第27話 「橋の影」

 夜明け前の川は、灰色の板のように静かだった。観音橋は細い弓を張ったみたいに反っていて、欄干は腰より少し低い。詰所の窓から見ると、橋の中ほどにだけ朝靄がかかっている。人の影はない。


 集合は刻ひとつ前。ハーゲンが短く段取りを切る。

「橋上は衛兵二。俺たちは四隅の陰。弓は下手の茂み、写しは詰所。合図は笛じゃない、手。渡りの止めは衛兵が言う。——走らない」


 ランベルトが頷き、橋の石目を指で撫でる。

「昨夜の札は人目を引いた。今朝は“合図の偽り”を口でも流す。骨輪の音がしたら、俺らに伝えろだけでいい」


 ミーナは布包みを開いて、粉の袋を三つ置いた。白粉は紙用、黒粉は跡見用、赤粉は染め用。

「渡りの頭と尻にうすく赤を撒く。踏めば靴の縁が染まる。夜に見ても分かる」

「俺は欄干の内側に黒を一本」サビーネが弦を指で起こし、位置を確かめる。「踏み越えの高さが見える」


 イリアは薄紙の地図に今朝の流れを描き、欄外に小さくメモを添える。

〈橋面—右側わずか高/下手の渦、小〉


 クロは欄干の脚を一つずつ嗅いで回り、戻ってくると俺の足首に鼻先を当てた。

「におい、かわった」

「昨夜の油だな。欄干の上に薄く塗ってある」

 ミーナが布で軽く拭き、赤粉を指で押さえた。すぐに色がなじみ、光が消える。


 準備を終えたら、あとは待つだけだ。橋の影は思ったよりも深く、川風が肌を冷やした。俺は息を細く吐いて、手袋の縫い目を一度確かめる。クロは詰所の椅子に丸まり、耳だけこちらへ向けている。目は閉じているのに、足音が変わると尻尾がぴくりと動いた。


 最初の通行は粉屋の車。衛兵が歩きで通す。骨輪の音はしない。次は旅人二、荷は軽い。札を見て頷き、歩く。

 時刻がひとつ進むころ、対岸へ渡った魚売りが戻ってきた。籠の底の氷がちりちり鳴る。渡りの真ん中で足を止めそうになったので、ランベルトが短く声を投げた。

「歩きで通せ」

 魚売りは息を吐き直し、そのまま渡り切った。


 昼前、風向きが替わる。上手から下手へ冷たい筋が一本走った。サビーネが矢羽をつまんで角度を変える。

「下手側の陰が重くなる。そこで動くなら、今夜だ」

 ハーゲンが欄干の影を目で追い、橋の足元に視線を落とした。

「支えの石の口の色が薄い。午后に一度、石工を呼ぶ。今日は触らない」


 関所から使いが来て、小さな紙を渡していく。セルジオの字だ。

〈骨輪の写し—五/合図表—橋詰掲示/“欠け輪”の女は黒布〉

 イリアが紙を地図の裏に貼り、黒布の横に小さな×を打った。



 夕刻。市場のざわめきが落ちて、橋筋に人の影が少なくなる。灯りはまだ入らない。空だけが青く明るく、川は鉛色。

 衛兵は交代で温い茶をひと口ずつ。俺たちは位置を動かさない。クロは眠たげに目を細め、時々、鼻をひくつかせている。


 最初の違和感は靴音だった。重さがないのに一定。歩幅の詰め方を知らない足だ。

 欄干の外から、背丈の近い影が三つ。橋の頭で一瞬止まり、掲示を読むふりをした。肩の揺れは、読む動きじゃない。合図を待っている。

 ハーゲンの指が一度だけ下へ。まだ、の印。


 影の後ろから、黒い布を被った女が一人。歩きながら指先で何かを揉む。骨輪だ。

 女は橋の中央で足を寄せ、骨輪に爪を立てた。チ。乾いた細い音が橋面に落ちる。

 同時に、欄干の陰から別の影が二つ、低い姿勢で滑り込む。橋の下手、支え石の口に近い。目的はそこ。


 ランベルトが一歩踏み出す。

「止まれ」

 女は顔を上げ、笑わずに輪をもう一度鳴らそうとした。指が動く。

 俺はその指の前に、粉を一すじ落とす。ほとんど見えないほどの薄い風。輪の穴に米粒ほどの埃が入るだけで、音はわずかにずれる。チがツに変わった。

 女の眉がぴくりと跳ねる。その半拍で、サビーネの矢が橋面にトンと落ち、女の足先の前で止まった。

 女は輪を握りしめ、後ろへ跳ぶ。逃げ道は、下手の影に走るやつらと重なる。狙いは同じ——支え石の口。


 クロが肩から滑り降り、欄干の下の木桟を駆ける。小さな影が二つ、欄干の影から飛び出す前に、クロが前足で赤粉を叩いた。靴の縁が赤を帯び、走りの軌跡が橋上にくっきり残る。

