幽体X
大窟凱人
幽体X
気がつくと俺は、俺を見下ろしていた。力なく倒れている俺の頭からは血が流れ、アスファルトの地面を黒く染めていく。
……え?
周囲を見渡すと夜だった。暗い静寂に閉ざされた森。その中で知らない家が木々に囲まれて建っている。どうやら、ちょっとした別荘のようだ。ここはその駐車場で、人の気配はない。
この状況を把握するべく、記憶をたどろうとした。だけど……俺は……誰だ?
「――っ!」
ふと目に入った手が透けている。青白い透明な両手をかざすと、向こう側に横たわる俺が見えた。ほかにも見てみると、服は着ているがいずれも半透明だった。
……そうか。俺は、死んでしまったのか。
記憶はないが、この状況がそう告げている。
今の俺は幽霊なんだ。
自分が誰かもわからないまま人生終了って、唐突すぎる。なんだよこれ。意味わからねえよ。
それに、記憶喪失のせいか殺されたことに対する怒りもない。まるで他人事だ。
これから俺はどうなるんだ? 天国にいくのか? それとも地獄か?
戸惑っていると、自分の霊体から一本の紐のようなものが伸びていることに気づいた。
霊体と同じく、青白くて半透明な紐は倒れている自分……本体と繋がっている。
これは、もしかして……
俺は本体に近づき、心臓に耳を押し当てた。すると――
ㇳㇰ……ㇳㇰ……
微弱な心音だった。
生きてる! まだ息があるぞ!
今の俺は霊魂が飛び出している幽体離脱状態ってことか。意識が回復すれば、きっと霊魂も体に戻って、記憶だって蘇るはず!
おーし。絶対助けてやるからな本体。待ってい――
右手に違和感を覚えた。
見ると、右手の人差し指と親指の部分が黒く変色していた。変色しているだけじゃない。変質している。死人のように生気のない皮膚はひび割れ、その隙間からは闇が覗いていた。濁った爪は湾曲していて肉食獣を思わせる。
胸が苦しくなってきた。悪寒が止まらない。
黒い指を振り払おうと手を上下に動かす。何度も。何度も何度も何度も。だめだ。まったく剥がれない。それどころか侵食している。
こんな時に……! と、とにかく急ごう。優先すべきは本体の救助だ。頭を回せ。
連絡手段はあるか? まずは本体のポケットに目を向けた。スマホが入っているであろう膨らみを発見し手を伸ばす。案の定、霊体では物質をつかめない。
じゃあ、あの別荘はどうだ? 誰かいるかもしれない。
……いやまて。
頭を殴打されているということは、誰かと争っていてやられたということだ。その犯人は俺を殺したと思って逃げ去ったはず。あそこに行っても無駄足になる可能性が高い。
後ろを振り返ると、駐車場から伸びているアスファルトで舗装された山道が目に入る。木々が生い茂り、暗くて先が見えないが、ここを進んでいけば車道に出るはずだ。
俺は駆け出した。
すると、霊体が浮いた。無重力の宇宙空間にいるみたいに飛ぶ。
これなら息切れもなさそうだし、車道まですぐにたどり着けそうだ。走ってる車を見つけて助けを求めるつもりだけど……幽霊状態の俺のことを認識できる人が簡単に見つかるとは思えない。勝算は低い。低すぎるが、今はこれしか思いつかない。
しばらく進んでいくと、森の暗がりの向こう側にヘッドライトがきらめくのが見えた。
やった! 車だ!
木々の間を行き来するライトに猛烈なありがたみを感じつつ、速度を上げようとした。だが。
「はっ……ふう……」
あれ? なんだか苦しく――
「は……はぁっ……っあ……くっ」
お、おかしい。霊体なんだから息切れなんて……
「――ッ!」
再び、右手に違和感。いや、右手だけじゃない。
「うぐうっ! うぁぁぁああああああああああっっっ!!!」
全身だ。
あの黒い変質が……まばらではあるが拡大していた。胴体、足、服も関係なく。顔までは確認できないが、ひどいことになってそうだ。
「ア、アギギギギ……グギャギャギャ」
俺の意思とは無関係に、不気味な笑い声が口から洩れた。
な、なんだ今の声は。まるで俺が俺でないみたいだ。俺が俺でないなにかに支配されていく。
そのうえ、歪でグロテスクなイメージが次々と湧いてくる。異常で、無残で、絶望的な人の死の映像。俺はこんなこと思ってない。思いたくない。
邪悪な霊体なんて、こんなの……あ、あれじゃないか。
悪霊。悪霊だ。
原因はなんだ。自分の体との距離が開いてしまったからか? 本体と繋がっている紐は、あきらかに細くなっている。それとも、時間が経過したら勝手にこうなるものなのか? その両方か?
