第4話 「川風の帳」
朝の白樺亭は、湯気とパンの香りが静かに立っていた。
マルタが鍋を回し、リナが皿を置く。
「昨日の詰所、評判がいいよ。夜でも子が寄りやすいってさ」
「昼も回ってみます。橋と市場角、それから倉庫裏」
クロは椅子の上で前足をそろえ、湯気に鼻先を近づける。
「あたたかいの、すき」
「ゆっくり食べよう」
角の果物屋では、フィオナが瓶の口を布で拭き、光に透かしてから渡してくれた。
「薄め一本。塩は君だけ、猫さんはなし。――“紙で知らせる”の札、朝いちで子が読んでた」
「ありがとう。今日、橋の上にも同じ文を足します」
鍛冶通りでは、フーゴが鞘の口を一度だけ確かめてうなずく。
「砂は噛んでない。雨の後は拭きで十分だ。――結びは外側に出しておけ」
「了解」
冒険者ギルド。受付のミレイユが札束の端をそろえ、地図の上に指を置いた。
「昼までに三か所。観音橋の上、広場の掲示、倉庫裏の詰所。――イリアは写しに入るから、報告は私へ口で」
白いローブのセレナが顔を出す。
「水は胃に溜めないで、口を湿らせるだけ。指の包帯は一周、結びは外側」
「はい」
クロは真顔で復唱する。
「みず、すこし」
「すこしね」
◆
観音橋は朝の川風が気持ちいい。欄干の石に手のひらを置くと、冷たさが残っている。
橋詰めの掲示には昨夜貼ったばかりの小札――“紙で知らせる/子はここを通る”――がまっすぐ出ていた。
通りの向こうから、見知った顔が歩いてくる。堰の組合のナディアだ。肩から下げた鍵束が軽く鳴る。
「おはよう。橋桁の籠、跡形なし。監視札は残したまま。昼までに一度見回る」
「助かります」
川面のきらめきを眺めながら、ナディアが少し声を落とす。
「眠り草の粉、昨夜の袋は医務で見たよ。濃くはないが、広がると厄介だ。詰所を置いたのは正解」
「紙で止められるなら、それがいちばんいい」
「それでも目は増やす。川は目が多いほど静かになる」
別れ際、ナディアは鍵束を一つ指で弾いて見せた。「昼過ぎ、堰の半目を試す。音が聞こえたら数えてみて」
「分かりました」
橋の上の札を一枚増やす。“紙で知らせる/地面には書かない”。字は太く、言葉は二行だけ。
紐を結んでいると、クロが欄干に前足をかけ、川下の影をじっと見た。
「した、うごいた」
水鳥が二羽、低く飛び立っていった。緊張は流す。列は歩きのまま進む。橋は今日も大丈夫だ。
◆
広場。水飲み場の桶は朝から人が絶えない。掲示の前で、母親が子の手を軽く押さえて声に出す。
「地面に書かない。紙に書く」
子はうなずいて、薄紙に「ねこ」と大きく書いた。指は地面へ降りない。
俺は桶の縁を布で一度拭い、控えに短く落とす。
「広場・指跡なし・掲示読まれた」
古道具屋のオズワルドが店先から顎を上げる。
「倉庫裏、今朝は静かだ。詰所の灯りが効いてる。――お前さんの短い札、商人は助かる」
「読まれる札を目指します」
「そうこなくちゃな」
◆
倉庫裏の詰所。昨夜の梯子と覆いが、そのまま朝の光に白く見えた。衛兵の若いのが二人、掲示を読み上げている。
「“紙で知らせる。子はここを通る”」
読み終えると、一人が帽子のつばを直して笑った。
「読むと自分も落ち着く。不思議だ」
詰所の陰に、小さな影が立った。昨日、紙を書いた子だ。背に小袋を負っている。母親の姿はない。
「おはよう」
「……おはよう」
言いづらそうに口元を噛んでから、胸の前へ袋を出した。
「これ、わたしてって、いわれた」
袋はあの女が昨夜置いていったものと同じ小ささ。口の結びは雑。
「ここで開けていい?」