「見えた」ミーナが短く言い、追うより先に石の口へ回り込む。

 俺は橋の中央を横切る女の前へ出て、声だけ置いた。

「輪を捨てろ。捨てなければ、渡らせない」

 女は笑っていないのに、目だけが愉しそうだ。輪を持つ手をわずかに下げ、もう片方の手で腰の下から短い刃を抜く。刃は黒い。油を吸っている。


 ハーゲンが一歩だけ近づき、肩を女の外側に置く。刃を見ないまま、足を止める位置を決めている。

 俺は刃の届く範囲に入らず、空いた手で欄干のほこりを軽く払って、女の視線を半歩だけずらす。

 次の瞬間、橋の下手が小さく鳴った。コツ。支え石の口に小楔。

 ミーナが即座にそこへ赤粉を厚めに落とす。

 赤が広がり、楔の輪郭が出た。

 サビーネの矢が楔の上にコと刺さり、楔が石口の外へ弾かれる。

 女が顔色を変えた。その動きで刃の流れが荒くなる。

 ハーゲンの短棒が女の手首を軽く打つ。手の中で刃が回り、女は握り直す。離さない。

 その一瞬、足が橋面の赤粉を踏む。靴の縁に赤。逃げても目印は消えない。


 女は橋の外へ跳ぼうとした。欄干は低い。

 俺はその風のわずかな流れを女の足首に合わせて横へ滑らせる。大きくはない。着地の角度が半幅ずれるくらい。

 女は欄干に足をかけ損ね、内側に着地した。転ばない。すぐ立つ。走る。

「渡らせない」ランベルトの声と同時に、衛兵の一人が路面に棒を横に置いて壁を作る。

 女は刃で棒を払う。割れない。無理に乗り越えようとしたところへ、サビーネの二本目が足の前にトン。止まる。

 ミーナが回り込み、女の背へ回してあった細紐を一回し。結びは浅く、逃げられる距離で止める。

「輪」

 女は顔だけで笑って、輪を橋面へ落とした。足で踏むつもり——だったが、その輪は赤粉の上を転がり、すぐに染まった。

 イリアが詰所から駆けてきて、染まった輪を布で包む。

「押収」


 欄干の陰から走った二人は、赤い靴跡を残したまま下手へ逃げていく。追えば落とし穴だ。追わない。

 ランベルトが短く合図し、対岸の衛兵が先回りで道を細くする。逃げ道は細いほうが足が詰まる。

 クロが欄干の脚に片足ずつ“とん、とん”とのって、こちらを見る。

「いく?」

「いかない。足跡が残った。関所が拾う」

「わかった」

 クロは胸を張り、欄干から詰所の窓へひらりと戻ってきた。尻尾が弧を描く。


 女は刃を下ろし、輪の入っていた袋を自分で肩から外した。

「隊長に伝えなよ。——橋は、もう一度見ることになる」

 ハーゲンは相手の目を見たまま、頷きもしない。

「伝える相手は詰所だ。歩け」

 女は押されも引かれもしない足で、詰所へ入った。顔の強さは変わらない。輪を奪い返す気配は、もうない。


 静けさが戻る。川は相変わらず低い音で流れている。赤粉は、踏まれたところだけが濃いまま残った。夜も消えにくい。

 イリアが薄紙に一息で落とす。

「『橋上・骨輪一押収/楔一排除/黒布女拘束。逃走二、赤足跡残。損傷なし』」

 ハーゲンが短く息を吐き、欄干の上の油の残りを布で拭った。

「ここまで。——夜の札を一枚足す。“赤の足跡は詰所へ”」


 関所へ渡す前に、角の果物屋へ寄って小瓶を受け取る。フィオナは俺たちの足元を見て、目を細めた。

「赤、うまく付けたね。夜でも見える色にしたよ」

「助かります」

 クロは瓶の口をくんくん嗅いで、鼻をぴくりとさせた。

「すこし、すっぱい」

「ちょっとだけ飲もうな」

