第18話 「白木の扉」
朝の白樺亭は、湯気とパンの匂い。クロは卓に前足をそろえ、ちぎった欠片を鼻先で転がしてから、前歯でこつんと噛んだ。粉がひげにつく。リナが笑って布で拭ってくれると、クロは照れたみたいに尻尾を立てた。
「今日は顔がこわいね、アキラ」
「偽装倉庫に入る日だから」
「なら粥を少し多め、猫さんは塩抜きね」
「のむ」クロは真剣な顔で答えて、器に顔を落とした。
ギルドへ行くと、ミレイユが封の札と薄紙束を机に並べた。
「踏み込みの根拠は“粉袋の追跡と偽装の疑い”。関所印あり。中の物は私物扱いにせず『提出物』として袋分けして」
白ローブのセレナは医務から顔を出し、俺の両手に薄く油をのばす。
「今日は声を張る場面が多い。吸う前に一拍吐いてから。指の結び目は外側に」
「はい」
「猫さんは後ろで待機。合図は手で。大きな声は使わない」
「まつ」クロは小さくうなずいた。
関所アルダ。セルジオが地図に赤い点を三つ置く。
「渡し下、御者宿、倉庫はずれ。輪はここで閉じる。衛兵二名はランベルト指揮。合図は“止まれ”“ゆっくり”。扉は壊すな、棒を下から」
役割は決まっている。ハーゲンが前、サビーネが斜め後ろ、ミーナは結束と袋、イリアは記録、俺は補助。クロはハーゲンの影。
昼前、倉庫街のはずれ。屋根は低く、表の看板だけ年季が入っている。通りの人波は薄い。
サビーネが路の入口に立ち、肩越しに視線を流したまま小声で言う。
「今は静か。合図、いつでも」
ランベルトは衛兵を左右に散らせ、通りの端だけ確かめて戻ってきた。
「近所の目はある。手早く」
まずは周りを整える。ミーナが縄を柱に一巻きして、引き戸の走り隙間へ薄布を差し込む。イリアは地図の片隅に時刻を一本。
俺は棒の先を扉の下辺に当て、力をかけずにわずかに持ち上げる。内側のかんぬきに重みがかかっている感触。木の鳴りは乾いている。開けしろは下から一指分。
クロが俺の足に額をこつりと当てる。たぶん「いける」。
合図は短く、声は一度だけ。
ハーゲンの手が下がる。
棒をてこの位置に移し、下から押し上げる。かんぬきが一つ、奥へ転がる音。扉が息を吸うみたいにわずかに浮く。
その瞬間、内側で擦れる小さな音。動く気配。
サビーネが床へ“ドン”と警告矢。土間に当たった音だけを響かせる。
扉が開きかけて止まり、内側から息を呑む気配が伝わってくる。
「開けます」
俺は一拍だけ息を吐き、左手の小袋を指でつまむ。紙を細かく砕いた白粉――セレナの指示で喉に害が出ない程度に調整した“紙砂”だ。
隙間からひとつまみ、床に落とす。
微かな風を指先で撫で、粉の帯を内へ滑らせる。床を這うほどの弱い風。目に見えない程度の、ただの押し出し。
くしゃ、と足が迷う音。
中の影が半歩下がる。棒をもう一段だけ押す。かんぬきが完全に落ち、扉が内へ押し戻される形で開いた。
土間は薄暗い。白木の箱、樽、そして紙束。甘い匂いが淡く混じる。
手前に二人。薄汚れた手袋に、掌の黒い染み。もう片方は袖の継ぎが新しい。視線は散るが、足は逃げ腰。
俺たちの列は崩さない。前に出過ぎない。
ランベルトが一言だけ告げる。
「関所印の任務だ。落ち着いて聞け」
その時、右の男が箱の陰へ手を伸ばした。
ハーゲンの足が半歩、前。
俺は棒を横に回し、箱の角と手首の間に差し込む。挟まない。触れるだけ。
男の指が止まる。
左の男が声を荒げかけたので、サビーネが床にもう一度“ドン”。音だけが室内の空気を冷やす。
「手を見えるところに」
ランベルトの声は低く短い。二人の肩から力が抜ける。
イリアが札を掲げ、読み上げる。
「“提出物は袋分け。個人の物は混ぜない。暴力は使わない”」
ミーナは箱の口を布で覆い、紐を一回し二結びで仮止め。