子はこくりとうなずく。俺は清潔布で包んでから、紐を解く。中身は乾いた粉。色は浅い黄。香りは、苦い。
「これ、どこで」
「にしの路地。朝の鐘のあと。紙のひとが、ね、あのひとじゃない」
「“紙のひと”?」
「白い紙をいつも持ってる。字を書くとき、手がよごれてる」
「どこが」
「ここ」
子は自分の薬指の横を指でこすった。薄く灰がつくみたいに、そこだけ濃い、と。
衛兵の若いのが詰所の中で目を合わせる。合図はひとつだけ。慌てない。今は子を先に帰す。
「届けてくれて、ありがとう。ここ通って帰ろう。――これからは、袋は受け取らなくていい」
「うん」
詰所から出ると、クロが子の足にすり、と体を当てた。
「ここ、とおる」
子は笑って、薄紙をぎゅっと握りなおした。
袋は布で包んだまま、医務のセレナへ。
白い部屋でセレナは手を洗い、布越しに袋を軽く押して香りを嗅ぐ。
「眠り草の系統。量は少ない。ばらまくより、売ることを考えてるはず」
「子が“紙のひと”と言いました。薬指の横が灰色に汚れていたと」
「なら、書きものを職業にしているか、粉を紙で扱う者か。――詰所の札は当分置いて。子の通り道を安全に」
「続けます」
セレナは包帯細を一周、俺の指に巻いてくれた。
「今日の報告は口で。字はイリアが整えるから。――喉は問題なし。水は一口ずつ」
◆
昼。ギルドに戻ると、ミレイユが聞き取りのために卓上を片付けてくれた。
「三か所、どうだった?」
「橋は静か。広場は掲示が読まれてる。倉庫裏は子が袋を持ってきた。セレナへ渡した。――子は“紙のひと”。薬指の横が灰で汚れていたと言っていた」
「“紙のひと”、ね」
ミレイユは地図の倉庫筋に赤の小点を二つ、ゆっくり打つ。
「倉庫裏の文具屋と、裏路地の写し屋。紙で小遣いを稼がせる相手がいるとしたら、ここから先。……関所にも一本入れておく」
「お願いします」
彼女は札束から“午後の回り先”の小札を三枚抜いて渡した。
「観音橋の上に“昼の足も歩きで”を一行。広場の掲示はそのまま。倉庫裏は見張りを衛兵一人増やす。――声は短く」
「了解」
クロが短く復唱する。
「みじかく」
笑いが少し漏れる。緊張がほどける。
◆
観音橋に戻ると、川風がすこし強くなっていた。上手の見印棒は朝と同じ。堰のほうからは小さな鈴の音が一度。
欄干の札に“昼も歩きで”を太字で一行足す。行商人が足を止めて読み、うなずいて通り過ぎる。
橋を下りる途中、紙束を持った男が視界の端をかすめた。背は高くない。髪を布でまとめ、指先に墨の跡。右手の薬指の横だけ、灰色が濃い。
俺と視線が交わると、彼はすっと目を外し、人ごみに紛れた。走らない。こちらも走らない。
ただ、顔を覚える。歩きながら、心の中で輪郭をなぞる。
クロが小さく鳴いた。
「いまの、におい、すこし」
「覚えておこう」
市場角へ出ると、露店の陰で昼餉の支度が始まっていた。鍋の音、野菜を切る音、商人の声。
掲示の前で、母親が子の手をとってまた声に出す。
「地面に書かない。紙に書く」
言葉は短いのに、表情は柔らかい。ゆっくり伝わっていくのが分かる。
午後は倉庫裏の見張りがもう一度。詰所の影で、衛兵がひとり増えていた。
若い兵が軽く敬礼する。
「今日は二人で回すことになりました。――子が通りやすくなります」
「お願いします」
路地の奥から、紙束を胸に持った影が一度こちらを見る。朝の男と、よく似ていた。
近づいては来ない。こちらも近づかない。
詰所の札を一枚、新しくする。“紙で知らせる/子はここを通る/夜は灯りあり”
字を太く引き、角を二結びで止める。
夕方になる前に、もう一度橋を見て、広場をなぞる。
