドさん、ここ」

「見えてる。回路を殺す」


 彼は回し金具を真横にし、真鍮の舌を抜いた。管の中で乾いた音が一つ。これで誰が外から火を足しても、匂いは広がらない。


 御者の肩から赤い帯がのぞいた。切り端に狐の焼印。

 イリアが受け取り、符牒の癖を紙に写す。「帯の折りが三。『三番庫へ戻せ』の合図かも」

 セルジオが横から覗き、眉をひそめた。「赤帯の折り数で指示を回す……あり得る」


 押収品は袋へ。白い束は別袋。防虫油のついたものと混ぜない。

 フーゴが覆いの脚を一本ずつ外し、ランベルトが短く笛を一度。角の衛兵が交代に入り、通りの流れを受け持った。


「角は任せる。――北門側の狐印も赤帯が動く」

 ランベルトが帳面に印を入れ、俺たちへ顎を引く。

「行けるか」


「行ける」

 脇腹の痛みは薄くなっている。布の結び目は外側。呼吸は浅めに保つ。クロがちらと見上げて、小声。

「いたい?」

「大丈夫」

 猫はそれでも念のため、俺の足首に前足をのせてぎゅっと一回だけ押した。力加減がやさしい。サビーネがそれを見て、口の端をほんの少し上げる。


 角を離れる前、干し魚の屋台の主が荷の陰から顔を出した。「……助かった。今朝、匂いが変だと思ってた」

「紙を見ていてください。砂糖は路に置かない」

「覚えるよ」


 市場角の仕事は終わった。二本目の灯も落ちた。残るは指示を回す帯と、声の抜け先。

 セルジオが帳面を閉じ、短くまとめる。「『黒灯二=消灯済/覆い二撤去/赤帯押収/帯折り三』。――次だ。赤帯の折りで指示を読めるなら、渡し場か北の路地に合図が来る」


 サビーネが屋根の上で三本指。北へ向ける合図。

 ハーゲンが荷を背負い直し、ミーナが結び目を確かめる。イリアは紙束の角を合わせ、墨の蓋を固めた。

 クロは柱の影からひょいと出て、尾で小さな丸を描いた。「おわり?」

「角は終わり。次、北」

「いく」


 通りの風が少し変わる。川からの冷えが混じりはじめている。

 俺たちは歩幅をそろえ、倉庫街の北側――渡し場に通じる路地へ向かった。


 道すがら、フーゴが小声で俺にだけ言った。

「覆いの回路はもう真似される。図を起こしておけ。次に見たら、ここを先に潰す」

「はい。イリア、図面を一本」

「描く」


 ノルドが指で二を示す。「抜け管は二系統あった。今朝は一本を切った。もう一本の口は北で拾える」


 角を一つ曲がるごとに、屋根の影が短くなる。朝が追いついてくる。

 クロが時々ふり返り、俺の歩調に合わせて半歩ずつ調整する。尻尾の先がぴんと立って、元気がわかる。

「アキラ、みぎ」

「見えてる」

 右手の板壁に、小さな赤帯の切れ端。折りが二。新しい。指示の経路は、やはり北。


 渡し場の手前で、ミレイユの厚紙図に戻る。声管の通り道の赤線が、ちょうどここで川沿いの倉に入っていた。

 セルジオが頷く。「当たりだ」


 渡し小屋の裏口は閉まっている。板は新しい。真鍮の金具が梁に増えていた。

 ノルドが耳を当て、桟を軽く叩く。「中に二。上に一。管の響きは強い」


 サビーネが屋根へ回り、ハーゲンは裏手の梯子に半身。ランベルトは通りの角へ衛兵を一人立て、行き来をゆっくりにする。

 クロは戸口の前で座り込み、前足で床板をとんと叩いた。「うえ、おと」


 俺は戸から半歩だけ離れ、窓の隙へ掌を寄せる。風を狭く。管の向きだけ触る。

 その瞬間、管の奥からまた耳に刺さらない小声が走った。


 ――〈赤帯二、渡し場へ。黒◦はやめ。……三番は……〉


 切り取りながら、イリアが記す。紙が増える。

 フーゴが工具包みの口を広げ、ノルドが鉗子を取る。

 サビーネの矢が屋根のへりでことり。

 合図はできた。次の管を断つ番だ。


 俺は一度だけ深く息を吐き、指先の角度を整えた。

 渡し場の水面が、朝の光でわずかに白くなる。時間は薄い。

 戸が静かに開く前に、中の空気を読んでおく。油、木、粉、そして……墨。帳面の匂い。

 言葉を運ぶ道はここで切れる。


 「行く」

 短く言って、俺たちは裏口へ滑り込んだ。



 裏口の桟がかすかに鳴った。ノルドが鉗子でかちゃと押さえる。戸の隙間から、油と木の匂い、そして墨。帳場が近い。


 中は細長い部屋だった。右手に机が二つ。紙束と砂皿、封蝋。左手の壁いっぱいに真鍮の管が枝分かれし、継手ごとに小さな符丁が刻まれている。梁の上に一人、見張り。床に二人。片方は筆を握り、もう片方は回し金に手をかけていた。


 サビーネが窓枠から半身。矢は下へ。ハーゲンは扉の陰、槍は低い位置。フーゴは工具包みを開き、ノルドは楔形の止め金を指に挟む。イリアは紙を抱えて後ろ。クロは俺の脛に前足を一回だけとん、それから床を滑るように机の影へ。


