第34話 「川腹(かわばら)を聴け」
朝の白樺亭は静かだった。厨房の湯気と薄い香草。マルタがいつもの粥をよそい、クロの皿は塩抜きで少し多め。食べ終えたクロが椀の縁をちょんと押して「おわり」の合図をすると、リナが笑って親指を立てた。
ギルドに寄る。掲示台の一番上、昨夜の臨時紙が太字に差し替えられている。
〈川舟の腹/“鈴”=二→一→舟止め〉〈黒灯=覆い回収〉〈粉=提出〉
ミレイユが紙束を抱え、俺に二枚渡した。
「渡しと堰守に回覧。午前は段取り整えて、夕方から“耳”になる。——声は短く、でも説明は噛んでね」
「了解」
クロは紙の角を前足でとんとん、鼻先でにおいだけ確かめる。「かみません」
「えらい」
関所アルダ。塔影の机でセルジオとナディア(堰守)が地図を押さえていた。川が街を抱くように曲がり、曲がり手前に“渡し”、下手に“堰”。
「舟は腹を滑らせて曲がりを抜ける。夜は音でしか見えない」ナディアが言う。「堰の見印は昼ほど役に立たない。代わりに“浮き楔”を置く。浮を三、間を一。舟が触れば音が立つ」
セルジオが木札を三枚、俺の前へ。
「合図の順は街にも出したが、水辺の人にも口で入れる。渡し守・堰守・衛兵・ギルド——全部同じ言い方。ばらつかないことが盾だ」
浮き楔の準備は鍛冶通り。フーゴの店先で丸太の端を削り、麻縄で浮を通す。松脂を薄く塗る作業は匂いが強く、クロがくしゅんと小さくくしゃみ。
「鼻がしびれる?」と俺が聞くと、クロは首をかしげ、ひげをぴくぴく。「ちいさい、ぱち、した」
指先で触れると、わずかな静電。昨夜から空気が乾いている。
「風に合わせて置く。楔が流されないように」とフーゴが縄の結びを見せる。「ひと回し、ふた結び。外すときは爪で持ち上げる」
「覚えます」
「お前さんは板に勝たないが、川にも勝とうとするな。流れを使え」
「使います」
フーゴは最後にクロへ視線を落とし、指で額をちょん。
「紐は噛むな」
「かまない」
「よし」
昼前、渡し小屋。渡し守の老爺が耳を押さえ、俺の説明を最後まで聞く。
「二で注意、一で舟を止める。わかった。夜は風下で鳴る。鈴は高く、短く」
小屋の梁には古い鈴が三つ、紐の色が違う。赤が“二”、白が“一”、青は“非常”。
「青は使わない。使うなら関所の許可だけど、今夜は無い」
「そうでなくちゃな。——猫さん、耳はいいか」
クロは真面目な顔で頷き、桟に前足をそろえてちんまり座る。尻尾の先が窓の外の風に合わせて揺れた。
「いい耳です」
堰守詰所。ナディアと下働きの若い衆が丸太の頭に穴を穿ち、浮を通した縄を見印杭に結ぶ。
「浮き楔はここ。夜は一本だけ上手へ寄せて“腹”を回す」
俺は縄の張りを一つずつ撫で、結びの向きを外側に揃える。触って分かる硬さに落ち着くと、胸に余分な緊張が残らない。
「黒灯の覆いも回収した。粉の束はほぼ捌いた。残りは“狐印”の薄藍。——川で切る」とナディア。
セルジオから預かった回覧札に朱を打ち、段取りの欄に短く書く。
〈渡し=二→一→舟止め/堰守=浮き楔設置/衛兵=北土手・南土手・曲がり手〉
言葉を統一してから、俺は紙を畳んだ。
午後、薄雲が出た。川面の反射が柔らかくなる。音が拾いやすい。
ギルドへ戻ると、ミレイユが「鈴の図解」の新版を掲示台に貼ってくれた。
〈二=注意/一=止め/青は無し〉
「字が大きいほど夜は効くから」と彼女。
「ありがとう。渡しも揃いました」
「いい。——台所の薄いの、持ってきな。夜は冷える」
クロは鼻で小瓶を押し、「もつ」と短く言って布の袋に前足を差し入れる。持つつもりらしい。
「落とさないよ」
「おとさない」
夕方前、もう一度、南の土手で耳ならし。草の匂い、湿った土の気配。その上に、遠くの板を叩く空の音が薄く混じる。
「風、北から」サビーネが肩越しに空を見上げる。