どこも大きな変化はない。
歩きの列は歩きのまま。
掲示の言葉が、人の声になって返ってくる。
日が傾き始めた。関所アルダへ寄って、口で短くまとめる。
セルジオは聞き終えると、紙用の白粉と、赤い粉を少しだけ渡してくれた。
「字を太く。夜前の一重が効く」
「受けます」
夜の手前、白樺亭へ戻る。
マルタが帳場を指で軽く叩く。
「今日は顔の力が抜けてる。――薄粥、猫さんは塩抜き」
「お願いします」
クロは前歯で静かに粥を舐め、尾を立てた。
「おいしい」
食後、道具を整える。
清潔布、薄紙、紐、包帯細。
明日は、詰所に紙を補充してから、橋と広場をもう一度。
“紙のひと”の顔を、忘れないように。
灯りを落とす前、窓を指二本ぶんだけ開けた。
川の気配が入ってくる。
クロが胸の上で丸くなり、左前足の黒い点をそっと押し当てる。
「アキラ。あしたも、あるく?」
「歩く。短く言って、確かめていく」
「うん」
夜は静かに降りてきた。
街は掲示を読む。
明日はもう一歩だけ、先へ。
◇
朝の白樺亭。湯気が上がり、皿のふちが温かい。
マルタが鍋を回し、リナがパンを切る。
「今日はどこを回る?」
「観音橋と倉庫裏。それから文具屋と写し屋を順に見ます」
「無理はしない。猫さんは塩抜き」
「のむ」クロは真面目な顔でうなずいた。
角の果物屋で薄めの果実水を受け取り、瓶の口を布で拭う。
フィオナが声を潜めた。
「昨日、“紙のひと”の話を聞いたわ。うちの常連じゃないけど、昼前に西路地を抜ける小柄なのがいる。指が灰っぽい」
「西路地、見てみます。ありがとう」
鍛冶通り。フーゴは鞘の口と小刀の背を軽く眺め、短くうなずいた。
「昨日と同じでいい。道具は静かに動く。……忘れ物はないか?」
「布と紐を増やしました」
「それで十分だ」
ギルドに顔を出すと、受付のミレイユが地図を机に広げてくれた。
「倉庫裏の詰所は衛兵二人体制で続行。文具屋と写し屋は“声をかけるだけ”。踏み込みはしない。関所への報告は私が通す」
白いローブのセレナが奥から現れ、短く添える。
「子どもが来たら、まず水を一口。話はそのあと。――アキラ、喉は問題なし。息をためないこと」
「はい」
◆
倉庫街の文具屋は、古い木の看板がきしむ小さな店だった。
店主は指先に薄い墨の跡。薬指の横は……きれいだ。
「紙を小さく切った束があれば」
「五十枚束で銅一。端紙なら半分」
束を受け取りつつ、店の奥に目をやる。糊壺、糸巻き、印の古い箱。怪しいところは見当たらない。
「昨日、この辺りで“灰の指”の人を見ませんでしたか」
「写し屋のほうじゃないかね。昼前に客が流れる」
写し屋は西路地の曲がり角にあった。硝子越しに細い机が三つ、壁に貼り見本が二枚。
出てきた男は細身で、中背。髪を布で束ね、目は疲れて見える。
右手の薬指の横だけ、たしかに灰が濃い。
「紙を何束か。子の字の練習に使います」
「どんな大きさで」
「このくらい」
束を受け取りながら、さりげなく声を置く。
「昨日、倉庫裏で子が粉の袋を届けに来ました。ああいうのは危ない。渡さないよう、言ってください」
男の目がわずかに揺れ、すぐに笑みに戻る。
「そうですね。紙は紙の上で。路地は掃いてもまた汚れる」
会話はそこで切った。追わない。
外へ出ると、クロが小声で言った。
「いまの、すこし、にがいにおい」
「覚えておこう」
◆
昼近く、観音橋。欄干の陰に腰かけた子らが、紙に「にゃ」「ふね」「はし」を並べて書いている。
“紙で知らせる/地面には書かない”の札の前に、町の年寄りが立ち止まり、ゆっくり声に出した。
「書くのは紙。いい札だ」