 管の一つがひゅと息を吸った。どこかから声が走る。

 ――〈赤帯二、渡し場……三番は……〉

 俺は窓の隙へ掌を寄せ、吸い口の手前だけ逆向きに風を落とす。声が途切れ、管の口がぴしと冷えたみたいに細る。


「開けている管は三」ノルドが低く。

「二から切る」フーゴが頷き、真鍮の継手輪に鉤をかけた。


 梁の上の見張りが腰を浮かせ、火紐に手をのばす。帳面を焼く気配。

「上」サビーネが矢を梁の前へどん。木粉が落ちる。男の手が止まる。

 その瞬間、クロが机の上にぴょんと上がり、前足で火打ち箱をぱしと押し出した。箱は床でからんと転がり、火花は出ない。猫は胸を張り、ひげがちりと小さく逆立つ。

「ぴか」

 耳の先で細い静電がはねた。男がびくりと肩をすくめる。雷ほどではない。けれど、触る気は折れる。


「回し金から手を離せ」

 俺は机の端を回り、筆の男の手首を軽く押さえる。強く握らない。指の向きを変えるだけ。紙に墨のしみを作らせない角度で止める。

 ハーゲンが槍の石突で回し金の脇をとん。もう一人の足が止まる。

 梁の上の見張りが逃げ場を探して梁を跨いだ。サビーネの矢が梁の先にことり。一歩、戻る。


「管を止める。声はここでおしまい」

 フーゴが継手輪を半回転。ノルドが止め金を差し込み、鉛封を軽く潰す。空気の走りが消える。

「一本」

「次」

 二本目も同じ手順で止まる。スッ、と部屋の空気が軽くなる。外からの囁きが途切れ、渡し場の水音だけが戻ってきた。


 机の上の帳面は三冊。狐印の焼き印。紙端に赤帯の折りが貼られている。イリアが指で折り数を確かめ、書き写す。

「折り一=渡し/折り二=渡し場/折り三=三番庫。……ここは『二』」

 セルジオが帳面を手に取り、さっと目を通して眉を寄せた。

「搬入の行列は夜五と夜六。灰の舟が川筋で受ける」


「舟?」

「底を灰で塗って、夜に反射を潰す舟だ。渡し場の影に入れば見えにくい」


 梁の男がぽつりと落ちた。「……俺は回しただけだ」

 筆の男が続ける。「帯は用意されてくる。折りの意味は、上しか知らない」

 ハーゲンが短く。「倒れないで座ってろ」

 サビーネは矢を下ろし、梁の男に向かって言う。「降りて」

 男はゆっくり降り、壁に背をつけて座った。目に抵抗はある。それでも刃は探さない。動きが落ちている。


 フーゴが壁の分配箱を開けた。真鍮の管が束ねられ、薄い板で番号が振られている。

「渡し場、北門、三番庫、塔の灯……全部ここで分けてる。抜け管は外へ流れ。……ここ。舟の方へ逃がす口が一本」

