呪い

青いひつじ

第1話


平日の夜の歓楽街。A子はカバンから携帯を半分覗かせカメラボタンを数回押した。


「今日は取引先と会食だって言ってたのに‥‥」


気配を感じたのか、A子の彼氏はあたりを見渡し誰もいないことを確認すると、若い女の肩を抱き雑居ビルへ入っていった。

決定的瞬間をとらえたA子は、大成功だと満足気に笑みを浮かべた。


「これでなにもかもおしまいよ。この写真を会社の前にばら撒いてやるんだから」


浮気相手は同じ職場の総務部の女である。関係が始まったのは2年ほど前。入社したての彼女の愚痴を聞いていたのがA子の彼だった。それから少しずつふたりの距離は縮まっていったという。

A子はこの経緯を全て知っていた。実はA子は彼の後輩のM氏と繋がっており、不審な行動があればMから連絡が入るようになっているのだ。午後の会議後、彼と女がふたりで会社を抜け、その後をMが追っていたというわけである。


「絶対に許さないわ‥‥あの女、彼に色目をつかって‥‥社会復帰できないくらいズタズタにしてやるんだから」


A子が携帯をカバンの奥に沈め、家に戻ろうとしたその時であった。


『呪いをかけるのを手伝いましょうか』


突然どこからか声がした。


「なに!?誰よ!」


『ここです。上ですよ』


声の言う通り見上げると、コウモリに似た不気味な生物が、A子の頭上を舞っていた。


『私は呪いをかけることができます。お見かけするに、なにか強い怨念をお持ちのようで』


「い、いいえ、そんなことありませんよ。あなたは何か勘違いされています」


『騙そうとしても無駄ですよ。先ほどの一連の様子を私はずっと見ていました。その写真をばら撒くおつもりでしょう』


こうなるともう隠す必要もないので、A子はコウモリを睨みつけガラリと口調を変えた。


「だったらなに?私の勝手でしょ。第一、浮気する方が悪いのよ。私は間違ってない。それと、頼る相手なら困ってないのでお構いなく」


『まぁまぁ、そうおっしゃらずに。最近は相手側が復讐してくるなんてことも珍しくない。あなたが頼りにしているMさんだって、いつあなたを裏切るか分かりませんよ。その点、私を使えば誰にも気づかれることなく相手に苦しみを与えることができるのです。いかがですか』


疑いは完全に消えたわけではないが、コウモリの交渉にA子は納得した。写真をばら撒いたのが自分だとバレれば、世間からは冷ややかな目で見られるだろう。そんな性格だから彼が浮気するのだと。たとえ被害者であったとしても、職場で居づらくなることは避けられない。彼や浮気相手から復讐されるリスクもある。なにより、浮気されたとはいえA子は彼のことを愛していたので、彼を傷つけることに少しばかり抵抗があった。

A子の答えはすぐに決まった。


「分かったわ。あんたにお願いする。で、どんな呪いがかけられるの?」


『私もまだまだ見習いの身ですので、複雑な呪いはかけられないのですが』


「彼があの女と別れてくれれば何でもいいわよ」


『承知しました。それではあの女性と別れるための呪いをかけましょう。少し経つと呪いの効果が実感できますよ。それでは』





それから半年が経ったある夜。A子と彼は、高層ビルの最上階にあるレストランにいた。

品のあるピアノの音と、ほどほどに装飾されたモダンな雰囲気。A子もまた、この空間にふさわしい上品な装いであった。

ひと通りの食事を終え、デザートを待っていた時である。


『A子。これからずっと僕のそばにいてくれないか』


突然のプロポーズにA子は涙を浮かべ、頭を小さく縦に振った。


A子の彼と浮気相手は、呪いを依頼した1週間後、関係に終わりを告げた。いきなりの破局にMは理解できないといった様子だった。真相を知るのはA子だけである。

それからというもの、彼はA子に誠実に向き合うようになり、今日、ついにふたりは家族になった。





結婚して3年が経とうとしている。赤く色づいた木々が立ち並ぶ公園に乾いた風が吹いた。A子のお腹は丸みを帯び、その横に立つ彼がA子の腰にそっと手を添える。


『しんどくない?』


「えぇ大丈夫。少しは歩いたほうがいいって、お医者さんも言ってたし」


『無理は良くないよ、ちょっと座ろう』


彼はベンチの上の落ち葉をはらうと、腰掛けようとするA子の身体を支えた。

それから自分も腰掛け、どこか悲しそうに浮かぶ雲を見つめた。A子の夫は時々このような表情を見せた。ある時は家の窓から夕焼けを見つめ、ある時は電車の車窓から流れる雲を眺めた。心が空っぽになってしまったみたいに、幸せとは正反対の表情だった。


「あなたも疲れた?」


『あ、いや。少し寒くなってきたね。温かい飲み物買ってくるよ』


彼が自動販売機に向かうと、A子を呼ぶ声が現れた。


『お元気ですか?』


その声の正体をA子は知っていた。


「あら久しぶり。あなたこそ元気?」


『ええ、あの頃と比べると随分成長しました。最近では複雑な呪いもお手のもの。依頼が殺到して大忙しですよ』


「それはよかった。あなたの腕は本物だもの。呪いのおかげで私はしっかりプロポーズまでされて、数ヶ月後にはママになるの」


『それはそれは、おめでとうございます』


「プロポーズされたのがあなたと出会って半年後だったかしら。あの後すぐに呪いをかけてくれたおかげで、ふたりは破局したの」


『‥‥そうですか。それはよかった』


「ところでどんな呪いをかけたの?あの女と一緒になれない呪い?それとも私しか愛せなくなる呪いかしら? まぁいいわ。あなたのおかげで私は彼と一生一緒よ。感謝するわ」


『おふたりが幸せそうでなによりです。それではこれで』




空を飛びながら、コウモリはあの時のことを思い出していた。最近は忙しくしており、昔のことを思い出す暇もなかった。

実はあの時のコウモリはまだまだ半人前で、呪いをうまくかけられなかったのである。それから特訓し、半年してやっと彼に呪いをかけたのだ。



『たしか、あの時私がかけた呪いは‥‥彼が不幸になりますように、だったような‥‥その直後に彼女と結婚したということは‥‥』


もしかすると、彼にとっての不幸は彼女と一生を共にすることだったのか。そんなことがコウモリの頭をよぎった。しかし残念ながら、何の呪いをかけたのか定かではない。

彼からコーンポタージュを受け取ると、A子は幸せそうに笑みを浮かべた。


コウモリは『まさかな』と囁くと、青い空の向こうに消えていった。




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