橋詰めの衛兵は、通りの流れを見ながら軽く会釈。
橋の下手、堰のほうから鈴が一度。水面の光がわずかに揺れた。
ナディアが遠くで手を上げる。半目の試験だ。
数を心で数えて、また歩く。
橋を降りたところで、さっきの写し屋の男が路地の角に立っていた。紙束を胸に抱え、視線は低い。
こちらに気づくと、道の端へ寄る。すれ違いざま、俺は声をやわらかくかけた。
「子に紙を渡す時は、詰所を通してください。夜は灯りがある」
男の肩が一度だけ固くなり、すぐにほどけた。
「……覚えます」
そのまま西の陰へ消えていく。足は速くない。やはり追わない。
クロが尾を立て、真顔でつぶやく。
「おと、ちいさいひと。くつ、すりへり、みぎ」
右の踵が擦れている――歩き癖だ。覚えておく。
◆
午後、広場。水飲み場の掲示はそのまま。桶の縁に指跡はない。
古道具屋のオズワルドが横に来て声を落とす。
「写し屋、見たか」
「見た」
「ここだけの話だが、文具の束を少しばかり“裏”でさばく連中がいる。帳面を通すと税がかかるからな」
「どこで」
「鐘が二つ鳴るころ、西路地の曲がり。人が薄くなる時間だ」
「ありがとう。関所へ口で通します」
倉庫裏の詰所に戻ると、衛兵のランベルトが短くまとめてくれた。
「昼の見回りで、“紙のひと”に声をかけた。返事は丁寧、足は速くない。怪しければ、まず詰所で止める」
「こちらも同じで動きます」
路地の奥から、軽い足音。子が二人、紙束を抱えて走りかけ――掲示を見て歩きに変えた。
「紙で知らせる。地面には書かない」
「おぼえた」
そのやり取りだけで、空気が静かになる。言葉が先に走ると、足は走らない。
◆
日が傾きはじめる頃、関所アルダ。
詰所の前で、セルジオが帳面を開いた。
「倉庫裏、どうだ」
「詰所の札は効いています。子は紙を持って通る。“紙のひと”は写し屋に一人。薬指の横が灰色。走らない。西路地の曲がりで束の受け渡しの噂」
「記す」
セルジオは赤い粉を指でひとなでし、地図に小さな点を足した。
「夜の詰所は灯りを少し強めろ。――踏み込みはまだ早い。札を増やして、人の流れを細くする」
「了解」
ミレイユへも口で落とすと、彼女は札束の端を揃えた。
「明日の昼、子ども向けの“紙の練習板”を広場で配ろう。薄紙を板に仮止めして、店ごとに一枚。……“紙で知らせる/道には置かない”の文を上に印刷しておく」
「いいと思います」
セレナがさっと現れ、俺の指を一周だけ包帯で留めた。
「今日は声がよく届いてた。夜はお茶を薄く。猫さんは水で十分」
「のむ」クロは鼻先を上げる。
◆
白樺亭へ戻る途中、西路地を一度だけ覗く。
夕暮れの影が長く、露店が店をたたむ音だけが響く。
曲がり角の石畳に、紙の端が一枚。拾って匂いを嗅ぐ。酸の匂い――写しの定着に使う酢。
クロが首をかしげる。
「すっぱい。きのうと、おなじ」
「手が灰で汚れて、酢の匂い……写しの仕事だ」
落ち紙は布に包んでギルドへ渡すことにした。
白樺亭。
マルタが帳場から顔を上げる。
「掲示を見たよ。字が太いと、目が止まる。――薄粥、猫さんは塩抜き」
「お願いします」
リナがクロの背を撫でる。
「クロ、今日はよく歩いたね」
「あるいた」
食後、道具を整える。薄紙、紐、布、板を少し。
窓を少し開けると、川から涼しい気配。
クロが胸の上で丸くなり、左前足の黒い点を俺の腕にそっと当てた。
「アキラ。“紙のひと”、また、くる?」
「来ると思う。走らずに見る。言うことは短く」
「うん」
灯りを落とす。
明日は広場で“紙の練習板”を配り、橋と倉庫裏をもう一度。
子が紙に字を書く間は、路地は静かになる。