「切る」

 ノルドが鋸糸をかけ、ぎゅと引いた。真鍮の薄い管がしゃりと切れて、空気がふっと抜ける。

「これで外から吹き込んでも、舟へは行かない」


 イリアが帳面から紙片を抜き、符牒の欄に赤帯の折りを当てる。

「『夜六、灰の舟、北の杭』」

 セルジオが顎を引く。「川杭の影だな。潮のない川でも、石杭の影は黒い。舟は影をなぞって来る」


 道具をしまいながら、フーゴが俺へ小声で。「傷、どうだ」

「薄い。動ける」

 クロが足元でとんと二度。「いたい、すこし」

「心配性だな」フーゴは笑って、猫の額に指を軽くのせた。クロは目を細め、ひげをふると揺らす。


 押収:帳面三/赤帯十一本/黒覆いの換気舌/継手輪二。

 イリアが押収印を帳場に残し、封を結ぶ。

 セルジオが短くまとめる。「『渡し場裏・管二断/分配箱開・舟口遮断/帳面押収・夜六灰舟』。――引き渡す」


 ランベルトが衛兵二を連れて入り、男たちを受け取った。

「舟の方は俺も行く。角の見張りは交代を入れた。市場角も踏み直してある」

「助かる」


 出る前に、梁の男が言った。「……舟は音で来る。杭を三回叩く音に寄る」

 サビーネが一度だけ頷く。「聞いた」


 裏口を閉める。水面の匂いが濃くなる。灰の舟を止めるなら、朝の光が強くなる前、影がまだ深いうちがいい。

 渡し場の脇道を抜け、北の川杭が並ぶ一帯へ移動する。杭の一本一本に古い刻み。その間に黒い影の道ができる。


「配置」

 ハーゲンが短く。

「矢は高い影。槍は杭の間。補助は手前の引き綱。クロは……」

「ここ」クロは自分で杭の陰を選び、前足で砂をこりとならして座り心地を作る。尻尾がぴんと立つ。

「偉い」ミーナが小さく笑い、猫の耳の後ろをさっと撫でる。クロは満足そうに喉を短く鳴らした。


 朝靄が薄くなり、川面にうっすらと灰色の線が浮かぶ。

 杭の影で、こつ、こつ、こつ。三度。

 石で叩く音。静かだが、近い。


 サビーネが弓をわずかに上げる。

 俺は杭の根に引き綱を回し、ノルドが反対側の杭に滑り輪を掛ける。フーゴは楔を用意。ミーナは布。イリアは紙を膝に置き、刻を記す。セルジオは声を落として合図の段取りを確認。ランベルトは通りの方へ一瞬目を遣り、うなずいた。


「舟、影に入る」サビーネの声が低い。

 灰色に塗られた舟底が、影を舐めるように滑ってくる。櫂の音は小さい。乗り手は二。前に一、後ろに一。布袋が三、舟の底に寝かせてある。赤帯が一本、舟首に巻き付けてある。