俺は土間の白粉を布で拭い、布自体を提出袋へ。クロは敷居の影でじっと座り、尻尾だけで“ここにいるよ”と知らせている。
……奥の間にもう一人いる。畳の擦れる音。
サビーネと目が合った。うなずく。
ハーゲンが手で合図。
俺は息を短く整え、棒先で敷居を軽く押す。
奥の戸が、音を立てずにわずかに動いた。
中の男が短刀に触れたのが、影で分かった。
こちらは走らない。踏み込みすぎない。
棒の角度を変えて、床をちょん、と鳴らす。気配がこっちを見る。
その瞬間、足もとに薄い紙砂をもう一筋。
男のはだしが一歩、空を踏む。
ハーゲンが入り口を塞ぎ、サビーネは斜め後ろで“線だけ”を保つ。
奥の間の空気が動いた。
ここからが本番だ。
俺は視線だけで仲間の位置を確かめ、棒を握り直す。
クロが胸元で小さく鳴いた。
目が合った。――大丈夫。行ける。
◇
奥の間は、すべて白木。箱が三つ、床の節目が一つだけ不自然に明るい。
短刀の男は敷居の影。目だけがこちらを測る。
ハーゲンが半歩だけ前へ。刃先を見させない立ち位置。
俺は息を短く整え、棒を水平にして男の手首と床の間に差し入れる。押さえない。触れるだけ。
サビーネは斜め後ろで肩越しに視線を通し、逃げ道を一つずつ消す。
「刃を離して、両手を見える位置に」
ランベルトの声は低い。反論は来ない。短刀が畳に落ちて、からんと転がる。
ミーナが布で包み、提出袋へ。紐は一回し・二結び。結び目は外側。
イリアが薄紙に一行。
「『短刀一本回収・抵抗なし』」
部屋の脇、白木の箱を一つ開ける。布袋が並ぶ。口の縫い目が新しい。
クロが鼻を寄せて、ひとつだけちょんと前足で叩いた。
「ここ、あまい」
ミーナが頷いて布を二重にかぶせ、袋ごと別袋へ。指で印を付ける。
「提出物:粉袋(未開封)×八」
もう一つの箱は紙道具。札の型、細い紙紐、印章。
印の台に指跡。黒い染みが円形に残っている。
イリアが印影を写し、薄紙に押し写しを重ねる。
「『印影採取・汚れ黒=油混ざり』」
三つ目の箱は空に見えたが、底板が浅い。
ハーゲンが顎で示す。俺は棒の先で角を軽く押し、浮いた隙間に薄布を差し込んでから板を上げる。
底の下に木箱がもう一段。
中は紙包みが二つ。縄の端が変な結び。片蝶で、引けば解けるやつ。
ミーナがほどき、正しい結びに直す。
紙包みの中から、図が出た。
路地と物見台、見張りの交代時刻が線で記され、端に小さく「指」の字。
ランベルトは眉をわずかに下げ、図の端を布越しに摘む。
「写しはイリア、本紙は提出。指名は今は言うな」
その時、表の土間で音。
外にいたもう一人が、慌てて箱を蹴ったらしい。粉袋を割るつもりだ。
ミーナが走らず寄り、布で包み込む。
俺は手前に転がった陶片に向けて、掌で空気を軽く押す。ほんのわずか。
陶片が手前に流れ、ミーナの布の中へ収まる。
「回収」
イリアが一行。
「『粉袋割り未遂→布で封』」
中の三人は座らせ、手だけ前に。
ハーゲンが視線だけで「大丈夫か」と聞いてくる。うなずく。
クロは敷居の影に戻り、尻尾で床を掃くみたいに小さく振った。
提出袋は三つに分けた。
――粉袋と陶片(封)
――印影と札の型、紙紐
――図面の原紙と写し
ミーナが札を挟み、結び目を必ず外へ。イリアが番号を振る。
ランベルトは扉を半ばまで開け、外の衛兵に引き渡しを指示。
「三名、詰所。暴れなし。目撃は隣家に一件。声は短く」
外の空気に戻る。通りの風が少し冷たい。
サビーネが肩だけ回して周囲をひと掃き。
「次、渡し下」
ハーゲンがうなずき、列はそのまま移る。
◆
渡し下は川風が通る。小屋の裏に板張りの床。樽が二。
渡し守の親父が帽子を外して迎える。
「朝、若いのが二人。板の裏で何かこそこそしてた」
