第25話 「粉の出どころ」

 昼下がりのギルドは、人と紙の匂いが混じっていた。受付のミレイユが、掲示台の端に細い針金を通してから、こちらを呼ぶ。


「観音橋の件、朝の分は関所に通してあるよ。――次は“袋”。粉そのものより、袋口の縫いと流通を追う。セルジオから依頼。隊は今の顔ぶれで」


 奥から白ローブのセレナが顔を出す。喉ではなく、俺の手の甲の擦り傷を見て、薄く笑った。


「石の当て方が小さくなったね。いいよ、その調子。猫さんは水を少し多めに」


「のむ」クロは真面目にうなずき、小さく舌を鳴らした。


 関所アルダ。塔影は短く、セルジオは机の上に三つの欠け袋を並べた。どれも粉は抜いてあるが、口の縫い目が荒い。縫い代が妙に浅いのだ。


「門で回収した三口。共通点は糸が雑、袋地が薄い、そして“におい”が軽い。――出どころを辿る。倉印は藍倉の北端『藍染組合・下倉』。午後の搬入に紛れて中を見ろ」


「中を?」ミーナが眉を寄せる。


「搬入列は公開だ。布地の検反に立ち会うのは誰でも拒めない。香の棚だけは組合の許可がいるが……そこは俺が紙を回した。『白◦線=市場妨害』。向こうも体面がある」


 セルジオの視線が静かにこちらを押す。俺は深く頷いた。


 藍倉(あいぐら)は川に沿う倉の町。染め場の水路が幾筋も走っていて、風に湿り気がある。橋の仕事で何度か通ったが、北端の下倉は初めてだった。


 門柱に組合印。番の男が腕を組む。


「検反の立会い? 紙を見せろ」


 イリアがセルジオの公印の入った指示書を差し出す。男は鼻を鳴らしたが、道を開けた。


「布を見たいなら見ろ。ただし香棚には手を出すなよ」


「見て、書くだけです」俺は短く返し、靴音を小さくした。


 下倉は広い。梁が低く、光は高窓から斜めに差す。布ロールが山のように積まれ、荷車の車輪が床の節を踏んで小さく鳴る。染めの匂いにまぎれて、どこかで甘い残り香。


 クロが俺の影から鼻先を出し、ひげをぴくぴくさせた。「すこし。あまい」


「無理に嗅がない」俺は小声で言い、足で合図。クロはぴたりと歩調を合わせる。


 検反台の脇で、縫い場の女たちが袋口を縫っていた。手は早いが、いくつかは縫い目が粗い。針目の間隔が一定でない。


「同じ針でも、縫いが違う」ミーナが囁く。


「急かされた縫い」イリアが紙に走り書きして、顔を上げた。「誰が急かすの?」


 縫い場の奥で、帳場の男が一人。薄い笑み。視線が時々、脇の扉へ滑る。そこだけ鍵が付いていた。香棚だ。


 そのとき、搬入口から小さな揉め声。荷車の御者が、袋の数をめぐって口論している。番の男が出ていき、周囲の目がそちらへ向いた。


 サビーネが肩越しに空を掃き、低く言う。「今」


 俺とミーナは縫いの列に紛れ、イリアとサビーネが帳場の男の視線を奪う。ハーゲンは入口側で幅を取り、クロは俺の足元の影。


 錠は古い鉄。キー穴が深く、短い鍵に慣れている形。触れるだけで鳴りそうだ。俺は手袋越しにそっと撫でた。冷たい。開ける気はない。ただ、内側の空気がどうか知りたい。


 扉の隙間から、ふわ、と出た香り。甘いけれど、焦げのような薄い焦点が混じっている。粉砂糖に香草を少し。火を入れる前の匂い。


 クロが扉の下を覗き、前足で床板をちょんと押した。小さな「ぱち」という音が指先で弾け、ひげがばちっと一度だけ揺れる。

 クロは目を丸くして、自分の足を見た。「……ぴか」


 俺は思わず笑いそうになり、喉で止める。「あとで、ね」


 ちょうどその時、帳場の男がこちらへ目を向けた。イリアが紙を高く掲げ、検反の印を彼に求める。男は嫌々ながら印を押す。その隙に、ミーナが縫い目の粗い袋を二つ選び、針目の間隔を測った。