「ちょっとだけ」


 関所アルダ。セルジオは、受け取った輪を光の下で眺め、軽く振って音を確かめた。

「穴が一つ、微妙に違う。——細工は明日、鍛冶に回す。赤粉の足跡は今夜、門の外で拾う。橋は維持できた。よくやった」

 ハーゲンが頷き、女の身柄を詰所へ引き渡す。

 セルジオは帳面に線を引き、言葉を一つだけ付け足した。

「“合図の偽り、赤で破る”」


 白樺亭に戻ったころ、夜は街の屋根に降りていた。

 マルタが鍋を回し、リナが木椀を並べる。

「顔が冴えてる。猫さんは塩抜き」

「のむ」

 クロはほんの少し飲んで、椅子の背にあごを乗せた。瞼が重くなる。

「ねむい」

「眠っていい。今夜はもう終わりだ」


 食後、セレナが指先を見て薄く薬を塗る。

「小さな粉擦れ。明日には引く。——橋の石は触らなかった?」

「楔だけ。石は明日、石工に見せます」

「そのほうがいい」


 部屋で道具を拭き、赤粉の袋を半分にして補充の紙に包む。薄紙に一行。

 ——“観音橋:輪の音ずらし/楔排除/黒布拘束”。

 紙を重ね、灯りを落とした。

 クロが胸の上に丸くなり、前足の黒い点を俺の腕にそっと当てる。

「アキラ。あしたも、はし?」

「朝は詰所、昼は橋。夜は——赤を拾いに門外だ」

「いく」

「一緒に」


 川は遠くで小さく光り、街の屋根は静かだった。

 明日は夜の足跡が、道を示す。



 夜。門外の道はしっとり湿って、赤い靴跡だけがはっきり残っていた。衛兵が列を止め、俺たちに道を空ける。


 ランベルトが火の落ちた松明で地面を指す。

「こっから北筋へ抜けてる。追いつくのは関所の役目だ。君らは拾って写せ」


 ミーナが腰袋から薄板を取り出し、赤い線の幅を測りながら進む。

「足幅、三つ。歩幅は急ぎ。——二人とも右足の外側が減ってる」

 イリアは暗がりでも見える墨で、薄紙に点を置く。点が線になり、矢印になった。


 クロは地面すれすれに鼻を近づけ、時々こちらを見る。

「におい、からい。しらない油」

「欄干のやつだな。混ぜ物の匂いがする」


 川沿いを抜けると、舟底をひっくり返したみたいな小屋がある。夜は灯りが少ないはずなのに、隙間から細い線が漏れていた。人の声が風に切れて届く。

 サビーネが低く囁く。

「見張りは外に一。足を引きずる癖あり。中は三以上」


 ハーゲンが視線で割り振る。俺とミーナは裏手、サビーネは斜面上、イリアは少し離れた石の影。クロは俺の肩から降り、草の上で体を低くする。尻尾だけが小さく動いた。


 小屋の裏に回ると、車輪の跡。そこだけ土が固く、油のしみが丸く残っている。荷車だ。軸に指を当てると、まだ温い。

「さっきまで動いてた」

「印、つける」ミーナが顎で合図する。


 俺は棒の先に紙用の白粉を少しだけ付け、車軸の内側へ擦る。見た目は土。夜明けの光で薄く浮く。追跡できる。

 そのとき、裏戸が少し開いた。骨輪の音がかすかに鳴る——チ。

 俺は息を止め、棒を下へ。ミーナの肩に触れて合図。動かない。

 裏戸から出てきたのは、昼間に見逃した片方の男。靴の縁は赤いまま。手に細い包み。もう一人が中で笑う。

「足に赤? 橋で何を踏んだ」

「見えねえよ、夜だ。急げ」


 裏戸が閉まる刹那、俺は指先で地面の石を軽く弾いた。コ。男が足元へ目を落とす。その半拍で、ミーナが包みの端に薄紙を一枚重ねる。指に触れない。薄紙は汗に貼り付く。印だ。