俺は風の向きを指で示し、クロの耳の角度と合わせる。
「この向きなら、曲がりの外へ音が回りやすい。鈴は一息置いて“二→一”」
「了解」
日が底へ落ちると、川の色が鈍い鉄になる。渡し小屋の灯は布で半分ほど絞り、眩しさを抑える。衛兵二人は北土手と南土手、俺とサビーネは曲がり手。堰にはナディア。
浮き楔の紐が水を切る音が、夜の底で小さく鳴る。今夜の川は浅く速い。舟を早めに拾えるはずだ。
クロは俺の踵の影に座り、ひげを前へ。「くる」
息を吸って、短く吐く。夜の音に耳が馴染んでいく。草が擦れる音、虫が跳ねる音、遠くの戸板が閉まる音——その全部から、異物を探す。
やがて。鈍い、腹の音。一定の拍を外して、近づく。櫂で漕ぐ音ではない。押して流れに乗せる音。
サビーネが顎を引く。俺は渡しへ手信号。——二。
土手の向こうで鈴が二度、間を置いて短く鳴った。空気が引き締まる。続いて“一”。渡しの綱がゆっくり上がる。
曲がりの陰から、低い舟影。黒い布で覆い、舳先をわずかに持ち上げて腹で滑らせている。荷は軽いが、底板は厚い。
浮き楔の一本がかすかに鳴り、舟が進路をずらす。——止まるか? 舵を持っている。舵手が上手い。綱だけでは足りない。
俺は小声でサビーネ。
「腹の前、ひと筋だけ風を押す。舳先をわずかに返して、楔に触れさせる」
「やって」
手のひらを胸の前で返し、狭い角度で風を押し出す。川面の皮を、そっと一枚ずらすつもりで。
舟の舳先が、ほんの半歩だけ外に逃げ、浮き楔の頭をこつ、と撫でた。松脂が鳴る。——止まった。
北土手でランベルトの声。「止め」
渡しの“一”が短く、鋭く落ちる。綱が高く上がり、舟の腹が綱に触れて速度が抜けた。
舳先から二人。外套の影。片方が黒い布を剥ぎ、もう片方は舵を抱える。逃げる構え。
サビーネの矢が舳先の板にからりと音を立てて刺さり、男の足が止まる。俺は岸の杭に結んだ細鎖を水へ落とし、舳先と岸の間に“ひと巻き”。引くでも、縛るでもない。動きを半歩遅らせるだけの巻き。
「舟を上げろ」ランベルトが短槍の石突で内側へ道を作る。
男は舵を捨てた。櫂で叩くかと思ったが、叩かない。相手の目は、荷を見ていない。舳先の板の“空”を見ている。——底だ。
俺は舟の腹へ身を乗り出し、底板を叩く。鈍い。二重底の音。
「底を外す」
ナイフで縁を探り、隙間に薄布を噛ませて起こす。——底板の下に、円い筒が六。乾いた布巻き。昨夜の銅管より短いが、数が多い。粉ではない匂い。油と草と、少し酸い匂い。
「火ではない」サビーネが言う。「煙か、臭いで追い散らすやつ」
舳先の二人は動けない。渡しの綱と鎖の“ひと巻き”で足が遅い。衛兵が挟み、縄が回る。
そのとき、舟の尻にもう一人の影。川から上がってきたのか、濡れた外套。手に短い管を持ち、口に当てる——息。
クロのひげがぱち、と光った。空気がぴりと鳴る。
「だめ」
クロが飛ぶ。前足が管に触れた瞬間、乾いた火花が走り、金属がびり、と鳴って手から落ちた。男の肩が揺らぎ、覗き込んだ俺の手のひらがついでに痺れる。
「クロ」
「だいじょうぶ」——尻尾の先が小さく焦げている。小瓶の水を指先に落として撫でると、クロはふるふると首を振った。目はまだ鋭い。
管を拾い上げ、鼻で匂いを拾う。草を干し、油で閉じた気配。火が要らない“息吹”。撒けば人を散らす臭いが出るのだろう。街で使えば混乱は大きい。
「押収」
底板下の筒も布で包み、渡し小屋の台の上へ。セルジオの紙に“押収印”を走らせる。
舟の男たちは縛られ、荷はすべて上がった。浮き楔は二つ目が少し削れている。鳴らしきった証拠。
渡し守が俺の肩を軽く叩く。
「耳が生きてる。——青は使わずに済んだな」
「済みました」
関所へ戻る。セルジオは管を一本持ち上げ、布をほどかず重量だけ量る。
