第4話 「川風の帳」

 朝の白樺亭は、湯気とパンの香りが静かに立っていた。

 マルタが鍋を回し、リナが皿を置く。


「昨日の詰所、評判がいいよ。夜でも子が寄りやすいってさ」

「昼も回ってみます。橋と市場角、それから倉庫裏」


 クロは椅子の上で前足をそろえ、湯気に鼻先を近づける。

「あたたかいの、すき」

「ゆっくり食べよう」


 角の果物屋では、フィオナが瓶の口を布で拭き、光に透かしてから渡してくれた。

「薄め一本。塩は君だけ、猫さんはなし。――“紙で知らせる”の札、朝いちで子が読んでた」

「ありがとう。今日、橋の上にも同じ文を足します」


 鍛冶通りでは、フーゴが鞘の口を一度だけ確かめてうなずく。

「砂は噛んでない。雨の後は拭きで十分だ。――結びは外側に出しておけ」

「了解」


 冒険者ギルド。受付のミレイユが札束の端をそろえ、地図の上に指を置いた。

「昼までに三か所。観音橋の上、広場の掲示、倉庫裏の詰所。――イリアは写しに入るから、報告は私へ口で」

 白いローブのセレナが顔を出す。

「水は胃に溜めないで、口を湿らせるだけ。指の包帯は一周、結びは外側」

「はい」

 クロは真顔で復唱する。

「みず、すこし」

「すこしね」



 観音橋は朝の川風が気持ちいい。欄干の石に手のひらを置くと、冷たさが残っている。

 橋詰めの掲示には昨夜貼ったばかりの小札――“紙で知らせる/子はここを通る”――がまっすぐ出ていた。


 通りの向こうから、見知った顔が歩いてくる。堰の組合のナディアだ。肩から下げた鍵束が軽く鳴る。

「おはよう。橋桁の籠、跡形なし。監視札は残したまま。昼までに一度見回る」

「助かります」

 川面のきらめきを眺めながら、ナディアが少し声を落とす。

「眠り草の粉、昨夜の袋は医務で見たよ。濃くはないが、広がると厄介だ。詰所を置いたのは正解」

「紙で止められるなら、それがいちばんいい」

「それでも目は増やす。川は目が多いほど静かになる」


 別れ際、ナディアは鍵束を一つ指で弾いて見せた。「昼過ぎ、堰の半目を試す。音が聞こえたら数えてみて」

「分かりました」


 橋の上の札を一枚増やす。“紙で知らせる/地面には書かない”。字は太く、言葉は二行だけ。

 紐を結んでいると、クロが欄干に前足をかけ、川下の影をじっと見た。

「した、うごいた」

 水鳥が二羽、低く飛び立っていった。緊張は流す。列は歩きのまま進む。橋は今日も大丈夫だ。



 広場。水飲み場の桶は朝から人が絶えない。掲示の前で、母親が子の手を軽く押さえて声に出す。

「地面に書かない。紙に書く」

 子はうなずいて、薄紙に「ねこ」と大きく書いた。指は地面へ降りない。

 俺は桶の縁を布で一度拭い、控えに短く落とす。

「広場・指跡なし・掲示読まれた」


 古道具屋のオズワルドが店先から顎を上げる。

「倉庫裏、今朝は静かだ。詰所の灯りが効いてる。――お前さんの短い札、商人は助かる」

「読まれる札を目指します」

「そうこなくちゃな」



 倉庫裏の詰所。昨夜の梯子と覆いが、そのまま朝の光に白く見えた。衛兵の若いのが二人、掲示を読み上げている。

「“紙で知らせる。子はここを通る”」

 読み終えると、一人が帽子のつばを直して笑った。

「読むと自分も落ち着く。不思議だ」


 詰所の陰に、小さな影が立った。昨日、紙を書いた子だ。背に小袋を負っている。母親の姿はない。

「おはよう」

「……おはよう」

 言いづらそうに口元を噛んでから、胸の前へ袋を出した。

「これ、わたしてって、いわれた」

 袋はあの女が昨夜置いていったものと同じ小ささ。口の結びは雑。

「ここで開けていい?」