それだけでいい夜がある。今日は、それでいい。
◇
翌日、広場の石畳に板を三枚並べて、薄紙を仮止めした。上段には太字で一行――「書くのは紙。道には置かない」。
子どもたちは並び順を覚えたのか、順番を守って座る。木炭を握る小さな指が、丸や線を真剣に追った。
「“にゃ”って、こう?」
「うん。耳をとがらせると猫っぽい」
年配の男が掲示を読み上げ、うなずく。
「書いてしまえば、足は止まる。なるほどな」
衛兵の若いのが桶のそばで見張り、時折、静かに水を替えた。広場は終始、穏やかだった。
昼過ぎ、クロが尻尾を立てて西を見た。
「にし、におい」
昨日、噂を聞いた西路地の曲がり――鐘が二つ鳴る頃、人が薄くなる。足を向ける。
◆
曲がり角は、昼の熱が抜けかけて少しひんやりしている。石壁に貼られた古い張り紙が、端でめくれていた。
路地の向こうから、写し屋の男がやってくる。胸に紙束、視線は低い。その後ろを、痩せた少年が袋を抱えて急ぎ足でついてくる。少年の靴は右の踵だけすり減り、歩幅が不自然だった。クロの言ったとおりだ。
男は角で立ち止まり、袋を抱えた少年に手を伸ばす。そこへ、さらにもう一人、薄灰の手袋をはめた小柄な人物が影から現れた。顔は布で隠してある。袋と紙束が入れ替わる。その手袋の指先に、白い粉が少し付いた。
通りに面した家の前では、馬をつないだ御者が荷を整えている。鼻がぴくりと動き、馬は地面に顔を下げかけた。白い粉が細い線になって、足もとの石の目地にわずかに溜まっている。
「クロ、下がって」
「うん」
俺は馬の前へ出て、御者に一言だけ。
「顔を上げて。歩いて右へ寄せてください」
御者が頷く。俺はそっと息を整え、掌の内側で風を小さく回した。地面の粉はふわ、と薄く散り、線が切れる。馬の鼻先が上がった。御者は歩調を保ったまま、馬を右の乾いた石へ導く。帆布は静かだ。
角の三人がこちらを見た。手袋の人物が身を引き、少年が戸惑って足を止める。写し屋の男の目だけが揺れた。俺は追い込まない距離を保ち、声を落とす。
「その袋はどこで受け取りました?」
少年が口を開く前に、手袋の人物が肩に触れる。少年の体がぐにゃりと揺れて、足が路地の陰へ向きかけた。
「待って。危ない物なら、詰所に渡してください」
言い切る前に、クロが短く鳴いた。
「うしろ」
背中側の細い抜け道から、小石が一つ、音を立てて転がる。俺は振り向かず、石畳の隙間に棒の先を軽く差し入れて、転がった石の進路を変えた。石は俺の足をかすめず、角の反対側へ逸れる。
衛兵のランベルトが、ちょうど巡回の折り返しで角を曲がってきた。
「どうした」
俺は短く状況を告げる。
「紙束の受け渡し。粉の線。馬を誘う気配。袋は少年が持っています」
ランベルトは少年へ視線を落とし、膝を折って目線を合わせた。
「ここで待て。大人の話は、詰所でゆっくりやる」
少年の喉が上下し、やがて小さく頷いた。手袋の人物は一歩退く。逃げる素ぶりは見せない。写し屋の男は目を閉じ、吐息を細くした。
「袋の中を見てもいいか」
ランベルトの問いに、少年が迷って俺を見る。俺はうなずく。
「ここで開けると風に飛ぶ。詰所に持って行こう」
男と手袋の人物にも声をかける。
「あなた方も一緒に。話は短く終わります」
拒む気配はなかった。三人は隊列の後ろにつき、歩きだした。クロは最後尾で様子を見ながら、時折ふり返る。
「だいじょうぶ」
◆
詰所の机に袋を置く。ランベルトが布をめくり、ほんのひとつまみだけ、指で掬った。
甘い匂い。白い粉は、ほこりと混じると線になり、馬や子どもの目を引く。