「いま」

 俺とノルドが引き綱を低く張る。杭と杭の間に見えない段ができる。舟首がそこにこつと当たり、速度が落ちた。音は水音に紛れる程度。

 サビーネの矢が舟首の赤帯にどすと刺さる。帯が杭へ絡む。

 ハーゲンが杭の陰から出て、槍の石突で舟縁をとん。舟がぎゅと止まり、前の男が体勢を崩す。

 後ろの男が短い刃に手を伸ばす。ランベルトが短槍の柄で舟縁をがつ。刃が水にぱしゃと落ちた。


「袋を渡せ」

 俺は舟の縁に手をかけ、布の口を内向きの風で閉じる。甘い匂いが広がらない。

 前の男は顔をしかめ、布袋から手を離した。クロがぴょんと杭から舟へ飛び移り、袋の上にぺたんと座る。尻尾をくいと上げて、動かしませんという顔。

「クロ、すごい」ミーナが感心して小声。猫はちいさく「えっへん」。


 イリアが記し、ミーナが袋を布で包み、セルジオが押収印を重ねる。フーゴは舟首の赤帯を切り、帯の折り癖を見てイリアに渡す。

 ノルドは引き綱を緩め、舟を杭に寄せて縛る。

 サビーネは弓を下げ、岸へ軽く飛び降りた。


 押収が整った時、川下からもう一艘、影に灰が滑るのが見えた。

 ハーゲンが低く。「二艘目」

 セルジオが即座に判断。「一艘目を静かに寄せ切ってから、同じ要領。――声は短く。騒がせない」


 クロが俺を見上げ、うん、と一度。ひげにちりと細い光。

「もういっかい」

「もう一回だ」


 引き綱を持ち直す。杭の影はまだ深い。朝の光は、ぎりぎり間に合う。

 俺たちは互いの位置を確かめ、二艘目を迎えるために息を揃えた。



 二艘目の影が杭の筋を舐めて近づいた。灰で鈍らせた舟底が、まだ夜の色をまとっている。前後に一人ずつ。前の男は笛、後ろは短い弩。袋は二。舟首にはやはり赤帯。


「張る」ノルドが囁き、俺と同時に引き綱を低く渡す。

 舟首がこつと段差に触れた瞬間、サビーネの矢が赤帯をどすと射抜く。帯が杭に絡み、速度が落ちる。


 後ろの弩がこちらを向いた。ぱちんと弦。

 サビーネの二本目が弦の脇をべちと叩き、矢筋がすれた。矢は水へぱしゃ。後ろの男が体勢を崩す。

 前の男が笛を咥えた。クロが杭の上からぴょんと跳び、笛の先をぱしと前足で叩く。笛は舟床で転がり、音は出ない。猫はそのまま笛の上にぺたんと座った。耳がぴんと立つ。


 ハーゲンが舟縁へ出て、槍の石突でとんと合図。ランベルトが短槍で舟を杭へ寄せる。フーゴが楔を舟首に噛ませ、ノルドが帯の絡みを締めて固定。動きの隙間が消える。


「袋」

 俺は舟へ体を寄せ、内向きの風で袋口を一つずつ塞ぐ。甘い匂いが外へ出ない。前の男が抵抗を見せたが、サビーネの矢尻が舟縁をことりと打つだけで手を引いた。深くは要らない。動きを止めるだけで十分だ。


 イリアが刻を記す。「夜六・灰舟二」

 ミーナが袋を布で包み、セルジオが押収印を重ねる。

 フーゴは舟首の赤帯を解き、折り癖と織り目を確かめてイリアへ渡す。

「織りは狐印系。帯端の切り欠きは『二番倉』」

「倉庫側の合図と一致する」セルジオが低く応じ、紙の端に小さく二と書いた。


 川下で、杭がこつ、こつと短く二回。さっきの三打とは違う。

 ランベルトが眉を寄せる。「見張りの確認だ」

「返さない」ハーゲンが槍をわずかに上げる。「音で呼ばせない」


 杭の根に耳を当てると、振動が浅い。対岸の石杭から伝わってきた合図だ。ノルドが小さな鉛輪を取り出し、杭の横腹にはめる。「共鳴を殺す」

 次の二打は、杭でくぐもって消えた。川面は静かに戻る。


 舟の後ろの男が舵を蹴り、逃げる角度を探った。フーゴが舟尾へ手を伸ばし、艫綱(ともづな)の環金に楔をすっと差し込む。舵がぎしと固まり、舟は杭に腹を寄せたまま動かない。