「粉の次は息吹。夜に混ぜれば、音が消える。よく止めた。——猫の稲妻は記録外でいい」
「はい」
クロは机の脚に頬をすり、尻尾で俺の指を叩く。「ねむい」
「少し寝よう」
ミレイユが台所から薄いのを持ってきた。湯気が喉を通る。
「鈴の紙、明日には“息吹管”も追記する。絵で見せる」
「お願いします」
セルジオが地図の“曲がり”へ朱で小さく点。「今夜の耳は良かった。明日は堰の下手まで伸ばす」
胸の奥の緊張が、ようやく一段落下りる。クロが俺の膝に丸くなり、鼻を前足にうずめた。ひげが少し焦げて、先がくるんと曲がっている。
「あとで整える」
「……うん」
外はもう深い夜だ。塔影を出ると、川の音が低く澄んでいる。浮き楔が時々、遠くでことんと鳴る。
黒灯は落ちた。息吹も押さえた。——まだ終わりではないけれど、街の夜は今、静かだ。
歩幅を合わせる。クロの足音が、靴音に小さく重なる。
鈴は鳴らない。いい合図だ。
◇
明け方。白樺亭の二階の窓を指一本だけ開けると、川の冷えがすっと入ってきた。クロは枕元で長いあくびをして、くるりと丸くなる前にひげを前足でぺし、と触る。昨夜の火花で曲がった先を気にしているらしい。
「あとで整えような」
「うん。ちょっと、くるん」
一階へ降りると、マルタが鍋を回しながら眉を上げた。
「昨夜は騒ぎにならなくて何より。猫さん、ひげの先……」
「少し焦げました」
「じゃ、あとでセレナのところ寄りな。香草の油を薄く塗ると戻りが早いよ」
粥はいつもより少し熱め。クロの皿は塩抜きで、端に小さな白身のほぐし身。尻尾がぴんと上がる。
ギルド。ミレイユが夜間書の束を指で揃え、要点を三行にまとめた紙を回す。
〈黒灯=覆い回収/息吹管=押収・未点火/浮き楔=鳴動良〉
「関所は“息吹管”を“臭走り”と記録したわ。昼に香司(こうし)の店で中身の当たりを取る。アキラ、立ち会える?」
「立ち会います。クロのひげも、そのあと医務で」
「了解」
香司の店は路地の奥、淡い香の層が重なっている。店主の老女は指先で管の重みを量り、耳元で小さく振っただけで中身の動きを当てた。
「乾いた草粉に油を少し。火を使わず鼻を刺す配合。夜会や賭場で“追い出し”に使うこともあるけれど……これは濃い。路に撒けば子どもが泣く」
「どの草です?」
「狐藍(こあい)を乾かして刻んだもの。薄藍を取ったあとの残りよ。色の名が“狐印”にかぶるのは、たぶん偶然じゃない」
老女は手元の帳面を指で叩く。「狐藍の大口は、この春から“北門三”の倉庫に流れてる。染め屋の分を越えてる量だわ」
昨夜の蝋板と符合する。脈が一つ繋がった。
医務室。セレナはクロを膝へ抱え、ひげの先に薄い油を指で撫でる。クロは真剣な顔でじっと我慢し、時々きゅっと目をつむる。
「偉いね。——はい、整った」
「くるん、なくなった?」
「少しだけ。触りすぎないこと」
俺の脇腹もきれいに洗い直され、薄布を一周。刺す痛みはほぼ引いていた。
「今夜も川?」
「うん。曲がりを少し下に延ばす。舟が“腹で滑る”道を潰すみたいに」
「じゃ、息を先に吐くのを忘れないこと。声は短くても、呼吸は長く」
鍛冶通りに寄ると、フーゴは昨夜の浮き楔の頭を手に取って眺めた。
「松脂がほどよく鳴ってる。——楔は一本、頭を替えておく。鳴り方が違うと舟の耳が引っかかる」
「替えの合図は?」
「頭に薄青の点。夜でも分かる」
フーゴはクロの頭を見つけると、口をきゅっと結び、指で額をちょん。「紐は?」
「かまない」
「いい。——お前さんの棒の握り、昨夜の湿りで少し緩んだ。午後に一度、布の巻き直しに来い」
昼。関所でセルジオ、ナディア、ランベルトと地図を囲む。渡し守も呼ばれている。昨夜の“腹止め”の再現を紙の上で確認し、今夜は浮き楔の位置を半身ぶん上手へずらす案で一致した。