 男は気づかず、包みを懐に戻して歩き出した。足音が小屋の前へ回り、骨輪の音がもう一度。チ。


 前側でサビーネが短く口笛。合図は「数を見た」。

 俺たちは位置を保ったまま、音を数える。骨輪が三つ、格子に触れる音が一つ、包みの革が擦れる音が一つ。合わせて五。見張りを入れて六。


 ハーゲンが斜面の上から合図を返す。仕掛けは明日。今夜は写して戻す。

 扉の隙間から細い粉の匂いが漏れてきた。白粉じゃない。甘くない。鼻の奥に残る乾いた匂い。

 ミーナが小声で言う。

「黒砂の焼き粉。火で膨らむやつ」

「橋の石口で使われたら面倒だ」

 サビーネが斜面で身じろぎもせず、弦に指を添え続ける。


 小屋の中で骨輪が三度鳴り、声が低くまとまった。

「明けの交代で橋の下。楔は二。輪は三。女は戻らない」

 足音が散る。裏戸へ二、表へ二。荷車の影に一。残り一は中。


 ハーゲンが短く眉を上下させ、撤収の合図。追うのは関所の隊に任せる。俺たちは“どこへ何が向かったか”を確実に持ち帰るのが仕事だ。

 クロが草を踏まずに近寄り、俺の靴紐を鼻でつついて「いこう」の合図。

「よし。歩く」


 門へ戻る途中、赤い靴跡が川の浅瀬で切れた。だが車輪の薄い白は、橋へ向かってまっすぐ伸びている。

 イリアが薄紙に太字で追記した。

〈車軸:白粉印→橋方向/裏小屋:骨輪・黒砂・人数六〉



 関所アルダは眠らない。塔影の下、セルジオが帳面を開いたまま待っていた。

「顔が泥だ。早いな」

 ハーゲンが簡潔に報告し、イリアが薄紙を渡す。

 セルジオは指で要点を叩く。

「裏小屋は川沿い、舟底屋根。合図は骨輪、六。黒砂の焼き粉。——明けに橋下で楔二、輪三の計画。女は戻らず」

「車軸へ白印。荷車は橋へ」

「よし」


 セルジオは脇の棚から封蝋の箱を出した。蓋の裏に小さく刻印。

「石工へ一、鍛冶へ一、衛兵へ二。——橋の下手に網。楔は刺さる前に浮かせる。輪は押収ではなく破壊。骨を切るために鋼線を持たせる」

 ハーゲンが頷く。

「橋上は俺たち。下は衛兵と石工」

「そうだ。合図は手でいけ。音は使うな」


 詰所の奥からゲルハルトがあくびを噛み殺して出てきた。石工の男だ。

「呼ばれた。朝一で橋の腹に入る。——楔はどの口を狙ってる」

「下手二ツ目と三ツ目。口の縁が浅い」

「了解。石噛ませておく」

 彼は木槌と短い楔を革袋に落とし、俺に肩で合図した。

「少年、朝にもう一度、匂いを教えてくれ。油の混ぜ物の種類で手が変わる」

「はい」


 撤収。白樺亭へ戻る道すがら、クロが欠伸をして俺の肩によじ登った。前足で俺の耳をやさしく押して、顔を埋める。

「ねむい。あったかい」

「もうすぐ着く。——よく嗅いでくれた」

 クロは尻尾の先だけぴょこっと動かして「えっへん」の形にする。


 宿の灯りは低く、湯気が静かに立っていた。マルタが椀を差し出す。

「夜食を少し。猫さんは水だけね」

「のむ」

 クロは短い舌で水面をとん、とん、と叩くように飲んだ。椀の縁に顎を置いたまま、目がとろんとする。

 俺たちは短く腹を満たし、交代で湯に指先を温める。セレナはいないが、教えは覚えている。温めてから寝る。


 部屋に入ると、クロが布団の端を前足でぎゅっぎゅっと押し、丸くなる場所を作った。