どうする。戻るか。
――だめだ。戻ったところで同じだ。たぶん、この黒いのが全身を覆いつくすのがタイムリミット。もちろん、俺の本体が死んでもバットエンドだ。行け! 諦めるな!
アスファルトの道を抜け、目的地の車道についた。一車線の典型的な山道。両サイドは夜の森に囲まれていた。だが、さっき見たように車通りはある。
「うぅ……」
黒い変質は、確実に進行していた。別荘にある本体から離れれば離れるほど、時間が経てば経つほど、意志が脆弱になっていく。本体との繋がりも……。心なしか、思考も鈍っているような気がする。
じ、時間がない。
そう考えていると、真っ暗な車道が小さく光った。希望の光、ヘッドライトだ。
「きた!」
もう夜なんだ。チャンスはそう多くない。
俺は車道の真ん中に立ちふさがった。
「おーい! 助けてくれー!」
両手を上げ、走ってくる車に振る。だが、車のスピードは落ちない。小さかった光が大きさを増していく。
「お、おいおいおい! 止まれって! 止まれ! くっ、だめか! ――はっ?」
接近する車から反射的に退くそれよりも前に、ヘッドライドの光が俺の体――霊体に直射した。
「いっ……ぎゃぁぁぁあああ!!!」
火炎放射器を吹き付けられているかのような激痛だった。
ヘッドライトの光は霊体を焼き尽くさんとし、たまらず車道の外に逃げた。
「はぁっ……はぁっ……うそだろ」
車は通りすぎ、山道の暗がりへ消えてしまった。
闇と静寂が戻る。
ひんやりとして心地いい……それに、焼かれた霊体が回復していってるみたいだ。闇に紛れていると自然にそうなるのか。これは助かる。だけど、幽体離脱した体が光に弱いとは。運転手も俺に気づく気配はまったくなかった。
とはいえ、変質のことを考えるとこれ以上先へ進むのは無理だ。ここでヘッドライトの光に注意しながら俺の存在を感じ取れる人間が現れるのを……奇跡が起きるのを待つしかないってのか。
次にやってきた車に対しては直前までライトが当たらない位置で待機し、横から運転手への接触を試みた。
失敗。数秒間、運転手に触れながら大声で叫んでみたが至近距離でも効果はなかった。
さらにもう1台……失敗。車に乗り込んで食らいついてみようと考えたが、移動距離のせいで黒い変質化が激しくなりだめだった。
数分後……また失敗。失敗。失敗……
車が現れる間隔も長くなってきている。
同じことの繰り返し。どうしたって物体に触れないんじゃ、気づいてもらえない。無人島で遭難しているみたいだ。なにか、なにかいい方法はないのか。
このままではもう……
だめだ、諦めちゃだめだ。本体を助けて、記憶を取り戻さないと。自分が誰なのか知らないまま死ぬなんてあんまりだ。いやだ、誰か、助けてくれよ。ちくしょう。なんで……なんでこんな目に合わなくちゃならなねえんだよ!
お、俺がなにをしたっていうんだ! ふざけんじゃねえ……
間抜けな俺の本体め。なにを殴られやがる。そもそも本体を殺そうとしたやつ……どこのどいつだか知らないが、絶対に許さない。悪霊に成り果てようが絶対に見つけ出して殺してやる。ただじゃ殺さない、想像を絶する、死すら生ぬるい痛みを与えて殺す。呪う。呪ってやる。許さない。殺してやる腸を食らってやる呪ってやる目玉をくり抜いてやる殺してやる脳みそをすすってやる許さない千回刺してやる殺してやるすべての骨を一本ずつ砕いてやる呪ってやる皮膚をゆっくり剝がしてやる呪ってやる灼熱の鉄板で焼いてやる何度も何度も切り刻んで殺る殺してやる殺しっしっしっ死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
その時だった。
「――あ?」
睨みつけた視界に飛び込んできたのは、周囲の変化。浮かんでいる……小石やそこそこ大きな石、土草、潰れた空き缶までも宙に浮かんでいた。
なん……だ……?