「“狐藍”の管を舟ごと押さえられたのは大きい」とセルジオ。「今夜は空舟が来るかもしれん。空でも止める。同じ手順で」
ランベルトが隊の配分を短く切る。「北土手二、南土手二、曲がり手に弓と少年。——渡しは鈴を軽く。鳴らしすぎない」
ナディアが見印棒の印を一つ足し、朱で丸。「風が南に回ったら、楔はさらに半歩、外へ。合図は私から流す」
いちど解散。日暮れまで少し時間がある。クロと市場を歩き、薄い干し果実と新しい油紙を買う。角の果物屋のフィオナが瓶の口を拭きながら、クロのひげを見つけて目尻をさげた。
「整ってる。——夜の川は冷える。果実水は薄めにしておくね」
「助かります」
クロは瓶の口に鼻を寄せて「いいにおい」と小さく言い、尻尾をたてた。
ギルドに戻ると、掲示台の前で若い冒険者が二人、昨夜の紙を読んでいる。「鈴の二と一だけで止まるのか」と片方が言うので、俺は短く重ねた。
「止める前に“気づかせる”ほうが効く。楔の音と、少しの風。——刃を抜く前にできることがある」
首をかしげていた彼は、うなずいて紙を指で叩いた。「覚える」
夕方、南の土手。草は日の熱を少し残し、風は昨夜より乾いている。浮き楔の頭に薄青の点。触ると指に松脂がわずかに移る。
配置につく前、サビーネが俺の右手を見て言う。「風の線、昨夜より細く頼む。舟の腹だけ掠める程度で」
「やってみる」
クロは土手の端で耳を立て、ひげを前へ。「きく」
「頼りにしてる」
暗くなり、渡しの灯が布越しにわずか。土手の影は深く、音だけが近づき遠ざかる。虫が跳ね、遠くの戸板が閉まり、堰の見印がときどき、ことん、と鳴る。
最初の舟影は来なかった。代わりに、草むらの奥で小さな鈴の音。舟ではない。合図を真似た、短くて軽い音。サビーネが眉を寄せる。
「試すつもりだ」
ランベルトから手信号が回る。——鈴は渡しだけ。真似音には応じない。音の主を追わない。陸で騒げば、川の耳が濁る。
クロが低く喉を鳴らした。「ちいさい、におい。ひとり、くらい」
「見張りだね。……無視」
時がゆっくり過ぎる。やがて、上手の闇が厚くなったあたりで、昨夜より軽い腹の音。空舟の気配だ。渡しへ手信号——二。続けて一。綱が上がる。
舟影は小さい。舳先が少し跳ね、底が薄い。空でも速い。楔を刳(く)って抜けようとする癖がある。楔が一度、短く鳴り、舟は身をよじって外側へ。逃げ筋だ。
「もう半歩」
息を押し出す。風は一本の糸みたいに狭く、舟の腹の下、川面の皮だけを撫でる。——舳先が、ごくわずかに下を向く。外へ逃げる角度が自分で潰れ、楔の頭にからり、と触れる。
止まった。昨夜より軽い音。だが十分。土手の二人が挟み、舳先を岸へ引く。空舟だ。底板は一重、隠しはない。
舳先の男が口を開きかけ、閉じる。足取りが軽い。逃げを何度もやっている足。サビーネの矢が舟の縁にから、と鳴り、男は肩を落とした。
縄が回り、空舟は押収。渡し守が「よし」と短く言った。
次の一艘は来なかった。代わりに、曲がりの上で犬の吠え声。合図を紛らすつもりか、遠くで板を打つ連打。渡しの鈴は鳴らさない。浮き楔だけが夜の底で、ことん、と真面目に仕事をしていた。
巡回をひと区切りして関所。セルジオが短くまとめる。「空舟一、押収。偽鈴あり。——音の真似は明日通達する。鈴は渡しだけ、街では鳴らさない」
ミレイユの紙に新しい一行が増えるのが目に浮かぶ。
塔影を出ると、クロが欠伸をこらえながら俺の踵に鼻先を押しつけた。
「ねむい」
「もう少しで終わる。……ほら、ひげ、きれいだ」
クロは胸を張り、尻尾の先をくいっと上げた。「きれい」
土手の上を風が渡る。昨夜より乾いて、軽い。浮き楔が遠くで小さく鳴り、渡しの綱が静かにきしんだ。
街は眠れる。今夜はそれで十分だ。
俺たちはもう一度だけ曲がり手へ戻った。
◇