「ここ」

「そこは俺の足元だ。——いいよ、そこにいな」

 丸くなったクロの背に布を半分だけ掛けると、喉の奥で小さく鳴った。満足の音。

 俺は薄紙の端に一行だけ加える。

〈明け—橋下手網/楔二・輪三/破壊優先〉

 灯りを落とす。眠りは浅いが、体は休む。明け方の鐘を待つ。



 薄明かり。空は白く、川の色が戻る前。観音橋は息を潜めたまま、こちらを待っていた。

 詰所前で各組が合流する。衛兵二組、石工一組。ランベルト、ゲルハルト、ハーゲン、サビーネ、ミーナ、イリア、俺、クロ。

 セルジオが短く。

「橋上の掲示はそのまま。——輪は鳴る前に切れ。楔は刺さる前に浮かせ。落ちたら拾うな、網に任せろ」


 下手の草むらに薄い霧。川面は静か。足音が近くなる。荷車が一台、橋の手前で止まった。昨日の車輪だ。軸の内側に白が、朝の光で細く浮く。

 裏小屋で見た男が二、いる。右足の外側が減った靴。

 橋の真ん中まで渡ったところで、ひとりが欄干の外へ身を伸ばす。

 その瞬間、ゲルハルトが木槌を二度、決めた場所へ軽く打った。口の縁が締まり、楔が入りづらくなる。

 男が苛立って骨輪を持ち上げた。チ。

 サビーネの矢が男の手首の先、輪の穴を通して地面にトン。輪の縁が鋼線で裂ける。音は途切れた。

 橋下の網が、落ちた欠片を受ける音を小さく鳴らす。ぽちゃん。

 ミーナが欄干の内側から手を伸ばし、楔の頭に赤粉をひと撫でする。目印。

 俺は風を薄く流し、楔の重心を半歩だけ外へ寄せた。ゲルハルトの槌が二度。楔が抜け、網へ落ちる。

 もう一人が焦って男の腕を引く。荷車は動かない。衛兵が前に出て、短く。

「道具を置け」

 抵抗は短い。刃は抜かれず、二人は両手を上げた。背中に緊張が残るが、目は折れている。


 橋上は静かに片づいていく。裂かれた輪、落ちた楔はすべて網の袋へ。ゲルハルトが口の縁を指で撫で、石粉を少し押し込む。

「今は持つ。夕方にもう一度、座を固める」

 ランベルトが掲示に一行を付け足す。

〈今朝:橋下作業あり/立ち止まらない〉


 クロが欄干の脚に前足を置き、下を覗き込んだ。水の色が明るい。

「おちたの、ひろえた?」

「網の袋に入った。あとで数える」

 クロは満足そうに瞬きをして、胸を張った。尻尾がぴんと立つ。


 関所へ戻ると、セルジオは落ちた輪と楔を並べ、紙に写していく。

「輪三、楔二、押収。橋、損傷なし。——“赤は足跡、白は車輪、風は手助け”。いい連携だ」

 ハーゲンは短く息を吐き、肩の力を抜いた。

「昼は石工の座固め。夜は裏小屋に再び札。——終わりじゃないな」

「終わらないうちに、ひとつずつ潰す」セルジオは輪の割れ目を指で示す。「細工は同じ手だ。まだ近くにいる」


 俺は薄紙に今日のまとめを一行。

〈観音橋:輪三破・楔二回収/裏小屋の線、関所へ〉

 クロが俺の膝に前足をかけ、目を細める。

「アキラ。ごほうび?」

「果実水をひと口」

「やった」

 肩に飛び乗ったクロの足音が、軽く弾んだ。鈴は鳴らない。いい兆しだ。



 昼。観音橋の下手で、石工のゲルハルトが口の縁に座石をかませていく。木槌の音が水面で丸くほどけ、戻ってこない。欄干の影でランベルトが往来をさばき、掲示は一行だけ増えた──〈橋下作業中/立ち止まらない〉。