「針目、七つ飛び。印のロットは“桔梗三”。――朝の欠け袋と一致」


「書いて」俺は低く返し、視線だけで扉の錠を指し示す。「ここは、今日は見ない」


 サビーネがうなずく。「人の流れが戻る」


 番の男が搬入口から戻り、帳場の空気が元へ閉じる。俺たちは列から抜け、検反台の端で立会いの紙に署名した。形式は守る。無理はしない。


 倉を出ると、風がすっと乾いていた。クロが大きく鼻を鳴らす。「あまい、ぬけた」


「ありがと」俺は頭を撫でる。クロは目を細め、尻尾を立てた。


 関所へ戻ると、セルジオはすぐに帳簿の該当箇所を開いた。

「“桔梗三”の袋は三日前に藍染組合から市場へ百。内、破棄はゼロ。――なら、どこかで差し替えられた」


「縫い目が荒いのは“急かし”の合図かもしれません」ミーナが指を折る。「誰かが後ろから数だけ押し込んだ」


 セルジオは短く頷く。「夜に“香棚”の棚卸がある。組合も立ち会いだ。ギルドからも目を出してくれ」


「行きます」サビーネが即答する。


「少年」セルジオの視線が俺へ落ちる。「お前の風が、粉に触れた時の動きを覚えておけ。香は軽い。捕まえるより、流れを切ることだ」


「はい」


 ギルドへ戻る道すがら、角の果物屋に寄る。フィオナは栓を拭き、瓶の口をこちらへ傾けた。


「薄め一本。猫さんは塩なし。……目が、冴えてるね」


「倉で“桔梗三”を見た。夜に棚卸し」


「気をつけて。――干し果皮、おまけ」


 クロは瓶の口を覗き込み、舌をちょろっと出した。「すこし」


「すこしだけね」


 夕方。ギルドの裏口から出て、藍倉へ向かう。夜の棚卸しは表向きは“在庫確認”だが、組合側は気が立つ。ハーゲンが短くまとめた。


「刃は見せない。声は短く。粉は触らない。鼻は近づけない。――疑う目は持っていいが、決めつけない」


「了解」


 クロは俺の影に入り、尻尾だけがときどき灯りに光る。


 藍倉・下倉は昼の顔から静かな顔へ変わっていた。灯りは少なく、空気は湿っている。組合の立会人が二人、帳場の男は昼と同じ顔。目だけが固い。


 棚卸しは“声”から入った。

「袋、桔梗三、百」

「百」

「欠けなし」

「なし」


 流れは淡々としている。だが、香棚に近づくほど、言葉が速くなる。棚の前で、男の喉が一度だけ鳴った。


 錠が開く。香の匂い。甘いものと、尖ったもの。俺は息を短く吐いてから、腕を組んだ。風を起こす気はない。ただ、空気の向きを覚える。


 棚の引き出しは四つ。上段二つは空。下段の右に、薄い紙袋がぎっしり。左は二段目で止まっている。

 立会人が左下段を引くと、奥の板に短い傷。“×”に似た、爪の跡。


 サビーネと目が合う。彼女は視線だけで“ここ”と示した。ハーゲンが幅をとり、イリアが筆を立てる。


 帳場の男が咳払いをして、早口になる。「桔梗三、百。香、薄袋四十。――次」


「待って」ミーナが割って入る。「薄袋、いま“三十九”。一つ、どこ?」


 空気が一拍、止まった。

 帳場の男の目が、わずかに揺れる。立会人が顔を見合わせ、引き出しの奥へ手を入れる。


 底板が、すう、と、指で押せる。板が一枚、薄い。

 クロがひげをふるわせ、前足で板の隅をちょんと叩いた。「ここ」


 俺は息を整え、指先で風を少し。押すでも、引くでもない。“向き”だけを変える。板の隙間へ、冷たい流れをそっと通す。


 かすかな「ぱたり」。奥の空気が押し返され、薄い袋が一つ、指の届く場所へ滑り出た。


 ミーナが厚布越しに掴む。袋口の縫い目は、今日見た粗い針目。その下、糸に黒い粉が点々と付いていた。甘いだけじゃない。舌に刺さる匂い。


 帳場の男が一歩、前へ。


 ハーゲンの声は静かだった。「触れるな。今は、数だけだ」


 立会人の一人が唇を噛み、もう一人が頷く。「……帳場、説明を」


 男は目を細め、笑おうとした。けれど、笑わなかった。


「誤差だ」


 サビーネが首を傾げる。「誤差は隠し板で生まれない」


「誤差だ」


 空気がきしみ、倉の奥で誰かが小さく舌打ちした。灯りが一つ、わずかに揺れる。

 クロの毛がふわ、と立つ。ひげが前へ。


 俺は石を一つ、掌で撫でた。

 今度は、粉ではなく、人の動きを止める番だ。

 風は小さく、短く。灯りの炎は揺らさない。足音だけを拾う。


 ――どこから来る。どこへ逃げる。

 呼吸を一度整え、俺は目線だけで仲間に合図した。サビーネが空を通し、ハーゲンが幅。ミーナは袋を布で包んで下げ、イリアは筆を止めない。


 藍倉の夜は、静かにきしむ。ここからが、今夜の本番だ。



 倉の奥から、布を擦る小さな音。続いて、灯りがもう一つだけ揺れた。


「誰だ」番の男が声を張る。返事はない。代わりに、棚の影から黒い影が二つ、低く滑り出た。顔は布で覆われ、手には細い棒。視線はまっすぐ、ミーナの腕――布で包んだ薄袋――へ。


 踏み込みが速い。だが、床は染めに使う水でわずかに湿っている。俺は一歩後ろへ引き、風をひとかけ。突きの肩を半足ぶんだけ外へ流す。男の棒先が空を切り、柱に当たって乾いた音を立てた。