曲がり手へ戻るころ、空はもう紺の底だった。土手の草は夜露で冷たく、楔の頭に置いた薄青の点が、指先にちいさく移る。
「風は南、弱。——半歩外で鳴らす」
ナディアが棒の印を見て位置を一つずらす。クロは耳を前へ、ひげをまっすぐ。土手の端で、川の音を“聴く”顔になっていた。
やがて、上手の暗がりで水の皮がほどけた。舟腹が水をたたく音じゃない。丸太の束が擦れる、乾いた音。先触れだ。
「丸太筏(いかだ)」と渡し守がつぶやく。「楔の頭を潰しに来る」
矢筒の金具が、一度だけかすかに鳴る。サビーネは土手の斜面を三歩上がり、身を低くした。
「舟じゃないなら、鳴らさない。——渡し、綱はそのまま」
流れに乗って、丸太が二本、縄でゆるく結ばれて来た。先端に薄い鉄板。楔の頭を叩き割る気だ。
俺は息を先に吐き、ひらの風を一本、丸太の“腹”の下へ通す。水の皮だけを撫でる角度。丸太は自分で向きを変え、楔の頭からわずかに外れる。渡しの男がもつれた縄を竿で引き、土手の石の角へ誘う。
ことん。石と木の音。頭は生きたまま。
すかさず二の筏。今度は楔の外側をえぐる走り。サビーネの矢が縄の結び目へぱし、と通り、束がばらけた。水が吸い、丸太は失速する。クロが土手を二歩すべって前足で小石をちょい、と押し出し、丸太はその石にこりっと触れて岸へ寄った。耳まで使う猫は、夜の手伝いが上手い。
「本命、来る」
渡し守の声が低くなる。太い腹の音が、丸太のすぐあとに重なってきた。舟だ。昨夜の空舟じゃない。胴が重い。舳先の当て板に新しい傷が多い。押して通った癖がある。
ランベルトが手信号——二。続けて一。渡しの綱が僅かに上がる。
「楔、半身外!」ナディアが押し棒で印の位置を示す。浮き楔がわずかに息を呑むみたいに沈み、戻る。
舟は速い。腹を滑らせる道を知っている。舳先が外へ打ち、楔を避けて流木の筋を拾いに来る——そこへ、俺は風を細く細く絞って舟底だけを掠(かす)めた。舳先が自分で下を向く。逃げの角が死ぬ。
ことん。
今夜いちばん軽い音で、舟が止まった。
舳先の影が身を乗り出し、何かを投げる。黒い管。——息吹管。火は入っていない。けれど近くで弾ければ目と喉を刺す配合だ。
クロが先に跳んだ。前足で管の腹をはたき、湖面寸前で俺が風を“下向き”に返す。中身は水へ落ち、ぱふ、と鈍い泡。鼻先に来るはずの痛みは海藻の匂いに紛れて消えた。
「武器を置け」
サビーネの矢が舟の舷(ふなばた)にから、と鳴り、二本目が舳先の縁木に立つ。狙いは浅い。止めるための矢だ。
舟の中で一人が短剣を抜き、もう一人は櫂を構えた。踏み込みの足が、陸の喧嘩の足じゃない。水の上で生きてきた足だ。
俺は棒で短剣の手首を軽く払う。刃は板に落ち、クロが前足でとん、と押して遠ざける。櫂の男は、サビーネの矢が三本目を装いはじめたのを見て、肩を落とした。
縄を回すあいだ、上手の土手で小さな火が三つ、順に灯り、すぐ消えた。遠見の合図。——背後がいる。
ランベルトが土手の反対側へ短い手信号。衛兵のひと組が草を割って回る。
そのとき、土手の上で蹄の音が一度。闇が、二つだけ、軽く弾けた。
月のない夜でも、あの手の影は分かる。灰色の手袋に暗色の外套。〈灰指〉の上にいる、顔だけの連中だ。舟が止まれば切り捨て、動けば拾う。自分は濡れない位置にいる。
サビーネが弦を半引きのまま低く言う。「追う?」
迷いは一息。——追えば土手で刃が出る。舟と荷が先だ。
「舟を優先」
彼女は頷き、矢をわずかに下ろした。土手の影は二度、こちらを見るだけ見て、川沿いに消えた。
縄が締まり、舟は岸へつけられる。舳先の二人は腕を上げたまま、視線で互いに確認し、あきらめの息を吐いた。
荷は帆布に包んだ木箱が四。印はなく、釘は新しい。ひっくり返すと、底に焼き印が薄く残っていた——狐の尾。