 俺は粉の匂いをもう一度確かめるため、欄干脚の継ぎ目に鼻を寄せる。甘さはない。代わりに、焦げの手前の乾いた匂いが細く残っている。

「さっきの小屋と同じだ」

「焼き粉だな」ゲルハルトが短く返す。「火を嫌がる石がある。今のうちに座を締めたのは正解だ」


 クロが欄干に前足をのせ、身をぐっと伸ばして下をのぞく。水鳥が一羽、網の上をかすめて飛んでいった。

「おみず、きれい」

「今はね。汚される前に、終わらせよう」


 関所に戻ると、セルジオが地図に印を落とし、詰所の机を拳で軽く叩いた。

「夕方、裏小屋を抜く。橋下の仕掛けは片づいた。残りは倉。逃げ道は川。舟だ。……声の合図は使わない。灯りも最小で行く」

 衛兵二、石工一(道具持ち)、俺たち四。合図は手だけ。

 イリアが薄紙の隅に〈舟〉の印を描き、矢印を二本、上流と下流に振り分ける。

「下流に網、小舟で待機一。上流は土手の草むらから見張り」

「渡し守も巻き込む?」とサビーネ。

「一人借りる。川筋の耳は、しみったれの金より役に立つ」


 出る前、鍛冶通りへ寄り道。フーゴの店で細線の切り具と、火花を散らしにくい布手袋を受け取る。

「革は重い。布は軽いが熱に弱い。迷ったら外すのが正解だ」

「了解」

 クロが店先の木箱に前足をそろえて座り、尻尾で自分の鼻をくすぐる。フーゴは笑って頭をこつん。

「相棒も装備いらずでいいな」

「ふわふわ、つよい」クロは得意げだ。



 夕方。裏小屋の手前で全員が散る。俺とミーナは裏戸の陰、サビーネは斜面、ハーゲンは表へ回る衛兵と並ぶ。イリアは少し離れて控え、合図の伝達役だ。

 小屋の中は薄暗いが、人の気配がはっきりある。骨輪の音はしない。代わりに、布ずれの音が続く。包みを増やしている。


 裏戸が開いた。男が二人、包みを持って川へ出る。舟は筏に近い粗末な作り。杭に麻縄一本で繋いである。

 ミーナが口の形だけで「縄」と言い、指二本で輪の位置を示す。俺はうなずき、棒の先で水面すれすれに風を送る。水が一瞬だけ逆らって、舟の頭が杭から離れる。縄に緩みが生まれた。

 ミーナの指が細線切り具をそっと滑らせる。ち、と麻の繊維がほどけ、縄は表向きには“自分で切れた”ように見える。舟は岸を離れずに、その場でくるりと回った。

 男たちが焦って身を乗り出す。そこへサビーネの矢がドンと舟板の鼻先に落ちる。水しぶき。視線が一瞬だけ上に向く。

 ハーゲンが表から回り込む足音は、砂を踏む音だけ。衛兵の一人が男の腕をとり、もう一人は背で押さえる。刃は抜かれない。短い抵抗。終わり。


 「まだいる」

 サビーネが斜面から合図。小屋の奥に気配がひとつ、固い。

 裏戸の隙間に、わずかな火の光。

 ミーナが肩で俺の背を押した。「火」

 俺は息を整える。吸って、風を前へ。火の芯を狙わず、横の空気だけを薄く動かす。炎が寝る。熱が引く。

 裏戸が勢いよく開いた。ススで黒くなった布帽の女。昼間、果物屋で一度すれ違った顔だと思った。俺に気づいた瞬間、女は小さな壺を地面に叩きつける。煙。鼻が刺されるような匂い。