「終わりだ。降りて」

 ランベルトが短槍の石突を舟底にとん。二人は手を上げ、笛も弩も足下へ置いた。クロは笛の上で胸を張ったまま、こちらを見てにっと目を細める。

「えっへん」

「はい、えらい」ミーナが小声で笑い、猫の背を一撫で。ひげがふると揺れる。


 押収と固定が終わると、セルジオが簡潔にまとめた。

「『灰舟二押収・赤帯二・袋四。倉庫合図一致。杭合図遮断』」

 イリアがうなずき、符牒の欄に四本の短線を引く。今夜の線引きが、紙の上に残る。


 男たちは衛兵に引き渡す。手首には灰指の輪。ランベルトが表情を変えずに輪を布で覆い、「帳場で外す」とだけ言った。声は冷たいが、無駄に強くはない。


 川の影に残っていた三艘目の気配は、杭の音が返らないのを聞いたのか、下流へ引いた。波紋だけが遅れて寄ってきて、杭にちりと当たった。


 杭を離れる前、ノルドが管の遮断板をもう一枚、橋脚の内側に残した。「引き返し信号はここで死ぬ。橋のたもとの分配も後で封しよう」

「頼む」セルジオが頷き、赤帯を布に包んだ。「帯は証拠。織りと匂いで倉庫を絞れる」


 橋をくぐって戻る道、クロが俺の足首に前足をとんと当てる。

「アキラ、きず」

「浅い」布の下のヒリつきはあるが、歩ける。ミーナが歩きながら器用に包帯を巻き直し、結び目を外側へころりと寄せる。

「これで擦れない」


 関所前。塔影の下に台が出て、押収物が整然と並ぶ。袋四、赤帯二、帳面、継手輪、覆いの部品。セルジオが秤にかけ、印を打ち、控えを二枚。イリアが副本をギルドへ回す。

 ランベルトは衛兵に向き直り、短く言った。「夜番は交代多め。倉庫街は掲示も貼り替え。『笛・灯・帯』の三つを見たら呼べ」

「了解」


 ひと段落ついたところで、フーゴが腰袋から干した小魚を取り出し、クロの目の前でひらっと振った。

「功労賞」

 クロは前足でそっと受け取り、床に置いてことりと押さえ、もぐもぐと小さく食べた。目がまるくなって、ひげが満足に揺れる。

「おいしい」

「働いたからな」フーゴは笑い、俺の肩をこつと軽く叩く。「お前も茶」


 医務室へ寄る時間ができた。セレナはもう起きていて、白布の匂いが清潔に立つ。

「おかえり。脇、見せて」

 布を外すと、彼女は息を吸って、すぐに薄い薬を塗った。

「浅い切り。縫わないでいい。今日は温から冷へ一回。声は短く。猫さんは塩抜きの水」

「のむ」クロは素直に頷き、器に顔を寄せた。


 ギルドにもどると、ミレイユが掲示板の前で紙を貼り替えていた。

「〈笛・灯・帯=知らせる〉。言葉はこれで統一」

「助かる」セルジオが副本を渡し、印を押す。

 イリアは机で符牒の写しを清書。赤帯の折り、合図の刻、管の番号。一本一本の線が、つながって地図になる。


 短い仮眠の前に、セルジオが俺たちに向き直った。

「今夜の流れは止まった。ただ、灰指の上はどこかにいる。帯の織りは『狐』、帳場は『渡し』、管は『橋』。次は――上流の『灰塗り小屋』を当たる。粉も舟底の灰も、あそこで作る」

 ハーゲンがうなずく。「昼に地取り。夜に入る」

「弓は屋根、槍は口、工具は箱。猫は……」サビーネが目を細める。

「やね」クロは胸を張る。「ぴょん、できる」

「うん、できる」ミーナが笑った。場の空気が少しほどける。


 白樺亭の角を曲がる頃、東の雲が白んできた。屋台の支度が始まる。パンの匂い。湯気。

 マルタが扉を半分開け、顔を出した。

「おつかれ。朝の一杯、入れてあるよ。猫さんのは塩抜き」

「ありがとう」

 テーブルに座ると、クロは前足をきちんとそろえ、湯気を見てこくりと頷いた。

「のむ。ねる」

「一口飲んで、少し寝よう」


 杯の温かさが喉に落ちていく。窓の外、塔の上で旗がふわと動く。夜の細工は崩した。次は、粉の根を断つ番だ。

 カップを置き、目を閉じる前に、クロの左前足の黒い点が指にちょんと触れた。

「アキラ。つぎ、いく?」

「行く。昼に準備をして、夜に灰を拾う」

 猫は満足して、テーブルの上でくるんと丸くなる。


 短い眠りを迎えながら、頭の中で線がつながっていく。管は止まった。舟は押さえた。帯は証拠になった。

 残るのは、灰を作る手と、指図を出す口。そこへ手を伸ばす。

 朝の鐘が一度。目を閉じる。息が静かに落ちた。

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