「提出物として預かる。――これは誰に渡すはずだった」
ランベルトの静かな声に、少年が小さく肩を震わせる。写し屋の男が前へ出た。
「私です」
「理由を」
「……紙の代金の穴埋めです。帳面を通さずに束を出した。足りない分を、粉で返せと言われた。断れば、店を潰すと」
手袋の人物は沈黙を保つ。視線は一度も上がらない。
ランベルトが短く息をつき、紙に走り書きする。
「聞き取りはここまで。名前は後で聞く。子は先に親へ返す。店は帳面を見に行く。――アキラ、関所で“西路地の角・受け渡しの疑い”として渡してくれ」
「分かりました」
出る間際、写し屋の男が俺にだけ聞こえる声で言った。
「昨日、あなたが言った“紙は紙で”の言葉は、本当にまっすぐでした。……店を片づけます」
「やめるんですか」
「続けるために、今日の形をやめます」
答えはそれだけ。手袋の人物は衛兵に付き添われ、別室へ消えた。
◆
関所アルダ。セルジオが紙を受け取り、眉をわずかに寄せる。
「やっと、線が見えてきたな」
俺は見たままをそのまま話す。粉の線、馬の反応、風で散らしたこと、少年の踵、写し屋の指の灰。
セルジオは地図に小さな鉛筆の点を足し、赤い印を細く引いた。
「札を増やすのは続ける。子どもの板も続ける。それと――路地の角の灯りを、今夜から一つ増やそう」
「はい」
「それから、君の“風”。あれは役に立つ。ただ、見せびらかすな」
「分かっています」
詰所を出ると、川風が少し強くなっていた。観音橋の欄干から見下ろすと、水面に夕陽の道ができている。
◆
白樺亭へ戻る途中、写し屋の店先に灯りがひとつ。男が外に立って、札を直していた。壁には新しい紙が一枚。
〈練習紙あります/帳面通し〉
短く頷き合い、通り過ぎる。クロが小声で言った。
「きょう、よかった?」
「危ない場面はあったけれど、誰も怪我をしなかった。十分だ」
白樺亭。
マルタが鍋を回し、リナが木椀を置く。
「顔つきが静かだね。いい日だった?」
「重いことはありました。でも、進みました」
「なら食べな。薄粥、猫さんは塩抜き」
「のむ」クロは律儀に答える。
食後、セレナがふらりと立ち寄り、喉の様子を確認した。
「声の出し方を覚えたね。水は少しで足りる」
「板のおかげです。子どもが静かに座ると、大人も座ります」
「言葉は伝染するから」
部屋で道具を拭き、紐の端をもう一度確かめる。紙を三束に分け、明日の分を袋に入れた。
窓を少し開けると、川から冷たい空気が入ってきた。
クロが胸の上に乗り、黒い点を軽く押しつける。
「あした、また、ひるにいた?」
「広場と橋を回って、それから写し屋をもう一度見る。関所にも顔を出す」
「いく」
灯りを落とす。
今日の角で交わされた短い言葉が、耳の奥で静かに並ぶ。
“紙は紙で”。
まずはそこからでいい。明日も、それを積み上げる。
◇
夕暮れが街を薄く染め、観音橋の欄干に赤い帯が残った。
西路地の角では、灯り職のヤコブが脚立を立て、新しいランタンを吊るしている。芯には蜜蝋が混じって、風に揺れても火が弱りにくいという。俺は脚立の足を押さえ、クロは足もとを見張った。
「ここが暗いと、子どもが怖がるからね」
ヤコブは芯を摘まんで火を整え、ガラスを閉じる。
「詰所からの伝言は届いてる。灯油は一樽追加。――お前さんの“紙の板”、うちの孫が真似してるよ」
「書く場所があれば、道は静かになります」
「そういうもんだ」
ランタンに灯が入る。角がひとつ、やわらかく明るくなる。
路地の石目に残っていた白い薄帯は昼のうちに拭われ、今は見えない。鼻先を少し上げたクロが、小さくうなずいた。
「におい、すこしもない」