 子はこくりとうなずく。俺は清潔布で包んでから、紐を解く。中身は乾いた粉。色は浅い黄。香りは、苦い。

「これ、どこで」

「にしの路地。朝の鐘のあと。紙のひとが、ね、あのひとじゃない」

「“紙のひと”?」

「白い紙をいつも持ってる。字を書くとき、手がよごれてる」

「どこが」

「ここ」

 子は自分の薬指の横を指でこすった。薄く灰がつくみたいに、そこだけ濃い、と。

 衛兵の若いのが詰所の中で目を合わせる。合図はひとつだけ。慌てない。今は子を先に帰す。

「届けてくれて、ありがとう。ここ通って帰ろう。――これからは、袋は受け取らなくていい」

「うん」

 詰所から出ると、クロが子の足にすり、と体を当てた。

「ここ、とおる」

 子は笑って、薄紙をぎゅっと握りなおした。


 袋は布で包んだまま、医務のセレナへ。

 白い部屋でセレナは手を洗い、布越しに袋を軽く押して香りを嗅ぐ。

「眠り草の系統。量は少ない。ばらまくより、売ることを考えてるはず」

「子が“紙のひと”と言いました。薬指の横が灰色に汚れていたと」

「なら、書きものを職業にしているか、粉を紙で扱う者か。――詰所の札は当分置いて。子の通り道を安全に」

「続けます」


 セレナは包帯細を一周、俺の指に巻いてくれた。

「今日の報告は口で。字はイリアが整えるから。――喉は問題なし。水は一口ずつ」



 昼。ギルドに戻ると、ミレイユが聞き取りのために卓上を片付けてくれた。

「三か所、どうだった?」

「橋は静か。広場は掲示が読まれてる。倉庫裏は子が袋を持ってきた。セレナへ渡した。――子は“紙のひと”。薬指の横が灰で汚れていたと言っていた」

「“紙のひと”、ね」

 ミレイユは地図の倉庫筋に赤の小点を二つ、ゆっくり打つ。

「倉庫裏の文具屋と、裏路地の写し屋。紙で小遣いを稼がせる相手がいるとしたら、ここから先。……関所にも一本入れておく」

「お願いします」


 彼女は札束から“午後の回り先”の小札を三枚抜いて渡した。

「観音橋の上に“昼の足も歩きで”を一行。広場の掲示はそのまま。倉庫裏は見張りを衛兵一人増やす。――声は短く」

「了解」

 クロが短く復唱する。

「みじかく」

 笑いが少し漏れる。緊張がほどける。



 観音橋に戻ると、川風がすこし強くなっていた。上手の見印棒は朝と同じ。堰のほうからは小さな鈴の音が一度。

 欄干の札に“昼も歩きで”を太字で一行足す。行商人が足を止めて読み、うなずいて通り過ぎる。


 橋を下りる途中、紙束を持った男が視界の端をかすめた。背は高くない。髪を布でまとめ、指先に墨の跡。右手の薬指の横だけ、灰色が濃い。

 俺と視線が交わると、彼はすっと目を外し、人ごみに紛れた。走らない。こちらも走らない。

 ただ、顔を覚える。歩きながら、心の中で輪郭をなぞる。

 クロが小さく鳴いた。

「いまの、におい、すこし」

「覚えておこう」


 市場角へ出ると、露店の陰で昼餉の支度が始まっていた。鍋の音、野菜を切る音、商人の声。

 掲示の前で、母親が子の手をとってまた声に出す。

「地面に書かない。紙に書く」

 言葉は短いのに、表情は柔らかい。ゆっくり伝わっていくのが分かる。


 午後は倉庫裏の見張りがもう一度。詰所の影で、衛兵がひとり増えていた。

 若い兵が軽く敬礼する。

「今日は二人で回すことになりました。――子が通りやすくなります」

「お願いします」


 路地の奥から、紙束を胸に持った影が一度こちらを見る。朝の男と、よく似ていた。

 近づいては来ない。こちらも近づかない。

 詰所の札を一枚、新しくする。“紙で知らせる/子はここを通る/夜は灯りあり”