サビーネが土手の上で視線を流し、合図の位置を決める。
ミーナは樽の口を布で拭い、俺は板の隙間に棒の先を入れる。
板は釘で止めてあるが、一本だけ古い。指で押すと、少し浮く。
細い木楔が差し込まれていて、引けば外れる仕掛け。
イリアが小さく息を吸って、薄紙に印を描く。
「『板裏に楔・出し入れ可』」
木楔の奥から、紐で結わえた紙包み。
布で包み、袋へ。
クロが鼻を鳴らす。
「すこし、あまい」
粉は使われた跡が薄く残る。袋の口の糸が新しい。
ミーナが結び方を見て、低く短く。
「道具の手。商売の人の結びじゃない」
樽の下。底板の外に、白い紙を巻いた細い筒が貼られていた。
剥がすと、中は暗い色の粉。香りは甘くない。
ハーゲンが親父にだけ聞こえる声で説明し、提出へ回す。
イリアは紙端に**『白◦以外の粉』**と太書き。
「混ぜ物の可能性。関所で確認」
渡し守は腕を組んで川面を見た。
「最近、夜に若い声が増えた。舟は触られてないが、板の上で足踏みの音がする」
サビーネが頷く。
「合図は渡しにも置こう」
イリアは持参の小札に、太字で二行。
〈夜は走らない/板の上で跳ねない〉
渡し守が笑った。
「それでいい」
周りをもう一巡。
土手の草に一本だけ麻糸。張りは弱い。
ミーナが外して袋へ。
イリアが一本。
「『麻糸回収・鳴子未満』」
風が変わる。川の匂いが少し濃くなる。
サビーネが顎で通りを示す。
「御者宿、行こう」
◆
御者宿は梁が太い。玄関先に洗ったばかりの手綱。
宿の親父は眉を寄せて出てきた。
「昨夜、馬が急に鼻を下げた。床を嗅いで動かなくなった。朝は何もない」
玄関脇の柱に、前に俺たちが付けた携帯札がぶら下がっている。
“右寄せ・歩き”の文字が、もう薄い手で何度もなぞられた跡。
床板の隙間を、棒先で軽くなぞる。何も出ない。
柱の根元、石の角の陰に白が薄く。
布で拭き、袋へ。
クロは尻尾を立てて、柱の反対側をのぞく。
「こっち、すこし」
そこにも白。
イリアが薄紙に点を二つ重ねる。
「『玄関左右に薄白・拭去』」
宿の奥で、若い御者が不安そうに帽子をいじる。
「札の読み合わせ、もう一度やる?」
ミーナが頷き、短く声を置いた。
「『右寄せ一歩。歩き通過』」
若い御者ははっきり復唱する。
「右寄せ一歩。歩き通過」
親父も続けて言い、笑って肩を叩いた。
「これで行く」
裏手。薪小屋の影に、細い紙片が散っていた。
印影の欠け。扇形の一部だけ。
イリアが拾って並べ、欠けの角度を合わせる。
「倉庫の印と同じ型。欠け位置は右上」
提出袋へ。紐は二結び。
ミーナが短い息で言う。
「印は一つじゃない。型は通し」
表へ戻ると、ランベルトの衛兵が合流した。
「倉庫の三人は詰所で待機。聞き取りの準備はできている」
「渡しと宿で二点。粉は白と暗――混ぜ物は関所へ」
俺が一息でまとめて渡すと、ランベルトは頷き、控えを取った。
ハーゲンが最後に周囲を見回し、短く区切る。
「関所へ戻る。図面と印影は写しと同時提出。街側の札はイリアが追記。ミーナ、袋の口、もう一度確認」
「了解」
クロは列の真ん中で、前足をきちんと揃えた。
「いく」
◆
関所アルダ。塔影は短い。
セルジオは机の上を空け、俺たちの袋を目の前に置かせた。
触り、嗅ぎ、秤で量り、印影を光に透かす。
「図面は路地と物見台。夜の線が多い。――印影は一致、欠け位置右上。粉は白が甘、暗は香なし。混ぜ物の可能性」
イリアの写しを横に並べ、セルジオは短く言う。
「提出、受領。聞き取りは別室。街の札は“夜は跳ねない”を追加。――巡視は続けろ」
俺は薄紙に一行。
「『偽装倉庫:粉袋・印影・図面。渡し:板裏。宿:玄関左右。提出完了』」
ミーナは結び目をもう一度確認してから、袋の端を外へ倒す。