「出どころを消したつもり」と渡し守。「でも、木は匂いを覚えてる」
フーゴが言っていた匂いの話を思い出す。松脂の節、乾きの早い年輪。狐藍の匂いがうっすら箱に染みている。
荷を担ぎ上げていると、草の中から金属の転がる音。小さな鈴。丸太筏にくくってあった“真似鈴”だ。クロが前足でとん、と押さえ、鼻先で注意深く匂いを確かめる。
「ちょっと、におい、ちがう」
土の匂いが強い。渡しの鈴は水と油の匂いがする。真似鈴は乾いた土と煙。鳴らして回った陸の人間の匂いだ。
ランベルトがそれを布でくるみ、「偽鈴」と紙片を挟む。明日の通達が増える。
関所へ戻る道すがら、サビーネがぽつりと言った。
「灰色の手袋、今夜は二。——次は土手じゃなく“橋の下”に来るかもしれない」
「橋脚に隠し桟橋?」
「あり得る。堰の上の合図を潰しても、下で渡せるから」
ナディアが見印棒の端をとん、と指で叩く。「明日は橋の巡りを足す。……今夜はここまで」
塔影。セルジオは蝋板と偽鈴の包みを受け取り、帳面の端に“橋下・点検”と朱で書いた。
「舟は二。丸太筏は三。楔は無傷。——今夜は、いい夜だ」
ランベルトが短く頷く。「偽鈴は街の掲示に回す。『鈴は渡しだけ』をもう一度、太く」
解散の足で白樺亭へ向かう。クロは途中で草むらに顔をつっこみ、何かを前足でちょいちょいした。出てきたのは、小さなカエル。
「ともだち?」
「ぴょん」
カエルはすぐ水溜りに戻っていき、クロは尻尾をゆっくり振って見送った。土手の緊張が少しほぐれる。
白樺亭。マルタが鍋を回し、リナが椀を並べる。
「川は静かにできた?」
「今夜は。——明日は橋を見ます」
「じゃ、よく眠ること。猫さん、ひげ、きれい」
クロは誇らしげに胸を張って「きれい」と復唱し、塩抜きの粥を舌で掬った。尻尾が、いつもより二回多く、左右に揺れた。
部屋に戻って棒の布をほどき、握りを巻き直す。湿りが抜け、手に吸い付く。クロはその布の端を両前足で押さえ、ふみふみしてから丸くなる。
「きょう、がんばった」
「うん。——明日は橋。鼻と耳、貸してくれ」
「かす」
短いやり取りで眠気が落ちてくる。窓を指一本だけ開け、川の気配を確かめる。夜はもう静かだ。
灯りを落とした。
浮き楔は水の底で、きっとまだ真面目に鳴っている。
明日は橋脚。隠し桟橋を潰す番だ。
◇
夜明け前、白樺亭の台所はまだ静かで、湯気だけが灯の代わりをしていた。マルタが指で口に一本、リナが木椀を置く。
「喉を起こしてから、行ってらっしゃい」
「いただきます」
クロは椅子の上で前足をそろえ、湯気に鼻先を近づけてから小さくくしゃみをした。湯気の玉がひげに一滴だけ残る。舌で丁寧にぬぐって、満足そうに目を細めた。
橋脚の点検は関所発。塔影の下でセルジオが短く段取りを切る。
「川橋二本——上流の楡(にれ)橋と下流の柳(やなぎ)橋。昨日の偽鈴は通達済み。今日は“吊り金具と波返し”を見る。——顔ぶれは、渡し・弓・衛兵二、組合一、少年と猫」
肩越しにランベルト、ナディア、サビーネ。いつもの面々がうなずく。
まず楡橋。朝の光が石の腹だけを薄く照らす。石積みの目地には夜の冷えがまだ残っていて、指先に水の味がする。
橋の下へ降りる斜面は苔が柔らかい。クロが先に行って、足場になる石を一つずつ軽く叩く。とん、とん。危ない石は音が鈍い。彼はそこを避けて歩く。尾が旗みたいに立って、こちらに弧を描く。「ここ、だめ」「ありがとう」
橋脚の腹、二段目の石に新しい色の“目”。丸い穴だ。鉄の環をねじ込み、後から灰色の金属で縁を埋めてある。
ナディアが小刀の背で軽く叩く。「鉛押し。最近だ」
ランベルトが眉をひそめる。「夜に舟を繋いだな。——外す」
楔(くさび)と両口の楔抜き。打つ心配はない。橋は人のものだ。石面を傷めず、鉛だけを起こしていく。