 字を太く引き、角を二結びで止める。


 夕方になる前に、もう一度橋を見て、広場をなぞる。

 どこも大きな変化はない。

 歩きの列は歩きのまま。

 掲示の言葉が、人の声になって返ってくる。


 日が傾き始めた。関所アルダへ寄って、口で短くまとめる。

 セルジオは聞き終えると、紙用の白粉と、赤い粉を少しだけ渡してくれた。

「字を太く。夜前の一重が効く」

「受けます」


 夜の手前、白樺亭へ戻る。

 マルタが帳場を指で軽く叩く。

「今日は顔の力が抜けてる。――薄粥、猫さんは塩抜き」

「お願いします」

 クロは前歯で静かに粥を舐め、尾を立てた。

「おいしい」


 食後、道具を整える。

 清潔布、薄紙、紐、包帯細。

 明日は、詰所に紙を補充してから、橋と広場をもう一度。

 “紙のひと”の顔を、忘れないように。


 灯りを落とす前、窓を指二本ぶんだけ開けた。

 川の気配が入ってくる。

 クロが胸の上で丸くなり、左前足の黒い点をそっと押し当てる。

「アキラ。あしたも、あるく?」

「歩く。短く言って、確かめていく」

「うん」


 夜は静かに降りてきた。

 街は掲示を読む。

 明日はもう一歩だけ、先へ。



 朝の白樺亭。湯気が上がり、皿のふちが温かい。

 マルタが鍋を回し、リナがパンを切る。


「今日はどこを回る?」

「観音橋と倉庫裏。それから文具屋と写し屋を順に見ます」

「無理はしない。猫さんは塩抜き」

「のむ」クロは真面目な顔でうなずいた。


 角の果物屋で薄めの果実水を受け取り、瓶の口を布で拭う。

 フィオナが声を潜めた。

「昨日、“紙のひと”の話を聞いたわ。うちの常連じゃないけど、昼前に西路地を抜ける小柄なのがいる。指が灰っぽい」

「西路地、見てみます。ありがとう」


 鍛冶通り。フーゴは鞘の口と小刀の背を軽く眺め、短くうなずいた。

「昨日と同じでいい。道具は静かに動く。……忘れ物はないか?」

「布と紐を増やしました」

「それで十分だ」


 ギルドに顔を出すと、受付のミレイユが地図を机に広げてくれた。

「倉庫裏の詰所は衛兵二人体制で続行。文具屋と写し屋は“声をかけるだけ”。踏み込みはしない。関所への報告は私が通す」

 白いローブのセレナが奥から現れ、短く添える。

「子どもが来たら、まず水を一口。話はそのあと。――アキラ、喉は問題なし。息をためないこと」

「はい」



 倉庫街の文具屋は、古い木の看板がきしむ小さな店だった。

 店主は指先に薄い墨の跡。薬指の横は……きれいだ。

「紙を小さく切った束があれば」

「五十枚束で銅一。端紙なら半分」

 束を受け取りつつ、店の奥に目をやる。糊壺、糸巻き、印の古い箱。怪しいところは見当たらない。

「昨日、この辺りで“灰の指”の人を見ませんでしたか」

「写し屋のほうじゃないかね。昼前に客が流れる」


 写し屋は西路地の曲がり角にあった。硝子越しに細い机が三つ、壁に貼り見本が二枚。

 出てきた男は細身で、中背。髪を布で束ね、目は疲れて見える。

 右手の薬指の横だけ、たしかに灰が濃い。

「紙を何束か。子の字の練習に使います」

「どんな大きさで」

「このくらい」

 束を受け取りながら、さりげなく声を置く。

「昨日、倉庫裏で子が粉の袋を届けに来ました。ああいうのは危ない。渡さないよう、言ってください」

 男の目がわずかに揺れ、すぐに笑みに戻る。