 クロが「にがい」と低く鳴き、俺の足に身を寄せる。

 風を縦に起こす。煙は地面を這い、川のほうへ流れた。女が咳き込む。目が合う。

「邪魔」

 女は懐から短い刃を抜き、踏み込んできた。腰が入っている。

 俺は一歩だけ引き、腕で刃をずらす。肩の前で刃が滑り、石壁にキンと跳ねた。女の手首が鈍く止まる。その隙に、ミーナが後ろから布で顔を覆う。

「取った」

 女は床にひざをつく。刃は落ちた。


 小屋の中を一気に開ける。粉袋が三つ。輪は壊れたものが一つ。骨輪が五つ。焼き粉の壺が四。

 イリアが薄紙の端に**〈押収〉**の欄をつくり、数を落としていく。

「粉三/輪一(破)/骨五/焼き粉四」

 サビーネは壁の影から目だけ出して外を確認。

「舟はそのまま。逃げ道は失った」


 衛兵が男二と女一を縛り、詰所へ連行する。

 ランベルトが裏戸の上に簡単な札を打ち付けた。〈使用禁止・押収中〉。

 ゲルハルトが床板を踏む。きしみが一箇所、重い。

「床下に箱だ」

 板を外すと、油紙の包み。開けると、銀の薄板に線が刻んである。川筋と橋と、倉の位置。印が灰色。

 ハーゲンが目つきを変えた。

「こいつら、〈灰指〉の末端だ」

 セルジオへ届けるべき物が、手の中にある感触。冷たいのに、指先が熱い。



 関所アルダに戻ると、詰所の机がすぐに会議の台に変わった。

 セルジオは刻印入りの銀板を手に取り、灯りにかざす。

「見えるか、これ。橋の下にだけ刻みが深い。楔を打つ場所と、輪の位置が最初から決まっている」

「作ってるのは、城下の地図屋じゃない」ミレイユが眉を寄せる。「素材が違う。鍛冶の手だ」

 フーゴの顔が一瞬浮かぶが、あの人の仕事はもっと綺麗だ。

 セルジオは頷き、まとめに入る。

「橋の腹は座が固まった。裏小屋は封鎖、押収物は点検へ回す。連れてきた三人は衛兵で聴取。……そして、灰色の印は『まだ』街の中にある」


 俺の肩でクロが小さくくしゃみをした。鼻先に焼き粉の匂いが残っているのだろう。布でそっと拭く。

「くすぐったい」

「我慢して。終わったら果実水を少し」

「やった」

 クロは足の指を開いたり閉じたりして、満足そうに丸くなる。セレナに見せたら苦笑される顔だ。


 窓の外で、橋の上を荷車がふたつ通っていった。誰も立ち止まらない。掲示が効いている。

 サビーネが壁にもたれて弓を収め、俺のほうに視線を向ける。

「煙の流し方、きれいだった」

「たまたま、風が手伝ってくれただけ」

「それを『できる』って言うの」

 ハーゲンも短くうなずいた。

「次は倉だ。地図の印のうち、ここだけは昼に動けない場所だ。夜に入る」

 ミーナが薄紙の端に、次の段取りを三行で落とした。

〈倉:夜/入口二/見張り交代半刻〉

 イリアは**〈灰指〉**の二文字を太めに書き、指で一度だけ叩く。

「終わりまで、あと何手」

「多分、まだ指の数より多い」俺は答える。

 クロが尾の先をぴょこぴょこさせて、まじめにうなずいた。

「いっぱい、でも、やる」

「やる」


 短い休憩。ミレイユが台所から薄いスープを二つ。クロには水を。

「猫さんの分、塩なしね」

「のむ」

 クロは椀の縁に顎を乗せ、舌だけをちょっと出して水面をつつく。ぽちょ、と小さな音がして、目がさらに細くなった。

「おいしい」

「よかった」


 外はもう青い。夜の支度を急ごう。今度は倉。橋の影から、街の影へ。ここから先は、言葉より先に手が動く。

 俺は棒と細線切り具、布手袋、そして薄紙を確かめて袋に戻した。クロは自分で俺の肩に飛び乗り、前足で服の肩口をとん、とん、と叩く。

「いける」

「行こう」


 扉を開けると、夜風が川の匂いを運んできた。観音橋の灯が遠くに二つ、揺れて見える。あの灯りが静かなまま朝を迎えるように、もうひと押しする番だ。



 夜。倉庫街の石畳は、昼よりも音を返した。遠くの川鳴りが低く続き、灯火は細い。

 倉は二棟、横に並ぶ。正面は大扉、裏は荷通路の小口。昼に洗った路面はもう乾いている。


 俺たちは散った。ハーゲンと衛兵は正面の陰、サビーネは屋根際の影、ミーナと俺は裏口へ。イリアは角の陰で伝達。クロは俺の肩で身を低くし、ひげを前に向けていた。


 裏口の鍵は、表から回せば内棒が落ちる細工。外からこじれば軋む。

 ミーナが眉で合図。扉の下、床板と石畳の間に、細い隙間。

 クロがするりと肩から降り、腹を這わせて隙間に前足を差し入れた。爪でちょいと引く。内棒の先がわずかに浮く。

「いいよ」

 囁くと、クロはもう一度前足を伸ばし、棒の先をことと外へ落とした。ひげがぴくりと揺れる。

「えらい」

 錠の音は小さく、扉は音なく開く。油の匂いと粉の匂いが薄く重なって流れてきた。