俺は息を短く吐き、指先に風を細く集めて埃を払った。鉛が浮いてくると、ナディアが薄いへらで一枚ずつ起こし、サビーネが布で受ける。
中から出てきたのは、小さな革片。狐の尾の焼き印。
「やはり“あそこ”だ」とランベルト。狐印の倉庫。昨夜の箱とつながる。
橋の腹は、音も隠していた。小さな刻みが石面にあり、すべりどめの線に見せかけて“鳴きを殺す符丁”が刻まれている。
サビーネが目だけで合図し、俺はその刻みの上を指で撫でた。石の肌を温めるみたいに。風をほんのわずか、線の向きを逆へ細く通す。
たったそれだけで、橋の腹が一度だけ、ほんの小さく鳴った。
「隠してあった音が戻る」とナディア。「これで渡し小屋からも聴こえる」
さらに一本、石の目地に黒い筋。松脂と油の混合。滑り台の跡。丸太を橋脚に沿って下ろすために塗ってある。
「拭う」
クロがぴょんと飛び上がり、前足の肉球で板切れを押さえる。俺が布を巻いて拭くと、猫は鼻先で作業の速度を合わせてくれる。布端が彼のひげにふれるたび、ひげがくすぐったそうに揺れて、尻尾が一回だけぴんと立つ。
「きれい」
「きれいだね」
楡橋で三つ。吊り金具、鳴き殺し、滑り筋。すべて押収か是正。
橋の上から、パン屋の若夫婦がのぞいて手を振った。「朝からわいわい、頼もしいね」
クロは胸を張って「にゃ」と短く返事した。見物の子が笑う。足もとの空気が軽くなる。
下流の柳橋は、形が違う。石の腹が低く、水の走りが早い。ここで舟を停めたら、すぐ岸に吸われる。——それでもやる連中だ。
橋脚の影に、人の匂い。煙草と油。
ランベルトが手をひと振り。衛兵の一人が土手の上から回り、反対側の影を押さえる。
足音を殺して近づくと、裏の低い棚に誰かがしゃがんでいた。黒い外套。両手に小さな“墨球”(ぼくきゅう)を二つ。落とせば水面で弾け、夜なら十分に騒ぎになる。
サビーネの矢が棚板にすっと入って前髪をさらい、外套の男は固まった。
「投げないで」
俺が声を落とすと、男は歯を噛んだまま首だけこちらに向けた。右の耳に銀の小環。〈灰指〉より上の“渡り”。身のこなしが陸の窃盗ではない。水の人間だ。
「手を見せて」
男はためらい、けれど指先をゆっくり上げる。墨球は棚に置かせた。クロが前足でその球の前にすっと入り、ちょんちょん、と二度だけ触る。爪は出さない。球が転がらないように“押さえる”指。
「すごい相棒だ」とランベルト。棒の先で墨球を受け取り、布に包んで遠ざける。
問いは短く、答えも短い。「誰に合図を」「狐」「橋下で受け渡し」「いつ」「夜四」「符号は」「鈴一本、灯ひとつ」
夜四。今夜だ。偽鈴と黒灯の合わせ技。
サビーネが眉を寄せる。「黒灯は落とした。鈴は本物だけ鳴らす。残る道は——橋の腹の影」
「先に奪って、先に鳴らす」
ランベルトの口元がわずかに上がる。「衛兵にこう言えっていう顔だな、アキラ」
「はい。渡しと衛兵で“先出し”を一本。偽鈴は押収済みだと知らせるだけで、動きがずれる」
外套の男は、黙った。逃げる気はない。水の人間は縄を嫌わない。むしろ、陸で刃を向けられるほうを嫌がる。
「連れていく」
衛兵が両脇をとり、男は肩から力を抜いた。クロが外套の裾をそっとくん、と嗅いで、「ちょっと、あぶら」と報告する。川油。舟底の匂いだ。
柳橋の腹にも“鳴き殺し”の刻みがあった。黒墨で薄くなぞられて、遠目には影に紛れる。
俺は指の腹でそこを温め、風の向きを変える。石が小さく鳴いて、橋は“生身”に戻った。渡し小屋まで細い響きが届く。
ナディアが見印棒の端でぽん、と脚を叩く。「これで綱の騎手が気づける」
仕事が一段落すると、クロが橋の影の水滴を見つけ、前足でぽたり、ぽたりと落ちる雫を捕まえようとする。足先に冷たい水が触れるたび、耳がぴくぴく動く。
「遊ぶのはそこで」とサビーネ。