「そうですね。紙は紙の上で。路地は掃いてもまた汚れる」

 会話はそこで切った。追わない。

 外へ出ると、クロが小声で言った。

「いまの、すこし、にがいにおい」

「覚えておこう」



 昼近く、観音橋。欄干の陰に腰かけた子らが、紙に「にゃ」「ふね」「はし」を並べて書いている。

 “紙で知らせる/地面には書かない”の札の前に、町の年寄りが立ち止まり、ゆっくり声に出した。

「書くのは紙。いい札だ」

 橋詰めの衛兵は、通りの流れを見ながら軽く会釈。

 橋の下手、堰のほうから鈴が一度。水面の光がわずかに揺れた。

 ナディアが遠くで手を上げる。半目の試験だ。

 数を心で数えて、また歩く。


 橋を降りたところで、さっきの写し屋の男が路地の角に立っていた。紙束を胸に抱え、視線は低い。

 こちらに気づくと、道の端へ寄る。すれ違いざま、俺は声をやわらかくかけた。

「子に紙を渡す時は、詰所を通してください。夜は灯りがある」

 男の肩が一度だけ固くなり、すぐにほどけた。

「……覚えます」

 そのまま西の陰へ消えていく。足は速くない。やはり追わない。

 クロが尾を立て、真顔でつぶやく。

「おと、ちいさいひと。くつ、すりへり、みぎ」

 右の踵が擦れている――歩き癖だ。覚えておく。



 午後、広場。水飲み場の掲示はそのまま。桶の縁に指跡はない。

 古道具屋のオズワルドが横に来て声を落とす。

「写し屋、見たか」

「見た」

「ここだけの話だが、文具の束を少しばかり“裏”でさばく連中がいる。帳面を通すと税がかかるからな」

「どこで」

「鐘が二つ鳴るころ、西路地の曲がり。人が薄くなる時間だ」

「ありがとう。関所へ口で通します」


 倉庫裏の詰所に戻ると、衛兵のランベルトが短くまとめてくれた。

「昼の見回りで、“紙のひと”に声をかけた。返事は丁寧、足は速くない。怪しければ、まず詰所で止める」

「こちらも同じで動きます」


 路地の奥から、軽い足音。子が二人、紙束を抱えて走りかけ――掲示を見て歩きに変えた。

「紙で知らせる。地面には書かない」

「おぼえた」

 そのやり取りだけで、空気が静かになる。言葉が先に走ると、足は走らない。



 日が傾きはじめる頃、関所アルダ。

 詰所の前で、セルジオが帳面を開いた。

「倉庫裏、どうだ」

「詰所の札は効いています。子は紙を持って通る。“紙のひと”は写し屋に一人。薬指の横が灰色。走らない。西路地の曲がりで束の受け渡しの噂」

「記す」

 セルジオは赤い粉を指でひとなでし、地図に小さな点を足した。

「夜の詰所は灯りを少し強めろ。――踏み込みはまだ早い。札を増やして、人の流れを細くする」

「了解」


 ミレイユへも口で落とすと、彼女は札束の端を揃えた。

「明日の昼、子ども向けの“紙の練習板”を広場で配ろう。薄紙を板に仮止めして、店ごとに一枚。……“紙で知らせる/道には置かない”の文を上に印刷しておく」

「いいと思います」


 セレナがさっと現れ、俺の指を一周だけ包帯で留めた。

「今日は声がよく届いてた。夜はお茶を薄く。猫さんは水で十分」

「のむ」クロは鼻先を上げる。



 白樺亭へ戻る途中、西路地を一度だけ覗く。

 夕暮れの影が長く、露店が店をたたむ音だけが響く。

 曲がり角の石畳に、紙の端が一枚。拾って匂いを嗅ぐ。酸の匂い――写しの定着に使う酢。

 クロが首をかしげる。

「すっぱい。きのうと、おなじ」