 サビーネの矢が床板に「コッ」と刺さる。警告の一本。影は足を止めない。もう一人が横から回り込み、ミーナの布包みに手を伸ばした。


「クロ!」小さく呼ぶと、黒い影が俺の前をかすめて飛び込んだ。クロは相手の足首の前にふわりと着地し、前足で床をちょん、と叩く。ぱち、と青白い火花が一粒弾ける。踏み込んだ男の足が一瞬すくんだ。驚きで体重が浮いた、その刹那。


「今!」ミーナが身を捻り、布包みをイリアへ投げる。イリアは胸で受けて背後へ下がる。ハーゲンが半歩前に出て、柄の中ほどで相手の胸を押し返した。派手な音は出さない。床が軋む音だけが広がる。


 帳場の男が逃げようとした。香棚の手前で足を翻す。サビーネの声が短い。「止まれ」矢はまだ弦にあるが、その声音には迷いがない。男は一瞬だけ足を迷わせた。だが、そのまま脇の小扉へ――。


 俺は手近の布芯(からの巻き芯)を二本、足元に転がした。軽い風で芯が斜めに転がり、扉の前でクロスする。男の足がそれを踏み、わずかに躓く。そこへハーゲンの柄が横から入り、肩と扉の間に楔のように差し込まれた。


 番の男がようやく動き、倉の外へ向けて笛を鳴らす。「止まれ! 組合立会い中だ!」


 黒い影の一人が諦めて棒を放り、両手を上げた。もう一人――扉前で躓いたやつ――は口の端を切って血を滲ませ、乱暴に笑う。


「誤差だよ。どこでも出る」


「誤差に、隠し板はいらない」サビーネの声は低い。


「板なんか昔からある。お守りだ」


「じゃあ見せろ。誰の“お守り”か」イリアが淡々と書きながら言う。


 そいつは舌打ちだけして黙り込む。代わりに帳場の男が唇を湿らせた。「検反が遅れた。納期に間に合わせるために……」


「袋に入れるのは布じゃない」ミーナが布包みを胸の前で軽く揺らす。「香の名前を言える?」


 返事はない。倉の外から、組合の別の立会人と、近くの詰所の兵が駆け込んできた。立会人は棚の前で固まり、声を失う。兵が黒布の男二人の腕を押さえる。抵抗は弱い。逃げの口上だけが早い。


「俺たちは雇われただけだ」「袋の数合わせを手伝っただけだ」


 ハーゲンが帳場の男を扉から離し、柱の前で立たせる。男の袖口が少し捲れ、手首に灰色の粉がうっすら付いているのが見えた。粉ではない。煤のような、指先だけを染める細かな何か。


 サビーネが視線で示す。「それ、見せて」


 男は無言で袖を戻す。代わりに、扉の向こう――香棚の奥――から、微かな金属のきしみ。誰かが別口で抜けようとしている。広い倉は目が多いが、死角も多い。


「ミーナ、イリアは台帳。サビーネ、通路。ハーゲンと俺で奥」


「了解」


 香棚の脇は狭い。柱と柱の間を抜け、裏通路へ足を入れると、染めの匂いが強くなった。裏の勝手口に通じる細い回廊。湿った石。薄暗い。


 足音。前方に、背中が一つ。細い背だが、肩で走る癖がある。手には細長い包み。灯りがない分、気配が生々しい。


 長く追わないのが基本だ。だが、ここで取り逃がせば、誰かが夜に粉を撒く。俺は深呼吸を一つだけして、喉を乾かさぬよう舌先を湿らせた。


「止まって。落とせ」声は短く。


 背中は振り向かない。包みを左に移し、勝手口へ向かって肩を下げる。押し戸だ。外へ出たら暗い中庭。逃げ道は幾つもある。


 俺は風をひとすじ、低く通した。床に転がっていた小さな糸巻きがふっと動き、相手の足首の前へころんと転がる。踏み込みが半歩ずれる。肩が扉に当たり、金具が鳴った。


 扉の隙間から外の空気。夜の冷えと、藍水の匂い。間に合わない。


 そのとき、クロが俺の脛を蹴るみたいに蹴って前へ飛び、扉枠の下に前足を滑り込ませた。ぱち、とさっきより強い火花。金具が「キン」と鳴り、相手の手の感覚が一瞬だけ抜けたのが分かった。包みが落ちる。俺は滑り込んでそれを足で押さえ、体で扉を押し返す。


 ハーゲンの腕が横から回り込み、相手の手首を取った。鋼鉄みたいな硬さ。だが、動きは無駄がない。相手は一拍で観念し、肩を落とした。


「開けるな。中で数える」ハーゲンが低く言う。


「うん」


 勝手口を閉め、明かりのある棚の前に戻る。ミーナが小刀で包みの端だけを切り、イリアが布を広げる。中から出てきたのは、薄紙の小袋が十。封は甘い香りの糊。袋の底に、灰色の微粉が薄く積もっている。