思考停止し、その異様な光景を眺めた。が、少しすると浮いていた無数の物体は浮力を失って、いっせいに地面に落下した。
「これは……」
試しに、足元の砂利に向かって浮くように念じてみた。一握りの分の砂利が浮かび上がり、目の前で静止した。
すごい。ついさっきまで触れることさえ叶わなかった物体に干渉できている。今俺の本体との繋がりを感じ取れているのと同じように、目の前の砂利とは特別な繋がりを感じるな。黒い変質の副産物ってところか。これならいけるかもしれない。範囲はどこまでだ?
次の車がやってくるまでの間、このサイコキネシスのような力がどの程度のものなのか試行錯誤した。その結果、使えるのは3m以内。木を折ったり大きすぎる岩を持ち上げることはできないものの5、6kg程度ならいける。高速ではないが、それを範囲内で動かすこともできた。ただし、手の指で行うような細かく複雑なことは難しい。
物を動かすのは簡単だった。対象を支配しようとすればいい。命令し、使役する。従え、俺のために動け、逆らったら殺す。脅し、屈服させるように意識を向けることで、より自由に動かすことができた。
でも、そうするたびに黒い変質が進んだ箇所が膿んだように脈動する。自分が飲み込まれそうになる。悍ましい考えが次々と湧いてくる。物を自由に支配することに快楽さえ覚える。
なんだってんだこれは。死んだ人間はみんなこうなるのか? そんなわけあるか? だけど、まあ……おかげで見えてきた。
ふと、静寂を突き破ってエンジン音が耳に飛び込む。
山道の奥からヘッドライトだ。おそらくこれが最後の車。最後のチャンス。
ライトの当たらない木のふもとに移動し、待機してから、さっき試しに持ち上げていた人の頭ほどの大きさの岩を空中に浮かせる。
車が近づく。速い……山道なのをいいことにスピードを出しすぎているな。おかげで難易度が上がった。まあいい、カウントダウンをはじめよう。
エンジン音が大きくなる。
目標を視認。全意識を集中しろ――……今だ!
浮かせた岩を車のフロントガラスに落とし、直撃。
衝撃音とともに車体はバランスを崩し、少しばかりS字に走ってから急停止した。
「悪いな! 見ず知らずの人! あとで弁償するから!」
すぐさま車に駆け寄った。
車はシルバーの軽自動車。乗っていたのは大人の若い女性だった。長髪でほんのり日に焼けている。ラフな格好をしているあたり、地元の人間かもしれない。
事故のショックでパニック、もしくは放心状態だろう。申し訳ないが、こっちも緊急事態。その車ごと付き合ってくれ。
――剥がれろ!
そう念じ、岩を落とされ半壊しているフロントガラスを吹き飛ばした。
「きゃぁぁああ!?」
車のドアをすり抜け助手席に移動し、そこから車のハンドル、アクセル、ブレーキ、ギア、ハンドブレーキの位置を確認。意識を固定した。
わかる。車の運転はできるな。俺の本体は車の免許をもっている。この点は褒めてやるぞ本体。
ギアをドライブに。ハンドブレーキを下ろし、アクセルを踏み込む。
「え? なに?」
驚く彼女を半ば無視して、ハンドルを右へ――別荘のある方へ切り、森の中へと車を走らせた。
「なんなの!? ちょっ! ひっ、ひぃぃぃ!!!」
悲痛な叫びが車内にこだまし恐怖が充満する。罪悪感と快楽が交互に押し寄せてきた。
いい声で啼く……爪を剥がせ。そうしたらもっと……
――おい! やめろ! この人には到着してから救急車を呼んでもらわなきゃならん! 黙れ!