「手が灰で汚れて、酢の匂い……写しの仕事だ」

 落ち紙は布に包んでギルドへ渡すことにした。


 白樺亭。

 マルタが帳場から顔を上げる。

「掲示を見たよ。字が太いと、目が止まる。――薄粥、猫さんは塩抜き」

「お願いします」

 リナがクロの背を撫でる。

「クロ、今日はよく歩いたね」

「あるいた」


 食後、道具を整える。薄紙、紐、布、板を少し。

 窓を少し開けると、川から涼しい気配。

 クロが胸の上で丸くなり、左前足の黒い点を俺の腕にそっと当てた。

「アキラ。“紙のひと”、また、くる?」

「来ると思う。走らずに見る。言うことは短く」

「うん」


 灯りを落とす。

 明日は広場で“紙の練習板”を配り、橋と倉庫裏をもう一度。

 子が紙に字を書く間は、路地は静かになる。

 それだけでいい夜がある。今日は、それでいい。



 翌日、広場の石畳に板を三枚並べて、薄紙を仮止めした。上段には太字で一行――「書くのは紙。道には置かない」。

 子どもたちは並び順を覚えたのか、順番を守って座る。木炭を握る小さな指が、丸や線を真剣に追った。


「“にゃ”って、こう?」

「うん。耳をとがらせると猫っぽい」


 年配の男が掲示を読み上げ、うなずく。

「書いてしまえば、足は止まる。なるほどな」

 衛兵の若いのが桶のそばで見張り、時折、静かに水を替えた。広場は終始、穏やかだった。


 昼過ぎ、クロが尻尾を立てて西を見た。

「にし、におい」

 昨日、噂を聞いた西路地の曲がり――鐘が二つ鳴る頃、人が薄くなる。足を向ける。



 曲がり角は、昼の熱が抜けかけて少しひんやりしている。石壁に貼られた古い張り紙が、端でめくれていた。

 路地の向こうから、写し屋の男がやってくる。胸に紙束、視線は低い。その後ろを、痩せた少年が袋を抱えて急ぎ足でついてくる。少年の靴は右の踵だけすり減り、歩幅が不自然だった。クロの言ったとおりだ。


 男は角で立ち止まり、袋を抱えた少年に手を伸ばす。そこへ、さらにもう一人、薄灰の手袋をはめた小柄な人物が影から現れた。顔は布で隠してある。袋と紙束が入れ替わる。その手袋の指先に、白い粉が少し付いた。


 通りに面した家の前では、馬をつないだ御者が荷を整えている。鼻がぴくりと動き、馬は地面に顔を下げかけた。白い粉が細い線になって、足もとの石の目地にわずかに溜まっている。


「クロ、下がって」

「うん」


 俺は馬の前へ出て、御者に一言だけ。

「顔を上げて。歩いて右へ寄せてください」

 御者が頷く。俺はそっと息を整え、掌の内側で風を小さく回した。地面の粉はふわ、と薄く散り、線が切れる。馬の鼻先が上がった。御者は歩調を保ったまま、馬を右の乾いた石へ導く。帆布は静かだ。


 角の三人がこちらを見た。手袋の人物が身を引き、少年が戸惑って足を止める。写し屋の男の目だけが揺れた。俺は追い込まない距離を保ち、声を落とす。


「その袋はどこで受け取りました?」

 少年が口を開く前に、手袋の人物が肩に触れる。少年の体がぐにゃりと揺れて、足が路地の陰へ向きかけた。


「待って。危ない物なら、詰所に渡してください」

 言い切る前に、クロが短く鳴いた。

「うしろ」


 背中側の細い抜け道から、小石が一つ、音を立てて転がる。俺は振り向かず、石畳の隙間に棒の先を軽く差し入れて、転がった石の進路を変えた。石は俺の足をかすめず、角の反対側へ逸れる。