 ミーナが袋の底を、紙越しに指で軽く押す。粉がさあっと均され、薄い模様が現れた。

 親指、人差し指、中指――三本の指の腹で押した跡。爪の縁だけが濃く残る。

 灰を指に付ける癖。〈灰指〉。


 倉の空気が、目に見えないほど静かに沈んだ。立会人の一人が唇を噛み、もう一人は顔をしかめて目を逸らす。帳場の男は表情を固めたまま、額に汗だけが滲んでいる。


「名前を」イリアが穏やかに言う。「“灰指”。組合の仕事か、外の仕事か」


 返事はない。だが、黒布の襟の裏――逃げようとした男の襟元の裏地――に、灰色の糸で小さな印が縫い込まれていた。丸の中に横一本。白◦線の簡略記号。


 サビーネが立会人へ視線を送る。「これは、“外”だね」


 立会人の片方が、観念したようにうなずく。「――ここ数月、下倉にだけ“外の手”が混ざった。手は早いが、縫いが荒い。帳場は“急ぎ”と言って通した。香棚は……私は知らない」


 帳場の男が顔を上げる。唇を固く結び、強がりの笑みを浮かべる。


「街の遊びだ。香を薄めて、子どもの指で紙に“にゃ”を書かせる。害はない」


 クロが小さく鳴いた。「にゃ」


 サビーネの矢が弦で静かな音を立てる。「道に撒いたら、馬が鼻を下げる。橋でやれば落ちる。害はある」


 男は黙り込んだ。


 番の兵が二人、黒布の男たちを詰所へ連れていく。帳場の男は組合の立会人に囲まれ、香棚の鍵は彼らの手で閉められた。錠前に新しい封紙が貼られる。破れば分かる。


 セルジオへの持ち帰りは三つ。隠し板の構造、薄袋十、縫い目の荒い袋の針目。ミーナが丁寧に包み、イリアが封書に記す。サビーネは倉の外まで通りを見張り、ハーゲンは組合側と引き渡しの文言を決める。


 終わった頃には夜風が冷たくなっていた。川沿いの水面が黒く、細い波がときどき灯りを割る。クロは俺の足の甲に前足を置き、鼻先を上げる。


「ぴか、した」


「助かったよ」俺は笑って頭を撫でた。クロは自慢げに尻尾を立てる。ひげの先が、まだ少しだけ静電気で立っている。


 関所アルダ。塔影の下、セルジオは机の上に薄袋を広げ、灯りを少し離した。香りが強くならないように。


「“灰指”が袋の底に印を残すのは昔からの癖だ。夜目で数えるとき、自分の指で押して確かめる。――それを、君らは見つけた」


 イリアが封書を渡す。「隠し板は内板の差し込み式。溝に指の跡が二つ。今日使ったばかり」


「十分。組合とは俺がやる。……少年」


 セルジオの視線がこちらを刺すように、しかし穏やかに止まった。


「今夜はもう動くな。街には“反射”が出る。袋を押さえられたら、次は撒く場所を荒らす。明日は広場と門の掲示を一度見直せ。短い言葉で“遊びは紙で”をもう一段、太くする」


「分かりました」


 セルジオは最後に薄袋の一つを掴み、封紙を貼り直した。「これだけは、俺が保つ」


 ギルドへ戻る道。角の果物屋はもう灯りが落ちている。窓の向こうでフィオナが背伸びをして、こちらに気づき、指で輪を作ってみせた。**大丈夫?**の合図。


 俺は親指を立てて返す。クロは窓越しに鼻をくんくんさせて、「すこし」と小さく言った。フィオナが笑って、明日の瓶を指で二本示した。


 白樺亭。湯気の匂い。マルタが鍋を回し、リナが小さな皿を抱えて出てくる。


「遅かったね。薄粥、猫さんは塩抜き。……顔が少しこわばってる。明日は朝のうちに喉を温めてから動きな」


「いただきます」


 クロは椀の縁に前足を添え、ちいさく舌を動かす。尻尾がゆっくり左右に揺れる。落ち着いている証拠だ。


 食べ終えて部屋に上がる。窓を指二本分だけ開け、湿りを逃がす。薄紙に短い行を三つ。


――藍倉下倉:香棚に隠し板/薄袋十/針目“桔梗三”