掲示の端を指でならし、紙紐の結び目をもう一度確かめる。
「紙を紙で済ませる。今日もそれでいく」
誰に言うでもなくつぶやくと、クロが「うん」とだけ返した。
◆
橋のたもとで風が向きを変えた。水面から夜の匂いが上がってくる。
マルタに頼まれた用事を済ませ、白樺亭に戻る前に、写し屋の前を通る。戸は半分開いていて、灯が細く漏れていた。
男は机に向かって紙束を揃え、帳面をひとつずつめくっている。
「こんばんは」
顔を上げた目は、昼より落ち着いていた。
「帳合い、やり直してます。――あの子の袋、助かりました」
「詰所に渡したので、後は向こうで片がつきます。あなたは明日も店を開けますか」
「開けます。練習紙の札は、もう貼りました」
戸を出ると、軒の柱の下に小さな擦れ跡が二本、斜めに並んでいた。粉ではない。煤と灰。爪で軽く触ると、線は薄く指に移る。
クロが低く鳴く。
「さっきはなかった」
「誰かが目印を残したか」
指先の黒を布で拭い、跡をぼやかしておく。記号の意味はまだ分からない。けれど、ここに見ている目がある――それだけは確かだ。
◆
広場へ戻ると、子どもたちの板はもう片づけられていて、石畳だけが冷えている。桶の縁には新しい布が掛けられ、衛兵の若いのが「お疲れさん」と笑って手を振った。
夜の張り紙をひとつだけ足す。昼間と同じ言葉を、文字だけ少し太く。
短い文章でも、夜は輪郭がはっきりしているほうが読みやすい。
角の果物屋では、フィオナが店を閉める前に栓を拭いていた。
「今日の角、明るくなったね」
「ヤコブが急いでくれました。書く場所を増やした分、灯りも増やさないと」
「灯りは人の背中をゆっくりにする。……はい、薄め一本。猫さんは塩なし」
「のむ」クロが律儀に返事する。フィオナは笑って頭を撫でた。
◆
白樺亭。カウンターの上には、昼間に預かった割引札が一枚。
マルタが鍋を回しながらこちらを見る。
「角は済んだ?」
「済みました。灯りもひとつ増えました」
「それなら、今夜はゆっくり食べな。薄粥、猫さんは塩抜き」
「お願いします」
粥の湯気は優しくて、身体の強ばりがほどけていく。
リナがクロの背をそっと撫で、耳のふちをくすぐると、黒い点のある前足がきゅっと丸くなった。
「クロ、今日もよく見てたね」
「みてた」
食後、セレナが立ち寄って、喉を軽くさすってくれた。
「声の出し方、変わってきた。はじめに短く吐けてる。――紙の仕事は続けていい。体はついていく」
「続けます」
彼女はクロの皿に水を足し、いたずらっぽく片眉を上げた。
「塩は、なし」
「のむ」と、今日三回目の返事。
◆
寝る前に、道具を拭く。棒の革キャップは乾いている。紙紐の端は外側へ落ち、結び目は小さい。
窓を少しだけ開けると、川風が薄紙の角をひとなでしていく。
昼の角、少年の踵、写し屋の帳面、軒の二本の擦れ。
明日の予定を胸の中で並べる。広場の板をもう一束。橋の札を一枚書き換え。関所で灯油の帳合い。写し屋の柱は、昼の人通りの中でさりげなく見ておく。
「アキラ」
胸の上に乗ったクロが、左前足の黒い点をそっと押しつける。
「きょう、だれも、ころばなかった」
「うん。誰も倒れてない。だから続けられる」
「つづける」
灯りを落とす。
川の向こうで、夜の鳥が短く鳴いた。ランタンの新しい芯が、風のたびに小さく息をする。
眠りに落ちる直前、柱の下の二本の擦れが、瞼の裏に細い影を描いた。
明日、あの印の意味に、もう一歩近づけるかもしれない。
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