 衛兵のランベルトが、ちょうど巡回の折り返しで角を曲がってきた。

「どうした」

 俺は短く状況を告げる。

「紙束の受け渡し。粉の線。馬を誘う気配。袋は少年が持っています」

 ランベルトは少年へ視線を落とし、膝を折って目線を合わせた。

「ここで待て。大人の話は、詰所でゆっくりやる」

 少年の喉が上下し、やがて小さく頷いた。手袋の人物は一歩退く。逃げる素ぶりは見せない。写し屋の男は目を閉じ、吐息を細くした。


「袋の中を見てもいいか」

 ランベルトの問いに、少年が迷って俺を見る。俺はうなずく。

「ここで開けると風に飛ぶ。詰所に持って行こう」

 男と手袋の人物にも声をかける。

「あなた方も一緒に。話は短く終わります」


 拒む気配はなかった。三人は隊列の後ろにつき、歩きだした。クロは最後尾で様子を見ながら、時折ふり返る。

「だいじょうぶ」



 詰所の机に袋を置く。ランベルトが布をめくり、ほんのひとつまみだけ、指で掬った。

 甘い匂い。白い粉は、ほこりと混じると線になり、馬や子どもの目を引く。

「提出物として預かる。――これは誰に渡すはずだった」

 ランベルトの静かな声に、少年が小さく肩を震わせる。写し屋の男が前へ出た。

「私です」

「理由を」

「……紙の代金の穴埋めです。帳面を通さずに束を出した。足りない分を、粉で返せと言われた。断れば、店を潰すと」

 手袋の人物は沈黙を保つ。視線は一度も上がらない。

 ランベルトが短く息をつき、紙に走り書きする。

「聞き取りはここまで。名前は後で聞く。子は先に親へ返す。店は帳面を見に行く。――アキラ、関所で“西路地の角・受け渡しの疑い”として渡してくれ」

「分かりました」


 出る間際、写し屋の男が俺にだけ聞こえる声で言った。

「昨日、あなたが言った“紙は紙で”の言葉は、本当にまっすぐでした。……店を片づけます」

「やめるんですか」

「続けるために、今日の形をやめます」

 答えはそれだけ。手袋の人物は衛兵に付き添われ、別室へ消えた。



 関所アルダ。セルジオが紙を受け取り、眉をわずかに寄せる。

「やっと、線が見えてきたな」

 俺は見たままをそのまま話す。粉の線、馬の反応、風で散らしたこと、少年の踵、写し屋の指の灰。

 セルジオは地図に小さな鉛筆の点を足し、赤い印を細く引いた。

「札を増やすのは続ける。子どもの板も続ける。それと――路地の角の灯りを、今夜から一つ増やそう」

「はい」

「それから、君の“風”。あれは役に立つ。ただ、見せびらかすな」

「分かっています」


 詰所を出ると、川風が少し強くなっていた。観音橋の欄干から見下ろすと、水面に夕陽の道ができている。



 白樺亭へ戻る途中、写し屋の店先に灯りがひとつ。男が外に立って、札を直していた。壁には新しい紙が一枚。

〈練習紙あります/帳面通し〉

 短く頷き合い、通り過ぎる。クロが小声で言った。

「きょう、よかった?」

「危ない場面はあったけれど、誰も怪我をしなかった。十分だ」


 白樺亭。

 マルタが鍋を回し、リナが木椀を置く。

「顔つきが静かだね。いい日だった?」

「重いことはありました。でも、進みました」

「なら食べな。薄粥、猫さんは塩抜き」

「のむ」クロは律儀に答える。


 食後、セレナがふらりと立ち寄り、喉の様子を確認した。

「声の出し方を覚えたね。水は少しで足りる」

「板のおかげです。子どもが静かに座ると、大人も座ります」

「言葉は伝染するから」


 部屋で道具を拭き、紐の端をもう一度確かめる。紙を三束に分け、明日の分を袋に入れた。

 窓を少し開けると、川から冷たい空気が入ってきた。

 クロが胸の上に乗り、黒い点を軽く押しつける。

「あした、また、ひるにいた?」

「広場と橋を回って、それから写し屋をもう一度見る。関所にも顔を出す」

「いく」


 灯りを落とす。

 今日の角で交わされた短い言葉が、耳の奥で静かに並ぶ。

 “紙は紙で”。

 まずはそこからでいい。明日も、それを積み上げる。



 夕暮れが街を薄く染め、観音橋の欄干に赤い帯が残った。

 西路地の角では、灯り職のヤコブが脚立を立て、新しいランタンを吊るしている。芯には蜜蝋が混じって、風に揺れても火が弱りにくいという。俺は脚立の足を押さえ、クロは足もとを見張った。