――印:袋底に灰の指跡=〈灰指〉

――掲示:明日、“遊びは紙で”太字増し/門・広場・市場角


 ペン先を拭き、紙を重ねる。クロが胸に丸くなり、左前足の黒い点が俺の腕にそっと触れた。


「アキラ。あした、ひる、びん?」


「うん。フィオナが二本って言ってた」


「にほん」


 眠気が、遅れてやってきた。灯りを落とす前、ふと考える。

 粉は袋から出た。次は、指の持ち主。**〈灰指〉**に、通り名ではない名前を付ける番だ。


 灯りを消す。外の川が、静かに息をしている。明日は“言葉”を街にもう一段通し、夜はまた倉の目を増やす。

 そう決めて、目を閉じた。



 夜が明けた。白樺亭の一階は、湯気とパンの香り。マルタが大きな匙で粥をよそい、リナが皿を運ぶ。

 クロは椀のふちに前足をそろえ、湯気を鼻でつついた。


「フィオナの瓶、二本って言ってたね」

「のむ」

「あとでね」


 広場と門の掲示は、太字を一段濃くした。「砂糖遊びは紙で」の文言を短く大きく。市場角では、子どもが二人、声に出して読んでいた。指は道に伸びない。よし。


 角の果物屋では、フィオナがすでに瓶を二本、布越しに冷やしていた。

「約束どおり。海塩ひとつまみは君だけ。猫さんは塩抜き」

「助かります」

 クロは口をつけず、まず匂いを確かめてから小さく舐める。目を細める癖が、ちょっと偉そうで可笑しい。


 関所アルダでは、セルジオが短く段取りを出した。

「昨夜の倉は押さえた。今日の狙いは“流れ”だ。藍倉から河岸へ降りる荷道に、桔梗印の台帳が二冊。午後に一便、夕刻に一便。灰は人の手で運ばれる。橋の下を通すのが早い」

 薄紙の控えに「桔梗三」と記されている。昨日の袋の針目と同じ名。

「こちらは二手。河岸見張りにサビーネとイリア、倉側にハーゲンとミーナ。アキラと猫は連絡。追うなら“挟む”。一人で伸ばすな」


 ギルドへ戻る途中、見慣れない若い冒険者に声をかけられた。革鎧は新しく、肩の位置が落ち着かない。

「昨日の染め倉、やったの君らか。見物人が多かった」

「仕事だったから」

「だよな。……俺は槍の新米。ミレイユに、短く言えるやつは強いって言われた。真似する」

「どこで、何が、どうした。三つだけ」

「覚えた」

 こういう会話が街を少しだけ堅くする。そう思える余裕が、今日の俺にはあった。


 午後。薄雲が広がる。河岸の板道は湿って黒い。荷船の舷側に白い粉袋が二つ、置かれたままになっている。鼻に甘さはない。表だけ、きれいに拭いてある。


 サビーネとイリアは帆柱の陰。俺とクロは上の倉道で立ち止まった。ハーゲンとミーナは藍倉側で待機。合図は視線で十分。大声はいらない。


 夕刻の鐘が一度。

 それと同時に、川面を滑るように小舟が一艘、橋脚の影へ入った。櫂の音がやけに軽い。舳先に立つのは痩せた男、手袋なし。指先が灰色にくぐもって見える。

 桟橋の柱に、紙札が一枚。香の字が小さく書かれ、端に桔梗の印。


(来た)


 上の通路から、帆布を肩に担いだ若い荷運びが二人。足元は早いが、目は泳がない。先頭の男が紙札を外し、札を懐にしまう。舟の男は受け取りの合図に顎を上げただけ。声は交わさない。


 イリアが袖の陰で指を二本、軽く振った。今。

 サビーネが板道へ一歩出て、矢を低い位置で構える。狙いは人ではなく、舟と桟橋の間のロープ。


 俺は橋脚の影へ、風を薄く通した。板道の上に転がっていた木片がころりと移動し、荷運びの足を半歩だけずらす。舟の男の視線が、瞬間、そちらへ吸い寄せられた。


 ハーゲンが藍倉側からすっと現れ、荷運びの後ろをふさぐ。ミーナは香札の位置を押さえる。逃げ道は二つに見えて、実は一つもない。


「倉の立会い中。荷を下ろして、手を見せて」

 イリアの声は静かだ。舟の男は鼻で笑って、手を振り払う仕草をした。指先から灰がさらりと落ちる。

「川の流れだ。誰のものでもない」


「なら、見せられる」

 サビーネが言って、矢の先でロープを軽く突いた。舟がきしむ。舟の男の目が矢に向く。ほんの一拍。


 その隙に、クロが桟橋の灯りにひらりと飛び移った。金具に前足をのせ、ひげをぴんと張る。

 ぱち。青い火花が、灯心の油にだけ触れて消えた。明滅した光に、男が片目を細める。

「なに――」


 ハーゲンの柄が男の肘を押し上げ、ナイフが桟橋に「ちっ」と落ちた。舟が揺れ、船頭が舌打ちする。荷運びの一人が逃げに切り替え、橋脚の反対側――足場の悪い側――へ身を滑らせた。