クロは机の下で丸くなり、尻尾だけでこつこつと靴に触れた。
セルジオが笑って、机の影に小皿の水を置く。
「猫さん、おつかれ」
「のむ」
窓の外、風が少し変わる。
サビーネが視線だけで知らせてきた。
「広場の札、先に回す?」
ハーゲンがうなずく。
「行こう」
倉庫は終わった。渡しと宿も片がついた。
街の言葉を、もう一枚重ねる番だ。
俺たちは再び塔影を抜けた。クロがすっと立ち、尻尾をまっすぐにした。
「あるく」
◇
塔影を出ると、陽が傾きはじめていた。風は乾いて、紙の角がよく立つ。
まず広場。水飲み場の掲示は朝のまま綺麗に残っていたが、桶の縁に白い筋が薄くのびている。
布で拭きながら、イリアが新しい札を最前列に差し替えた。字は少しだけ大きく、言い回しは一段やさしく。
「“白い線を見たら、右に寄って歩く。地面では遊ばない。紙で遊ぶ”」
そばにいた子どもが三人、声に出して読む。クロが紙片を配ると、みんな嬉しそうに「にゃ」を書いた。地面に指は伸びない。
ランベルトが見回りの足を止め、掲示を一度読み上げ、子らにも聞こえる声でうなずく。
「いい。短いと覚えやすい」
鍛冶角。フーゴが鉄の板を持ち出して、焼き抜きの看板を壁の高いところに据えた。
雨でも読めるように、黒が厚い。
ミーナが紐を通し、結び目を外へ倒す。サビーネは向かい側から通りの流れを見て、立ち位置を半歩だけずらした。
「ここなら、駆け足が出ない」
市場裏へ抜ける細道は、粉が溜まりやすい風溜まりだ。
露台の陰に白が一筋、石の間にしみている。拭き取ってから札を貼り、狭い道の印に白線(紙用)を短く引く。
ちょうどその時、井戸端のほうで小さな悲鳴。
荷車の若い御者が手綱を引き損ね、馬の鼻先がさっき拭いたばかりの石の継ぎ目へ寄っていく。
ハーゲンが腕で道を示し、俺とミーナで声を合わせた。
「右へ一歩。歩いて通る」
御者はすぐに落ち着き、馬は歩きに戻った。帆布は鳴らない。
御者が深く頭を下げる。
「掲示の言葉、助かる」
「短いほうが足がそろうからね」とハーゲン。
クロは馬の腹の外に立って、真顔でこくりとした。「あるく」
露台の脚の影に、紙屑がひとひら。拾い上げると、印影の欠け――右上が薄く削れている。倉庫で拾った破片と似ていた。
イリアが裏に日付と場所を書き、薄紙に貼って控えに残す。
サビーネは気づいた視線を、そのまま細道の奥へ流した。
奥の窓辺で、灰色の指先が一瞬だけ横を切る。小柄な影が、音もなく退いた。
「追わない」とだけサビーネ。
ハーゲンが首をわずかに振り、俺たちは札の角をもう一度押さえてから、その場を離れた。
痕跡は十分。名前は、いま言葉にしない。
◆
庁舎前。書記は赤い粉の付いたえんぴつを耳に挟んで出てきた。
「張り替えの時刻を“昼と夕”で固定しよう。刻二と刻五。風でめくれた札は、角に穴を足してね」
「了解。穴補強、二枚目は高い位置に」
掲示台の前を通りかかった老職人が、「読める」と指で縁を叩き、ゆっくり歩いて行った。
たしかに、目線が上がると足も遅くなる。フーゴの黒が効いている。
路地の三叉では、風が巻く。紙角に小さな補強を付け、紐は二重。
ミーナが紙釘を一本足し、ハーゲンが端を外へ倒す。
サビーネは対角に立ち、行き交いの線をそっと通した。人の歩幅が揃っていく。
通りの端でフィオナが手を振る。
瓶の口を布で拭き、光に透かす。
「薄め一本。猫さんには塩なし。――“白い線は紙で遊ぶ”ってところ、子どもが好きだね」
「文字が大きいからです。粉は今日は薄い。明日も同じ言葉で行きます」
クロは瓶の口をそっと嗅いで、小さく「のむ」と言った。舌がちょこんとのぞく。
フィオナが目尻を下げる。「いいこ」
◆