悪霊の薄汚い欲望を押さえつけ、アクセルを強く踏んだ。ヘッドライトの照らす光が夜の闇を切り裂きながら進んでいく。
別荘に戻ってきた。
俺はライトを消し、本体のすぐ近くで車を停止させ彼女が気づくように誘導する。だが、彼女は運転席で丸くなって怯えていた。
それもそのはず。ここに来るまでの道中、ドアを開けて車から飛び降りようとする彼女に対し、ドアを完全ロックした。鍵が開いているのにピクリともしないドア、自動走行する車……
彼女はひとしきり喚いたあと、静かになった。異常な状況ではあるが、危害が加えられてこないため警戒するに留めたようだ。
一方、俺はというと黒い変質の進行がもうすでに7割に到達していた。本体の近くに戻ってきたため進行スピードは和らいだが、時間の問題。急がなければ、魂も肉体も死ぬ。なにより、自我が飲み込まれたらこの黒く変質したバケモン――悪霊が野に解き放たれるということだ。どんな災いを世にもたらすか想像に難くない。
それともうひとつ。今までずっと感じてきた違和感の正体がわかった。どうやら俺は、勘違いしていたらしい。
不思議だったんだ。記憶がないとはいえ、本体は自分なはずなのに、どうしても他人のように感じてしまうことが。
霊の紐で繋がっている本体を見つめた。やっぱりそうだ。霊体に慣れてきた今ならわかる……本体の中には、霊魂がある。俺のとは違う、もうひとつの存在。
本体に意識を固定し、霊魂を肉体から引き剝がすと、ゆらゆらと水中を漂うように霊体が浮かび上がった。本体の霊体だ。目を閉じて深い眠りについている。
本体は殴打され気を失ったときに幽体離脱したが、離脱したのは分裂してしまった本体の魂の一部に過ぎなかったんだ。
壊れた人形から欠け落ちたひとつの小さな破片。それが俺。
していたのは幽体離脱ではなく幽体分裂。
となると、悪霊化は不完全な霊体だったために起きたバグなのかも。正確な原因は不明だが。
これが、本体が自分自身であるという認識はありつつも、どこか他人のようにも感じていた理由だと思う。別人なんだ。俺と本体は。
はは。記憶がないわけだ。
ただ……本体との繋がりは強固だ。引力がある。俺が子で本体が親の関係性だろうな。本体が起きたら俺は体に回収される。それは間違いない。その時、どうなってしまうのだろ。
本体の魂に取り込まれるのか。それとも結合せずに、二重人格として生き続けるのか。大前提、取り込まれて存在が消えるなんてことは嫌だ。死んだも同然だ。二重人格になったとして、主導権は俺にあるのか、こいつにあるのか。俺は俺の本体がどんなやつなのかまったく知らない。戻ってもいいのか? 本体はまともなやつなのか? 俺を拒絶するような奴なら、取り込まれくても存在を消されてしまうかもしれない。運よく消されなかったとしても、一生付属品として生きていくしかないって可能性の方が高いじゃないか。
なにを迷う必要がある?
悪霊が囁く。甘い誘惑だった。最低だってことはわかってる。でも考えずにはいられない。
黒い変質化は確かに自分が自分でなくなるが、あくまで変質化。存在が消えるわけじゃない。邪悪な欲望に身を投じているとき、凄まじい快楽で全身が満たされた。アレをまた味わうことができるのなら自我や世の中がどうなろうとかまわない、なんて思えるほどの快楽に。幽霊の世界がどうなっているのかはわからないが、誰にも邪魔されず、自由に生命を弄べるはずだ。
本体は救えるが、二重人格として不自由な人生を送るのか。
本体を殺し、悪霊になってでも快楽と自由を手にするのか。
どっちも最悪だ。本体が助かってくれればそれで良かったのに、こんなこと、知りたくなかった。
どっちの選択肢も、囚われの身ということには変わりない。善か悪かの違い。そもそも本体が善人な保証もない。こんなとこで襲われているような奴だぞ。実はこいつが殺人犯だったりしてな。こいつに誘拐された人が命からがら別荘から脱出して、そのときに反撃したんだ。悪霊化だって、こいつの性根が腐っているからだ。そうに決まってる。
俺はいわば、知識だけがある赤子だ。人間でも霊でもない化け物の孤児だ。この世界になんの縁もゆかりもない、気味の悪い幽体Xだ。思い出も、家族も友達も恋人も、生きる理由も存在しない。突然暗い世界に放り出されて、わけのわからない人生を与えられて、最悪な選択肢を突き付けられた。神がいるならお前、俺になんの恨みがあるんだ? 悪霊が世に災いをもたらすだって? そんなこと、知ったことか。ここで本体を選んだところで、別に誰も褒めてはくれない。誰も見てないし誰も知らない。誰も俺を罪に問えない。なにも悪くない俺が本体に収監されるなんてそれこそ許されない。最悪、そのまま消えてなくなるんだぞ!? よくわからないことがたくさんある本体よりも、すでに快楽と自由が得られることがわかっている悪霊の方がましだろ。罪悪感だって、悪霊になればきっとなくなる。サイコキネシスを使ったとき、気持ちよかったよな。邪悪な欲望に墜ちていくとき、昂ったよな。そうだよな。なあ、おい。そうだと言えよ。
本体……!