「行くな!」

 俺は声だけ投げ、体は動かさない。代わりに、足元の砂を小さく巻き上げ、逃げる足の前へぱらりと散らす。わずかな滑りで、男の体勢が崩れた。

 落ちる――そう思ったとき、桟の端にちょうど遊んでいた少年がいた。目が大きく開く。これはまずい。


 サビーネの矢が、逃げる男と少年の間の板に「コッ」と刺さって横棒の代わりになった。少年の足は矢で押し返され、男は矢を避ける形で無理に体をひねる。

 ミーナがその背の襟を掴み、引き戻した。板道に男の背中が落ちる。息が抜ける音。

「大丈夫?」

 少年はこくこくとうなずき、矢を見つめてから俺たちの顔を順に見て、駆けていった。矢はサビーネがすぐに抜いて布で拭う。板の傷は小さい。残らない。


 舟の男はまだ諦めず、足でロープを蹴って舟を離そうとした。

 ハーゲンが一歩で詰め、男の手首を返す。指先の灰がぽろぽろと落ちる。イリアは懐から香札を抜き取り、札の裏を見て目を細めた。

 桔梗の印の脇に、針でつついたような小さな点が三つ。三更――夜の三つ目の更け頃、橋の下で、の印。


「今夜、観音橋の下だね」

 イリアが静かに言う。舟の男は舌打ちして目を逸らした。

「知らねえよ。俺は舟を漕ぐだけだ」


 それでも、懐の中から出てきた陶の薄いコインが、薄袋の資金の流れを黙って物語っていた。表に灰色の釉、裏に横棒。襟の裏と同じ印。

 サビーネが低く。

「“渡し賃”が陶ってのは、内々の金だ」


 ハーゲンは舟の男の手を離し、短く告げた。

「詰所に行こう。川守に渡す」

 男はもう抵抗しない。肩が落ちると、ただの痩せた影だ。クロがその足元を一瞬嗅いで、むっと顔をしかめた。

「におい、くさい」

「灰と油の匂いだね」

 俺は袋を受け取り、手袋越しに重さを確かめた。白い粉じゃない。灰色が混じる。薄める前の“芯”。


 河岸の詰所で引き渡しと帳面の写し。舟と荷運びの二人は、それぞれ川守と衛兵の手に預けられた。イリアが香札の記号と桔梗印を控え、ミーナは袋の針目を比べて“同じ手”だと記す。