ギルドに戻ると、ミレイユが札束を新しい袋にまとめていた。
「携帯版、作っておこうか。掌サイズ。裏に短い指図」
テーブルに薄紙と紙紐を広げ、分担して手を動かす。
俺は門番用を五枚。
イリアは学校用を五枚。
ミーナは市場用を五枚――太字で。
ハーゲンは御者宿用を五枚――絵多めで。
サビーネは巡視用を五枚――合図だけ。
束ねて袋に入れ、配布先を書いた小札を差す。結びは一回し・二結び。端は外へ倒す。
クロは椅子の上に座って、尻尾の先で袋の列を一つずつ数えるみたいにちょんちょん触れた。
「いち、に、さん……いっぱい」
「いっぱいだね」俺が笑うと、クロは胸を張る。「てつだった」
白ローブのセレナが奥から顔を出し、喉の具合をちらと見て、短く助言。
「粉の日は息を出してから声。水は一口ずつ。――猫さんは木陰、忘れないでね」
クロは真顔で小さく手を回して見せた。木陰の合図。セレナがくすっと笑う。
◆
夕方前にもう一度、三か所だけ点検。門、鍛冶角、市場裏。
門――灯りの下でも読みやすい。掲示の縁に指が触れた跡はない。
鍛冶角――焼き抜きの看板が傾きかけた陽を拾って、黒がよく見える。
市場裏――さっきの狭道の紙線が、一枚めくれていた。ミーナが結び直し、イリアが印を小さく追記する。
「めくれやすい箇所は、次は二重で」
往来の陰に、昼間と同じ小柄な影が一瞬。こちらを覗いて、すぐ消えた。
サビーネが視線だけで場所を置き、俺は通りの石の継ぎ目を軽く棒で触る。
追わない。ただ、覚えておく。右手の人差し指が白い粉で汚れていた。灰色の爪。
◆
白樺亭に戻ると、マルタが鍋を回し、リナが木椀を並べていた。
「今日は札の日だったね。声が短い」
「街の言葉をそろえると、揉めずに通れます」
「それがいちばん」
猫の皿は塩抜き。クロは前歯で少しずつ舐めて、尾を立てた。「おいしい」
食後、三か所だけ夜のもう一巡。
門――列の足は落ち着いている。
鍛冶角――黒が光を拾って視認がいい。
市場裏――狭道の小石を一つだけ内へ寄せる。風が回る角度が、昼より少し強い。
ギルドに戻って、引き継ぎ札を作る。
上段に大きく「了」、右上に日付。下に三行だけ書く。
〈橋〉は今のまま維持。
〈路〉は今日の偽装倉庫の件を関所へ引き継ぎ。
〈市〉は白い線、減りつつあるが読み合わせは続ける。
ミレイユが受け取って、次隊の札袋に差し込む。
「明日から“城下北筋の観音橋”が巡視の番。札の型は今日と同じで行く」
橋の名が新しくなる。やることは変わらない。
クロが胸の上で丸くなり、左前足の黒い点で俺の腕をちょんと突いた。
「アキラ。きょう、がんばった?」
「うん。紙で終わりを示して、次も紙で始める」
「つぎ、はし?」
「観音橋。今日の言葉のまま、橋へ持っていく」
窓を少し開けると、夜風が紙の角をやさしく撫でた。
街は静かだ。印の欠けと灰色の爪――頭の片隅に置いたまま、目を閉じる。
続きは明日。
◇
夜の気配が濃くなるころ、もう一度だけ市場裏を回った。風は止み、露台の脚がひんやりしている。
狭い裏通りの奥、倉の並びに一本だけ新しい扉があった。板の白さが、周りの灰色の壁から浮いて見える。昼間ひろった印影の欠け――右上の薄削れ――が、扉脇の封緘板にも同じ形で出ていた。
「ここだな」とハーゲン。
クロが小さく鼻を鳴らして、扉の下をのぞく。粉の匂いがほんの少し。尻尾がぴんと立つ。
「中、ひとりか、ふたり」
サビーネが奥の屋根へ視線を流し、弦に軽く指をかけた。イリアは薄紙を膝に置いて、短く見出しを書く。ミーナは紐と布を手元に寄せる。
「開ける。声は短く」
ハーゲンが拳で板を一度だけ叩くと、中で椅子がこつんと鳴った。返事はない。閂は簡単な差し金だ。俺は棒の先でそっと持ち上げ、すき間に布を挟んで音を殺す。扉が指一本ぶんだけ開く。