さっさとこいつを殺せばいい。それですべてが解決する。この胸のしこりもとれる。
首をへし折るか。脳天を潰すか。どっちでもいい。今すぐ――
「……マ、マジ!? 大変じゃん!」
視線を移す。
同行してきてもらった彼女が車の中から出てきていた。
彼女は立ちすくんでいたが、すぐに事態を飲み込み本体に近づく。そして生存確認を始めた。
まだ息があることがわかると、スマホを取り出して電話をかける。救急車を呼んでいるようだ。
「15分くらいで着くみたいだよ。頑張れ!」
励ますように彼女はいう。
傷口を抑えるために軽自動車からタオルを持ってきて、血まみれの頭に巻き、包帯代わりにしてくれた。
ついさっきまで異常な現象に襲われていたことを忘れたのかこの女は。
おい、邪魔をするな。伝わってくるんだよ! 本体を通じて!
こいつを助けたら俺は……!
標準を本体に合わせる。しかし。
「……くそっ!」
介抱は救急車が到着するまで続き……
本体は救急隊員たちによって担架に乗せられ、車内に担ぎ込まれた。
俺はなぜだか手を下すことができずにいた。なし崩しに、救急車の外側に張り付くことに。蛍光灯の光を浴びるのはしんどい。
振り返ると、手を尽くしてくれた彼女が心配そうにこちらを見ていた。
救急車は出発し、暗い森を赤く明滅させた。
救急病院では、俺の本体は重症患者扱いだった。受付をパスし、順番待ちの人たちをかき分けて病院の中へと進む。
ここでも光が煩わしかったものの、壁や天井をすり抜け、地面に潜りにつつ、影になっている場所や排気口を移動してついていく。
暗くほこりにまみれた天井裏から覗いてみる。病院の中は、多くの医師や看護師が力を合わせて人を生かすために全力を注ぐ野戦病院さながらの場所だった。
誰もが命をつなぐために戦っていた。
本体も例外なく治療室へ運び込まれた。
看護師たちが状態を確かめながら、様々な専門用語が飛び交う。ベテランの医師が遅れてやってきて、意識不明の原因を探る。彼は看護師たちから情報を聞くと、瞬く間に容態を把握し、指示を与えていった。
話されていることの多くは理解できないが、意識は戻るらしい。あと少しで。意識が戻れば俺は体に戻ってしまう。回復に向かうにつれ、本体からの引力が強くなる。
――本体の首。
狙いを定めた。
悪霊化は、9割に達していた。
悪霊としての死生を享受するならば、今決断するしかない。ないのだが。
悪霊の声は、今や痺れを切らし絶叫になっている。
本体の首をへし折ることは、いつでもできた。それでもあの別荘からここまでの間、その欲望に抵抗してきたのはなぜだろう。
何もなく、何者でもない根無し草。
幽体分裂によってこの世界からはみ出した、寄る辺のない哀れな何か。
そんな自分にとって、この人たちはどうでもいい存在じゃないのか。二重人格としての人生になんの価値がある? 命を懸ける価値は? この命は俺のたったひとつの大切なものだ。それに見合う価値が、どこに?
わからない。
わからないけど。
わからないのに。
わかりたくないのに。
なのに。
どうしても。
「――……しょうがねえな」
俺は、本体の首への狙いを解除した。
同時に怒り狂った悪霊が暴れ出す。死に瀕した黒い獣の足掻きだった。悪霊は燃えさかるような咆哮で責め立ててくる。
「貴様ァ!!! 裏切ったなァ!! 代われ!! 魂をよこせ!!!」
うぐ……は…………う、うるせえよ。おとなしくしろ。
意識を自分自身に向け、霊体を固定させる。これで多少は抑え込みむことができたが、侵食は止まらない。意識が暗闇に染まっていく。じわじわと霊体のコントロールが奪われていく。
あと何秒耐えればいい? もう……もたない。まずい。急いでくれ。
「先生!」
治療室がにわかに活気づくのが聞こえてきた。「先生、見てください!」「反応してるな。よし、いいぞ」彼らの声には安堵の色が宿っていた。
……時間だ。
本体め、運のいい奴……いや、それは俺の方か。
視界はすでに真っ暗闇に染まり切っていて何も見えないが、悪くはない。
いつの間にか、胸のしこりはなくなっていた。
やがて本体が息を吹き返すと、悪霊の断末魔が誰に聞こえることもなく響き渡り、消えた。
幽体X 大窟凱人 @okutsukaito
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