 ひと息。日が落ちる。橋の上を行く人の影が長く伸び、川面は黒い。観音橋の下へ入る風が、少し冷たい。


「夜は?」

 サビーネが言う。

「橋の下に“灯りを足す”。逃げ道を光で挟む。――クロ、灯りの番は任せていい?」

 クロは胸を張るみたいに尾をぴんと立てた。

「できる。ぴか、ちょっと」

「ちょっとだけね」

 クロは得意そうにひげを揺らした。


 橋の北詰に、白樺亭の出張屋台が出ていた。マルタの甥っ子が薄いスープを配っている。

「働き者の顔だ。猫さんのは塩抜きね」

 クロは鼻を近づけ、ちいさく舐める。

「おいしい」

 甥っ子が目を丸くした。「喋った?」

「喉が良い時だけね」

 笑いがこぼれて、緊張が一瞬だけほどけた。


 橋の下の段取りはシンプルだ。

 ――灯りを二つ、橋脚の陰に追加(川守承認済)。

 ――上から見張るのはサビーネ、下の石だたみはハーゲンと俺。

 ――イリアとミーナは橋上で控え。

 ――来るなら三更。合図は灯りの明滅ひとつ。声は最小限で。


 橋の上を風が通り、川面に細い波を立てた。

 クロは俺の肩に前足をのせ、橋脚の灯りをじっと見つめる。

「ぴか、いつ?」

「合図が来たら。焦らないで」

「うん」


 薄闇が深くなり、町の音がひとつずつ減っていく。遠くで笛が一度。交代の合図。

 観音橋の下では、川の黒さだけが広がっている。石だたみの間に、小さな水の音。灯りが揺れて、また落ち着く。


 三更。

 橋の上から、イリアの小さな明滅。来た。


 水音に混じって、布を擦る音。橋脚の陰から、背の低い影が二つ。肩から下げた袋は布を二重にしてあるが、下から光を透かすと、縫い目の荒さが見えた。

 一人は橋脚に寄り、石だたみの小さな窪みに袋を押し込む。もう一人は、反対側で同じ動き。中継の隠し場所だ。手際が良すぎる。


「そこで止まって」

 俺は声を落として言った。ハーゲンは一歩前に出る。

 影が肩を揺らす。逃げるつもりの肩だ。


 クロが橋脚の灯りの金具に触れ、ぱち、と火花。明かりが一瞬強くなってから落ち着く。陰が浅くなり、男たちの顔が見えた。若い。手は速いが、目の底に躊躇がない。

「お守り、だよ」

 低い声。昨夜と同じ台詞。

「お守りなら、街に見せて歩ける」

 サビーネが上から言う。音は冷たい。

「見せないのは、誰のため?」


 男たちは目を見交わし、反対側へ飛ぶつもりで体勢を崩した――その瞬間、上から細い石が一つ、橋脚の根本にコッと落ちた。サビーネの合図。上にもいる。


 逃げ道がないと分かったのは早かった。片方は袋から手を離し、両手を上げる。もう片方は、最後の悪あがきで小刀を抜き、石だたみを滑るように俺のほうへ寄せてきた。

 足元が濡れている。無理の踏み込み。刃先は低い。


 俺は前に出ない。風をひとすじ、刃の真横へ押した。水面の湿りで重くなった薄い砂が、男の視界にだけぱらりと入る。目が瞬きをした一拍。足が鈍る。

 ハーゲンの柄がその手首を叩き、刃が石の上に跳ねた。金属が乾いた音を立てる。

 男は肩で息をして、膝をついた。

「やめる。負けだ」


 橋脚の陰から、もう一つ、気配。

 袋を押し込んだ窪みのさらに奥――薄い板の向こう。下流から細い縄が伸びている。船着き場へ通じる“抜け”。

 ミーナが上から声を落とす。

「縄、切る?」

「待って」

 俺は覗き込み、縄の結び目を指で示す。「引けば手首に食い込む。切ると落ちる。外す」

 ハーゲンが頷き、柄の端で結び目だけを押し、外へ逃がした。縄がするりと引かれていき、闇に溶ける。下流で舌打ちが一つ。舟の影。今日はここまで。


 袋を回収すると、重さが昨夜よりわずかにある。指で押せば、底に灰色が沈む。

 若い男は観念して座り込み、擦れた声で言った。

「俺たちは“線”を引けって頼まれただけだ。子どもが紙ににゃって書くの、面白いだろ」

「面白いだけで済まない」

 イリアが淡々と紙に書く。

「上は誰?」

 返事は来ない。代わりに、懐から同じ陶のコイン。

「受け取りは“灯無し宿”。裏の土間。……もう言った。勘弁してくれ」

 サビーネが橋の上で、短く息を吐く音がした。「名の言えない上は、上じゃない」


 川守と衛兵に引き渡し、橋上で小さく片付け。灯りを元に戻し、封の紙を貼る。

 クロは橋の欄干に前足をかけて、川をのぞき込んだ。

「おみず、くろい」

「夜は黒いものだよ」

「でも、すき」

「それはいい」


 関所でセルジオに袋と陶コイン、香札、場所の写しを出す。

「橋脚の窪み、縄の抜け。舟の影。――“灯無し宿”か」

 セルジオは顎を引き、机の上でコインを指先ではじく。灰釉が冷たい音を返す。

「明日は宿場の掃き出しだ。正面からは踏み込まない。火が出る。――君らは一度眠れ。喉を休めて、明日の昼にもう一度」


 ギルドへ戻ると、ミレイユが湯気の立つカップを二つ持ってきた。

「薄い茶。猫さんは香りだけ」

「のむ」

「飲むじゃなくて香りね」

 クロは鼻先を近づけ、満足そうに目を細める。ひげがふるえ、尻尾がとことこと揺れる。


 白樺亭の階段を上る前、フーゴの店に灯りが残っていた。

「戻ったか。明日、宿場を掃くそうだな」

「耳が早い」

「川沿いは音が伝わる。……この布、柄に巻いとけ。濡れても滑りにくい」

「助かる」

 クロがカウンターの縁に前足をかけ、じっと見上げる。

「ふーご、つよい?」

「道具は強い。人は道具をうまく使えれば十分だ」

「おぼえた」

 なんでも覚える顔をして、クロは得意げに尻尾を立てた。


 部屋。窓を少しだけ開け、紙に今日の終いを三行。


――河岸:桔梗札/陶コイン/指に灰

――観音橋:窪み→袋/縄抜け→舟影

――明日:宿場“灯無し宿”確認/踏み込みは組合+関所同道


 ペン先を拭うと、眠気が押し寄せた。

 クロが胸の上で丸くなり、左前足の黒い点を俺の腕にそっと当てる。

「アキラ。あした、ぴか、ちょっと?」

「いるかもしれない。ちょっとだけ」

「ちょっと」

 復唱してから、クロは満足そうに目を閉じる。ひげが、たまにぴくりと動く。


 明日は灯りのない宿。影の親が、少し近くなる。

 眠りに落ちながら、そう思った。