先に見えたのは、机の上の白い粉袋と、印の薄い札束。手元が黒く汚れた若い男が一人、さらに影の奥にもう一人。爪の縁が灰色だ。
目が合った。若い男が袋をつかんで走りかける。
「動かない」
ハーゲンが踏み込んで肩を押さえ、俺は棒で机の脚を支えて粉袋を落とさないよう止める。サビーネの矢が梁に“ドン”と刺さり、奥の影が足を止めた。矢は人に向けない。音だけで十分だ。
逃げ口の窓から小柄な影が出ようとした瞬間、クロが低く鳴いた。俺は窓の下へ回り込み、棒で窓枠を支えて開き幅を半分にする。影は体をねじって外へ消えたが、袋は置いていった。
「追わない」とサビーネ。ハーゲンもうなずく。「物と印で足りる」
残った若い男の手からは、小さな木札が落ちた。印の角が欠けている――昼に見た破片とぴたりと合う。ミーナが布越しに拾い、袋口を二結びで固める。イリアは粉袋の縫い糸、印影の欠け位置、部屋の配置を三行で落とした。
「提出物:粉袋二・欠け札一・薄い帳面半冊」
若い男はうなだれたまま、こちらを見ない。爪の際がやはり灰色だ。ハーゲンが短く問い、名前と渡しの場所だけ確かめる。これ以上は関所でやることだ。
扉を閉め、外で深呼吸を一つ。クロが俺の脛に額をこすりつけてきた。緊張がほどける。
「こわくない」
「ありがとな」
◆
関所アルダ。庇の下でセルジオが帳面を開き、薄い灯りに粉袋をかざした。匂い、重さ、縫い糸、印影。順に確かめてから、赤いチョークで“了”の帯を一本、太く足す。
「偽装倉の抑え、良し。――若い一人は詰所で預かる。逃げた小柄は追わせるが、きみらは街へ戻って掲示を一枚足せ。“白い線は紙で遊ぶ”の行を上に。子どもが最初に読む」
「了解」
「明日からは観音橋。砂の出方が夜に変わる。凡例は今日のまま運べ」
短い言葉で済む。イリアが“了”の帯の下に、三行の要点を書き足した。ミーナは提出控えに番号を入れる。クロは机の脚の影で丸くなって、緊張がほどけたのか欠伸をひとつ。
「ふわぁ」
セルジオが目を細めて笑う。「いい相棒だ」
◆
ギルドに戻ると、ミレイユが掲示副本の束を抱えて待っていた。
市場裏と学校前に、携帯版の小札をもう一段増やす。太字は少し大きく、言い回しはそのまま。
ハーゲンが短くまとめる。「倉の件は提出済み。街の言葉は維持。明日は橋」
「橋、いく」とクロ。椅子の背に前足をかけて胸を張る。尻尾が旗みたいにまっすぐ上がって、リナが笑った。
「クロ、隊長のうしろだよ」
「うしろ」
◆
白樺亭。マルタが鍋を回し、薄粥をよそってくれる。猫の分は塩抜き。
テーブルに腰をおろすと、今日の埃が一気に遠のいた。喉は少しだけ張っているが、セレナに言われたとおり水を一口ずつ。息を先に吐いてから声を出すと、楽だ。
「今日は顔が静かだね」とマルタ。「紙で片がつく日は、みんなの寝つきがいい」
「そうですね。ひとつ片付けたので」
食べ終わるころ、ギルドからの使いが小札を持ってきた。
――観音橋:明朝より巡視/札型同一/夜の砂注意
短い。分かりやすい。
部屋に戻って棒を拭き、革キャップを外して乾いた布の上に置く。粉、紙、紐を袋に分けてしまい、提出控えは一番上。クロは胸の上で丸くなり、左前足の黒い点を俺の腕にそっと当てる。
「アキラ。あした、はし」
「うん。橋。今日のやり方のまま」
「あるく」
「歩こう」
灯りを落とす前に窓を指一本ぶん開ける。夜風がほんの少し入って、紙の角がかすかに鳴った。
“終わり”は札で示した。
“続き”も、同じ札で始める。
明日は橋の名が変わるだけだ。やることは変わらない。
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