 中は通路の奥に灯りが一つ。人影が二つ、奥の台に向かって背中を丸めている。紙と銀板が散らばり、輪に粉を擦り込む動きが見えた。

 ミーナが指で「右」を示し、俺は左へ。棚の陰に身を入れる。

 サビーネの影が天窓にかかり、灯の真上で止まる。縄梯子が静かに降りる。

 正面の大扉側で とん と槍の石突き音が一つ。気配がそちらへ向いた瞬間、俺は棚から出て灯の芯を手で覆う。息を殺し、吹かない。ただ、布をかぶせる。暗くなる。

 驚いた男の肘が台に当たり、銀板が床へ散った。もう一人は背に手を伸ばしかけて止まる。サビーネの矢が柱にドンと落ちたからだ。

「動かないほうが楽だよ」

 ミーナが短く言い、男の手首に麻紐を回す。俺はもう一人の肩を押さえ、刃物の位置だけ指で探る。腰の裏、短い刃。外して棚へ蹴り、床を滑らせて遠ざけた。


 奥の小部屋から、今度は足音が一つ。逃げる音。

 裏口の外でハーゲンが踏み込み、扉が内側へ跳ねた。ぶつかった影が尻もちをつき、肺の空気がはっと抜ける。衛兵が重ねて肩を押さえた。


 静かになった。

 灯を戻す。台の上には焼き粉の壺、骨輪、そして細かい文字で埋まった帳面が一冊。表紙の裏に、灰色の指を描いた小さな印。

 イリアが薄紙に数を落とし、帳面の一葉を写す。

「輪五、粉四、壺三、帳一。……この記号、橋の銀板と同じ線だね」

「同じだ」ハーゲンが頷く。「線の太さも刻みも、手が一緒」


 縛った男のひとりが唇を噛み、こちらを睨む。

「お前らに何が分かる。橋は流れれば儲かる。止まれば儲かる。どっちも儲けのうちだ」

 ミーナが表情を変えずに、紐の結びを固める。

「じゃあ今日は『止まらない』にする」

 サビーネは弓を収め、柱に寄りかかった。

「橋は道。道に細工するやつは、最後まで見送られる」


 押収物を布で包み、外へ運ぶ。クロは棚の下を一往復してから、俺の足に鼻先を押し付けた。

「ここ、あまいのない」

「よく見た。終わり」

 肩に抱き上げると、クロは小さく伸びをして、俺の耳に鼻をつけた。ひげがすこし当たって、くすぐったい。



 詰所に戻れば、セルジオの机に押収物が並ぶ。

 銀板、帳面、輪、壺。

 セルジオは帳面をぱらりとめくり、短い鉛筆で欄外に印をいくつか打った。

「橋の印と倉の線が重なった。……これで線はつながる。『灰の指』は、橋の腹から倉の壁まで、一手で届く」

 ミレイユが控えを写しながら呟く。

「掲示を増やす。橋は〈立ち止まらない〉を大きく。倉は〈許可証提示〉」

 セルジオは短くうなずくと、三人の取り調べに衛兵を回し、こちらへ視線を戻した。

「よくやった。橋は呼吸を続けている。……今夜はここまで。明日、地図屋と鍛冶を回す。刻印の主がいるはずだ」


 肩のクロが小さくあくびをした。目が半分ふさがり、そのまま俺の頬にひたいを寄せる。

「ねむい」

「帰ろう」

 セルジオが笑い線を深くして、紙袋を一つくれた。

「台所のスープだ。猫は塩抜き」

「のむ」

 クロは袋の口を覗いて、満足そうに尻尾を揺らした。



 夜更けの鍛冶通りは静かで、窓の明かりが一つだけ。フーゴはもう店を閉めていたが、戸口に紙切れが挟んである。

《口金布・明朝渡し》

 短い字に、少しほっとした。こういう小さな約束は、夜を軽くする。


 角の果物屋は帳を半分下ろしていて、フィオナが拭き物をしていた。俺に気づくと、指で輪を作る。

「果実水、薄いの。猫さんは匂いだけ」

「ありがとう」

 クロは鼻だけ近づけて、目を細める。

「いいにおい」

「飲むのは明日」

 納得したように、肩口に顎を置いた。


 白樺亭の扉を開けると、湯気が迎えてくれた。

 マルタが器をよそい、リナが木椀を二つ。

「顔が動いてる。今夜はよく眠れる顔だ。――薄粥、猫さんは塩抜き」

「お願いします」

 スプーンを口に近づける前に、クロがちょんと前足で俺の袖を叩く。

「さきに、アキラ」

「一緒に」

 同時に口をつけると、クロは満足したように目を閉じた。


 食後、帳場でマルタが紙片を渡す。

《観音橋・明朝点検/掲示増刷》

「うちの前にも一枚、貼っておくよ」

「助かります」


 部屋に戻り、押収の控えと薄紙を重ねて袋に仕舞う。棒の革キャップを外して乾いた布で拭き、窓を指一本ぶんだけ開ける。

 ベッドに横になると、クロが胸の上に丸まり、左前足の黒い点を俺の腕にそっと当てた。

「アキラ。あした、はし?」

「朝は橋、昼に地図屋、夕方に鍛冶。順番に行こう」

「いく」

 返事は小さく、すぐに寝息になった。


 灯りを落とす。

 観音橋の灯は、きっと静かに夜を渡っている。今夜はそう思える。

 明日は印の主を探す。灰の指を、手首から数える番だ。

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