 昼前、関所の裏庭で段取りが固まった。川守二、衛兵二、ギルド側は俺たち五人。正面から“宿”を割らず、裏口と土間、天井裏の三方を押さえる。

 セルジオは机から一枚、赤い縁の紙を出した。

「踏み込みの許可状。読み上げは短く。人を外へ出せたら十分だ。証(あかし)を持って帰れ」


 “灯無し宿”は、表口に昼でも灯りがない。軒は低く、のれんは古い。通りをはずれた路地で、風が止まると匂いが立つ。灰と油と、少しの香。

 俺とミーナは荷運びの装いで前へ。サビーネは屋根の縁、ハーゲンは勝手口へ回り、イリアは許可状を袖に隠したまま半歩後ろ。クロは俺の肩で小さく身を縮め、ひげを揺らす。


 のれんをくぐる。土間の奥は薄暗い。帳場の男は目だけが光っている。

「泊まりか」

「荷を預けたい。香の店に回す前に」

 俺が言うと、男は目をそらして手で奥を示した。

「裏手の間へ」


 床板が軋む。三畳ほどの物置――に見えるが、壁の下の埃が不自然に薄い。

 ミーナが何でもない仕草で膝をつき、指先で桟を撫でた。うっすらと粉がにじむ。

 クロが肩から降り、鼻を近づける。ひげがピンと立った。

「した、あまい」

「やっぱり」


 イリアが小さく咳払いして、許可状を読み上げる。

「――“関所アルダ、踏み込みの許(もと)い。土間・裏間・天井裏の検分。危険品の提出”」

 帳場の男の目がわずかに泳いだ。逃げるなら今――それが顔に出る。

 のれんの影で、サビーネの矢が柱にコッと刺さった。音が二つの背を縫い止める。ハーゲンが勝手口を塞ぎ、川守が裏手の井戸口を押さえる。動きは短い。


「板を外すよ」

 ミーナが低く言い、俺が風を薄く通した。埃がわずかに走り、隙間の線が浮く。楔の位置が見える。

 布で手を覆って楔を抜き、桟を持ち上げる。鼻に冷たい匂いがくる。

 浅い地下の床に、二十は下らない布袋。上に紙札。桔梗の刻印、脇に小さな点が四つ。四更。橋の印の反対側。

 袋の口は丁寧な二重縫い。針目は昨日と同じだ。


 帳場の男が口を開いた。

「客の荷だ。触るな」

「客の荷なら、帳面がある」

 イリアが即答する。

 男は黙る。肩が落ちる。

「……裏の納戸に」


 納戸の棚、節穴の後ろ。薄い板の裏から、細長い帳面が出てきた。香の字、桔梗印、横棒の陶コイン。読み方は暗号じみていても、列は揃っている。

 イリアが指で頁を押さえた。

「“観音・三/四更”“舟・桟・抜”――昨夜と今夜の線が、ここだ」

 ハーゲンが袋の一つを開け、底を指で押す。灰色が沈む。

「割り粉だ。強いほうを薄くする。……道で拾う子に効く」


 土間の奥で、戸が小さく鳴った。裏戸口を合わせる音。

 ハーゲンが身だけで塞ぎ、サビーネが屋根から声を落とす。

「上も閉じた」

 川守の男が短く頷く。

「中の人は外へ出す。宿は封をする」


 帳場の男は観念したように椅子に座り、細い息を吐いた。

「俺は、とった金を数えてただけだ」

「誰がこの宿を使わせた?」

 男は唇を噛み、目を逸らした。

「“指(さし)”の奴らだよ。灰を使う手。顔はいくつもあるけど、話をまとめるのは一本だ。細い声の、背の高い女だ。骨の指輪をしてる」

 イリアが帳面の欄外に**“骨の指輪”**と一行。

 サビーネが小さく鼻で笑う。

「指に骨、ね。名乗りが分かりやすい」


 袋はすべて封緘、帳面は押印。陶のコインは枚数を現場で数え、控えに写す。

 ミーナが土間の隅で、子ども用に置かれた小さな木札を見つけた。うさぎの絵と、丸。

「遊び場の札まで用意してたんだ」

 胸の中が少し冷たくなる。クロがその木札を鼻で押しやって、俺の足元へ寄ってきた。

「きらい」

「うん。これも持っていこう」


 外に出ると、路地の風が思ったより明るかった。人だかりはできていない。川守が手際よく人の流れを散らしてくれている。

 セルジオに報告。袋の数、帳面、陶コイン、骨の指輪の話。

「よし。宿は封、名は抑える。骨の指輪は“指揮”だ。明日、匂いを追う。――君らは一度、喉を休めな」


 解散の前に、白樺亭の前を通った。マルタが外に水を撒いている。

「帰り? なら薄いスープ、立ったままでも飲める」

「お願いします」

 クロには塩抜きの小椀。真面目な顔でちょんちょん舐める。ひげがスープの湯気でしなっとするのが、おかしい。

「おいしい」

「良かった」


 ギルドにもどって、掲示台に短い一枚を足した。

――〈白◦線=甘粉〉:割り粉の袋を回収/観音橋・灯無し宿の線を遮断

――子どもへ:道に粉を置かない/見つけたら大人を呼ぶ

 ミレイユが頷く。

「言葉は短く、字は太く。……“骨の指輪”、ギルドにも回す」


 鍛冶通りでフーゴが顔を上げた。

「宿、終わったな」

「終わりじゃない。次は“指輪”だ」

「なら、手を休めろ」

 革キャップを外し、柄を布で拭う。フーゴはクロの額をこつん。

「よく働いたな」

「はたらいた」

「言うねぇ」

 笑いが出た。


 部屋に戻り、紙の端に今日の三行。


――灯無し宿:袋二十/帳面一/陶コイン多数

――骨の指輪:背高・細声・“指”のまとめ役

――明日:匂いの線を拾う/桔梗の針目から上へ


 ペン先を拭っていると、クロが机に飛び乗って、鼻先で紙の端を押した。

「かみ、うすい」

「薄い紙は軽い。走らなくて済む」

「はしらない」

 復唱する声がうれしくて、頭を撫でると、喉の奥で小さくゴロゴロ鳴らした。尻尾が机の縁でとことこ跳ねる。


 灯りを落とす。窓の外は静かだ。

 川の黒は見えないが、音は届く。細く、確かに。

 街は少しだけ軽くなった。だが、上流に“指”がいる。そこへ行くには、まだ息を整えなければ。


 明日は広場と橋の掲示をもう一度見て、匂いの線を拾う。骨の指輪に追いつくまで、足を崩さない。

 そう決めて、目を閉じた。クロが胸の上で丸くなり、左前足の黒い点を俺の腕にそっと押し当てる。

「アキラ。あした、すこし、ねる?」

「少しね。昼に一度、外を回ってから」

「うん」


 眠りは早く来て、今日はやわらかかった。

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