第16話 ナイタイ高原の夕暮れ
5月も、もう半ば。
ゴールデンウィークの賑わいが嘘のように過ぎ去り、ゲストハウス「麦風」にも、穏やかな日常が戻ってきた。
木々は、遅い春を取り戻すかのように一斉に芽吹き始め、ライラックの甘い香りが風に乗って運ばれてくる。
新しい高校生活にも、麦風でのお手伝いにも、少しずつ慣れてきた。
みのりちゃんという最高の友達もできた。それなのに、私の心には、薄いもやのようなものがかかっていた。
原因は、たぶん、東京の友達から送られてきた一枚の写真。
『みんなでカラオケ!』というメッセージと共に写っていたのは、見慣れた顔ぶれの、楽しそうな笑顔だった。
私がいなくても、世界は当たり前に回っていく。
その当たり前の事実に、胸がきゅっと締め付けられた。
魔女の修行も、まだほとんど進んでいない。
――このままで、私は本当に一人前の魔女になれるんだろうか。
十勝に来た時のあの決意が、少しだけ揺らいでいた。
「おい、あかり。ちょっと付き合え」
学校から帰り、カウンターでぼんやりと外を眺めていた私の背中に、ぶっきらぼうな声がかかった。
振り返ると、ピックアップトラックの鍵を指でくるくると回しながら、葵さんが立っていた。
「どこかへお出かけですか?」
「ん、まあな。いいから、行くぞ」
有無を言わさぬ口調。こういう時の葵さんには、何を言っても無駄だということを、私は最近学んだ。
私は「はい」と頷くと、葵さんの後を追いかけた。
***
行き先も告げられないまま、私はピックアップトラックの助手席に乗せられた。
車は市街地を抜け、どこまでも続くような一本道を北へ向かって走り出す。
窓の外には、ようやく芽吹き始めた白樺やナナカマドの若葉が、春の日差しを浴びてキラキラと輝いている。
でも、その遥か向こうに見える大雪の山々は、まるで冬を忘れたかのように、まだ真っ白な雪の帽子をかぶっていた。
この、季節が混じり合う不思議な景色が、今の私の心の中みたいだ、とぼんやり思った。
車は、やがて「ナイタイ高原牧場」という看板を横切り、急な坂道をぐんぐん登り始めた。
しばらく走り続けると、視界がぱっと開けた。
車は、丘の頂上にある展望台の駐車場でゆっくりと停まった。
「わ……」
車を降りた瞬間、私は息をのんだ。
そこは、空に一番近い場所みたいだった。
眼下には、広大な牧草地が地平線の彼方まで続いている。
そのスケールは、今まで見てきた十勝の景色とは比べ物にならないくらい、圧倒的だった。
肌を撫でる風は、少しひんやりとしている。
「すごい……」
「だろ? とっておきの場所なんだ」
葵さんは、売店で買ってきた缶コーヒーを、私にぽんと投げてよこした。
葵さんは、車のボンネットに寄りかかると、ポケットから煙草を一本取り出して、慣れた手つきで火をつけた。そして、ふうっと紫煙を吐き出す。
「ありがとうございます」
温かい缶コーヒーを両手で包み込む。
葵さんは、自分の煙草を指に挟んだまま、黙って景色を眺めている。
しばらく、二人で黙っていた。聞こえるのは、風の音と、遠くで鳴く鳥の声だけ。
その静寂を破ったのは、葵さんだった。
「……この車さ」
ぽつりと、独り言のように呟く。
「親父が、このゲストハウスを始めるために、なけなしの金はたいて買った、夢の塊みたいな車だったんだよ」
「お父さんが……」
「ああ。脱サラして、母さんと二人で、旅人がいつでも帰ってこられる宿を作るんだって、息巻いててな。このデカいトラックがあれば、資材も運べるし、お客さんの送迎もできるって、ガキみたいに喜んでた」
葵さんは、愛おしそうに、トラックのボディをそっと撫でた。
「でも、その夢の途中で、親父は事故で死んだ」
その言葉は、あまりにも淡々としていて、私は何と返事をすればいいのかわからなかった。
「親父がいなくなって、一時はもう、全部やめちまおうって思った。母さんを一人、帯広に残して、私は札幌で好き勝手やってたしな。宿も、この車も、全部売っ払って、過去なんて捨てちまおうって」
でも、できなかった、と葵さんは続けた。
葵さんは、短くなった煙草を携帯灰皿に押し込むと、遠くの残雪の山々に視線を向けた。
「帯広に戻ってきて、どうしようもなく全部が嫌になった時、よく一人でここに来たんだ。この車に乗って、この景色を、日が暮れるまで、ただぼーっと見てた」
いつも快活で、誰よりも強くて、何もかも乗り越えてきたように見えた葵さん。
そんな彼女にも、こんな風に、一人で膝を抱えていた時間があったんだ。
「そしたらさ、なんだか思えてくんだよな。親父に、『お前、それでいいのか』って、背中をど突かれてる気がして。私が、母さんと一緒に、親父の夢の続きを見なきゃダメなんだって」
葵さんにとって、このピックアップトラックは、ただの父の形見じゃない。
悲しみを乗り越えて、ここで生きていくという、彼女自身の覚悟の象徴なんだ。
いつも私を乗せてくれる、この助手席。それは、葵さんの強さと、優しさと、そしてほんの少しの寂しさが詰まった、特別な場所だったんだ。
葵さんの話を聞いていたら、私の心の中のもやが、目の前の雄大な景色に吸い込まれていくように、すうっと消えていくのがわかった。
東京の友達のこと、進まない修行のこと。そんな私の悩みは、葵さんが乗り越えてきたものに比べたら、なんてちっぽけなんだろう。
「……葵さんは、強いですね」
私がようやく絞り出した言葉に、葵さんは「そうか?」と、少し照れくさそうに笑った。
「強くならなきゃ、やってられなかっただけだよ」
その横顔は、夕陽に照らされて、いつもよりずっと、綺麗に見えた。
空が、オレンジ色から深い藍色へと変わっていく。一番星が、瞬き始めた。
「さ、そろそろ帰るか。腹減ったろ」
葵さんは、いつもの調子でそう言うと、運転席に乗り込んだ。
帰り道、私は窓の外を流れる夜景を見ながら、考えていた。
(私も、ここで頑張ろう)
葵さんが覚悟を決めた、この美しい場所で。
迷ったり、落ち込んだりすることもあるかもしれないけど、その時は、またこの景色を思い出そう。
そう決めたら、なんだか、すごくお腹がすいてきた。
助手席で小さくお腹を鳴らした私に気づいたのか、バックミラー越しに、葵さんがにやりと笑った気がした。
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