一夜の空騒ぎ

えるん

第1話(完結)

 百花ももかが壁に向かったぶん投げた数珠は遺族の忘れ物で、その遺族とは深夜丑三つ時を回る今の今まで電話で応対していた相手であり、この斎場にて働き始めてまだまだ新米の百花としては善意から連絡したつもりであったが、何で帰ってから連絡するのだと開口一番言われ葬儀のやり方から値段からさんざ文句ををつけられ、最終的にもう要らないから捨ててくれと電話を切られた時点で、百花の怒りの犠牲になる運命にあった代物であった。

 怒りに我を忘れていたとはいえ人がいないことをわかっていたからこそ百花は躊躇なく全力投球したわけだが、人は、いた。直撃コースにぼーっと突っ立っている中年の女は百合子といって百花とは何の関係もなく、そもそも何故今ここにいるのか自分自身でさえわかっていないような有り様の女であったから、突然飛来した数珠の豪速球を避けられるはずもなく、ただ迫る数珠をぽかんと見つめ、激突する寸前にだけひゅっと瞼を閉じた。そして百花怒りの一球は壁に当たり音を立ててあたりに散らばった。百花は唖然とした。遅れて百合子が呆然とした。数珠は百合子の体を通り抜けて壁に叩き付けられていたのである。幽霊の二文字が脳裏に浮かんだ途端、百花の中の何かがぷっつりと切れて涙と嗚咽が噴き出した。百合子の頭にも幽霊のゆの字くらいは浮かんだのだが、それよりも目の前で泣きじゃくる百花のことがいたく気に掛かった。なだめたりすかしたりしている内に思い出したのは自分の葬儀にも顔を見せなかった娘のことだった。本当に遠くへ行ってしまう前に一目だけ。そのために自分はこちらへ舞い戻ったのだと悟ったとき、百合子は痛いの痛いのとんでいけと、そんな間の抜けたことを言って、その場から消えた。後にはきょとんとした百花が残された。百花の、差し込んだ曙光のように真っ白な頭に、ふと、今年はまだ母に電話一つかけていないなということが浮かんだ。

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一夜の空騒ぎ えるん @eln_novel_20240511

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