クロは振り向いて、胸を張り、ころんと転がってみせた。尻尾が橋の石に当たって“こつ”。彼自身が小さな合図になって、みんなの息がほどける。
昼前に関所へ戻る。セルジオは鉛押しの環、墨球、革片を受け取って帳面を叩いた。
「橋——吊り金具二、鳴き殺し二、滑り筋一。今夜四つ目の“先出し”で動きをずらす。『鈴は渡しのみ』の掲示はさらに大きく。——少年、猫、よくやった」
ランベルトが「夜四は俺が立つ」と言い、渡し守が「綱を二本張る」と重ねる。
ナディアは鍵束を持ち直し、「堰の見印、昼のうちにもう一度読む」と去っていく。
それぞれの場所で、続きが動きはじめた。
午後は短い休み。白樺亭で粥を半椀。クロは塩抜きの分を上手に舌で掬い、食べ終わると椅子の背に両前足をかけて外をのぞく。通りを行く荷車、埃の立ち方、今日の風。彼なりの“見張り”だ。
鍛冶通りに寄れば、フーゴが留め具用の小さな楔を三つ渡してくれる。
「橋の石に優しいやつ。爪でめくれる鉛は、こういう楔でいけ」
「ありがとう」
クロは布袋を頭で小突いて「ぼく、はこぶ」と申し出る。紐を首にかけるみたいに袋の取っ手を通してやると、彼は自慢げに一歩ずつ運んだ。耳が誇らしげに前を向く。
夕方、塔影で最終確認。偽鈴の通達はもう広場の掲示に張られている。《鈴=渡し/偽は鳴らさず》——太字。
ランベルトが列の先に立って、短くまとめる。「夜四、先出し一本。橋腹の影にもう一人置く。舟が来れば止める。来なければ、来ないことを紙にする」
紙にする。ここでは、それがいちばん強い武器だ。
夜四。川は昼よりも静かで、音の細い場所がよく見える。渡しの鈴が一度だけ鳴り、すぐに止む。先出しだ。
橋腹の影にはサビーネ。土手の陰に俺とクロ。渡しの綱は二本張られ、楔の息は軽い。
やがて、上手に小さく白い泡。舟の腹が水をいじめる音。——近い。
けれど鈴は鳴らない。渡しの分だけが鳴った。偽鈴は、もう鳴らせない。
舟の腹が、迷ったみたいに一度ゆるみ、遠回りして戻ろうとする。土手の暗がりのどこかで小さな舌打ち。
サビーネの矢が、闇に一本、音だけ置いた。狙いはしない、止める音。返事はない。舟は遠くで方向を変え、そのまま夜の川に紛れた。
終わりの合図は短く、気配は早く抜けた。
橋脚は静かになり、楔の息だけが水底で確かに続く。
ランベルトが肩を回し、「紙にする」ともう一度言って笑った。
セルジオは帳面に一行足して、朱を打つ。「夜四、動きなし。先出し有効」
帰り道、クロが水面に映る月のかけらを追って前足でちょい、ちょい。波紋が広がるたび、尻尾が面白そうにゆれる。
「今日は、よく働いた」
「はたらいた」
短い答えが、川の音に混じって遠くへ転がっていく。
白樺亭に灯りがともる。マルタが大鍋をかき回し、リナが椀を温める。
「橋は静かにできた?」
「今夜は静かでした。——明日は堰と橋の合わせ、もう一度」
「じゃ、粥は少し多めに。猫さんは塩なし」
「のむ」
クロは椀の縁にひげを当てないように器用に飲み、飲み終わると前足でひげをそっと揃えた。見ていた子が真似をして笑い、店の空気がやさしく回る。
部屋に戻る。棒の革巻きを乾かし、爪先で糸の端を整える。クロは足の裏を一枚一枚きれいにしてから、俺の枕の横で丸くなる。左前足の黒い点が、腕に軽く触れた。
「アキラ、あしたも、きく?」
「聴く。川の腹と、橋の声」
「ぼく、みる」
「頼む」
灯りを落とす。
川は今夜、黙ってくれた。鈴は本物だけが鳴った。
狐の尾を持つ箱は、きっと明日もどこかに隠れようとする。隠れれば、また音が生まれる。
その音を拾う耳と、風を送る手と、ひげの付いた相棒がいれば、まだ間に合う。そう思って、目を閉じた。
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