「ここが暗いと、子どもが怖がるからね」

 ヤコブは芯を摘まんで火を整え、ガラスを閉じる。

「詰所からの伝言は届いてる。灯油は一樽追加。――お前さんの“紙の板”、うちの孫が真似してるよ」


「書く場所があれば、道は静かになります」

「そういうもんだ」


 ランタンに灯が入る。角がひとつ、やわらかく明るくなる。

 路地の石目に残っていた白い薄帯は昼のうちに拭われ、今は見えない。鼻先を少し上げたクロが、小さくうなずいた。

「におい、すこしもない」


 掲示の端を指でならし、紙紐の結び目をもう一度確かめる。

「紙を紙で済ませる。今日もそれでいく」

 誰に言うでもなくつぶやくと、クロが「うん」とだけ返した。



 橋のたもとで風が向きを変えた。水面から夜の匂いが上がってくる。

 マルタに頼まれた用事を済ませ、白樺亭に戻る前に、写し屋の前を通る。戸は半分開いていて、灯が細く漏れていた。


 男は机に向かって紙束を揃え、帳面をひとつずつめくっている。

「こんばんは」

 顔を上げた目は、昼より落ち着いていた。

「帳合い、やり直してます。――あの子の袋、助かりました」

「詰所に渡したので、後は向こうで片がつきます。あなたは明日も店を開けますか」

「開けます。練習紙の札は、もう貼りました」


 戸を出ると、軒の柱の下に小さな擦れ跡が二本、斜めに並んでいた。粉ではない。煤と灰。爪で軽く触ると、線は薄く指に移る。

 クロが低く鳴く。

「さっきはなかった」

「誰かが目印を残したか」

 指先の黒を布で拭い、跡をぼやかしておく。記号の意味はまだ分からない。けれど、ここに見ている目がある――それだけは確かだ。



 広場へ戻ると、子どもたちの板はもう片づけられていて、石畳だけが冷えている。桶の縁には新しい布が掛けられ、衛兵の若いのが「お疲れさん」と笑って手を振った。

 夜の張り紙をひとつだけ足す。昼間と同じ言葉を、文字だけ少し太く。

 短い文章でも、夜は輪郭がはっきりしているほうが読みやすい。


 角の果物屋では、フィオナが店を閉める前に栓を拭いていた。

「今日の角、明るくなったね」

「ヤコブが急いでくれました。書く場所を増やした分、灯りも増やさないと」

「灯りは人の背中をゆっくりにする。……はい、薄め一本。猫さんは塩なし」

「のむ」クロが律儀に返事する。フィオナは笑って頭を撫でた。



 白樺亭。カウンターの上には、昼間に預かった割引札が一枚。

 マルタが鍋を回しながらこちらを見る。

「角は済んだ?」

「済みました。灯りもひとつ増えました」

「それなら、今夜はゆっくり食べな。薄粥、猫さんは塩抜き」

「お願いします」


 粥の湯気は優しくて、身体の強ばりがほどけていく。

 リナがクロの背をそっと撫で、耳のふちをくすぐると、黒い点のある前足がきゅっと丸くなった。

「クロ、今日もよく見てたね」

「みてた」


 食後、セレナが立ち寄って、喉を軽くさすってくれた。

「声の出し方、変わってきた。はじめに短く吐けてる。――紙の仕事は続けていい。体はついていく」

「続けます」

 彼女はクロの皿に水を足し、いたずらっぽく片眉を上げた。

「塩は、なし」

「のむ」と、今日三回目の返事。



 寝る前に、道具を拭く。棒の革キャップは乾いている。紙紐の端は外側へ落ち、結び目は小さい。

 窓を少しだけ開けると、川風が薄紙の角をひとなでしていく。

 昼の角、少年の踵、写し屋の帳面、軒の二本の擦れ。

 明日の予定を胸の中で並べる。広場の板をもう一束。橋の札を一枚書き換え。関所で灯油の帳合い。写し屋の柱は、昼の人通りの中でさりげなく見ておく。


「アキラ」

 胸の上に乗ったクロが、左前足の黒い点をそっと押しつける。

「きょう、だれも、ころばなかった」

「うん。誰も倒れてない。だから続けられる」

「つづける」


 灯りを落とす。

 川の向こうで、夜の鳥が短く鳴いた。ランタンの新しい芯が、風のたびに小さく息をする。

 眠りに落ちる直前、柱の下の二本の擦れが、瞼の裏に細い影を描いた。

 明日、あの印の意味に、もう一歩近づけるかもしれない。


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