その一枚を間違えれば、永遠に閉じ込められる

たかつど

天秤屋敷の呪縛

 雨は容赦なく降り続けていた。石畳に叩きつけられる雨音が、まるで無数の指が地面を引っ掻く音のように響く。俺は朽ち果てた屋敷の門前に立ち、腐臭混じりの風に顔をしかめた。錆びついた鉄門には蔦が絡みつき、まるで生きた蛇のように這い回っている。門柱には判読できないほど風化した銘板があり、かろうじて「黒沢」という文字だけが読み取れた。


 三週間前、一通の手紙が届いた。封筒は上質な羊皮紙製で、封蝋には見たこともない紋章が刻まれていた。差出人は黒沢源蔵の遺産管理弁護士を名乗る人物。その文面は簡潔で、それゆえに不気味だった。


『貴殿は故・黒沢源蔵氏の血縁として遺産相続の権利を有する。ただし遺言により特別な儀式の完了が必須。指定日時に屋敷へ来られたし。さもなくば貴殿の未来は永遠に閉ざされる』


 最初は悪質な詐欺だと思った。だが、手紙に同封されていた俺の家系図は本物だった。そこには、俺自身も知らなかった遠い親戚関係が詳細に記されていた。黒沢源蔵——明治時代に巨万の富を築いた実業家。その血が、確かに俺の中にも流れている。


 俺に選択肢はなかった。借金取りに追われ、職を失い、住む場所さえ失おうとしていた。どんな儀式でも構わない。金さえ手に入れば——そう思っていた。それが間違いだった。


 屋敷の扉は黒ずんだ樫材で、触れると死人の肌のように冷たかった。表面には複雑な彫刻が施されており、よく見るとそれは無数の人の顔だった。苦悶に歪んだ顔、絶望に満ちた顔、恐怖で凍りついた顔。彫刻の目が、まるで俺を見つめているかのようだった。


 重い扉を押し開けると、この世の終わりを告げるような軋み音が響いた。内部は薄暗く、カビと腐敗の臭いが混じり合っている。まるで巨大な死体の内臓に入り込んだかのような息苦しさだ。埃が舞い上がり、俺の目と喉を刺激した。


 玄関ホールは広大で、天井は見えないほど高かった。壁には古い肖像画が並んでいる。どの人物も、まるで生きているかのように俺を見下ろしていた。その視線が、背中に突き刺さるように感じられた。一枚の肖像画の前で足を止めた。額縁には「黒沢源蔵」と刻まれている。厳しい目つきの老人が、何かを語りかけるように俺を見つめていた。


 足音だけが不気味に反響する廊下を進んだ。床板は所々腐食しており、踏むたびにぎしぎしと音を立てる。壁紙は剥がれ落ち、その下から黒ずんだ壁が覗いている。所々に染みがあり、それが人の形に見えた。廊下は迷路のように入り組んでおり、何度も曲がり角を曲がった。時間の感覚が失われていく。どれだけ歩いただろうか。


 やがて、一つの部屋から光が漏れているのに気づいた。この暗闇の中で、その光だけが異様に明るかった。吸い寄せられるように近づき、戸口に立つ。心臓が激しく脈打った。手が震えている。深呼吸をして、扉を開けた。


 部屋は意外なほど整然としていた。他の部屋とは違い、埃一つない。まるで時が止まっているかのようだった。中央には古い木製天秤が置かれていた。何百年も前の代物だろう。黒ずんだ木肌は磨き上げられ、滑らかな光沢を放っている。天秤の支点には奇妙な紋章が刻まれており、それは玄関の封蝋と同じものだった。


 その横には羊皮紙の古文書が広げられていた。インクは茶褐色で、まるで血で書かれたかのように見える。そして漆黒の木箱。箱の表面には複雑な装飾が施されており、触れると微かに振動を感じた。まるで箱の中に何か生きているものが入っているかのようだった。


 箱を開けると、九枚の金貨が整然と並んでいた。どれも同一に見える。表面には細かい文様が刻まれ、鈍い光を反射している。だが、その輝きはどこか生命を宿しているようで、同時に見る者の魂を凍らせる冷たさがあった。金貨を一枚手に取ると、ずっしりとした重みがあった。表面は滑らかで、触れると指先から体温が奪われていくような感覚があった。


 古文書に目を落とす。文字は古い書体で書かれており、判読するのに時間がかかった。だがその内容は、恐ろしいほど鮮明に俺の脳裏に刻まれた。


『目の前に天秤と九枚の金貨がある。見た目は全て同じだが、一枚だけが軽い。天秤を二度だけ使い、偽りの金貨を見つけよ。間違えれば、お前が代わりになる』


 最後の一文が、背筋に氷の刃を突き立てた。「お前が代わりになる」——その意味を考えたくなかった。


 その瞬間、背後で扉が勢いよく閉まった。振り返ると、重い音を立てて鍵がかかる音がした。扉を引っ張ってみたが、びくともしない。窓もない。逃げ場はない。俺は完全に閉じ込められた。


「落ち着け。これはパズルだ。知能を試されているだけだ」


 自分に言い聞かせ、金貨を改めて手に取った。冷たく重い。確かにどれも同じに見える。重さも同じに感じる。だが、一枚だけが軽い。天秤を二度使って見つけ出す——これは有名な論理パズルだ。大学時代に解いたことがある。


 九枚を三グループに分ける。1、2、3番。4、5、6番。7、8、9番。まず1、2、3番と4、5、6番を天秤にかける。もし釣り合えば、軽い金貨は7、8、9番のいずれかだ。もし傾けば、軽い方のグループに軽い金貨がある。そして二回目の測定で、そのグループから二枚を選んで測る。釣り合えば残りの一枚が軽い。傾けば軽い方が偽物だ。完璧な論理だ。


 金貨を天秤の皿に乗せた。皿が触れ合う音が、まるで鐘のように澄んで響いた。その音は部屋中に反響し、何重にも重なって聞こえた。


 天秤がゆっくりと傾いた。左側が下がる。つまり右側の4、5、6番のどれかが軽い。予想通りだ。俺は安堵の息を吐いた。


 その瞬間、天井の奥から低い呻き声が響いた。「うああああ……」深く、苦痛に満ちた声だ。それは一つではなく、複数の声が重なり合っているように聞こえた。男の声、女の声、子供の声——無数の声が混じり合い、不協和音を奏でている。


 俺は反射的に天井を見上げた。梁の影が蠢いて見えた。いや、本当に動いている。影が形を変え、まるで人の姿を取ろうとしているかのようだった。いくつもの手が、いくつもの顔が、天井から這い出そうとしている。


「錯覚だ。古い木材が鳴っているだけだ」


 そう自分に言い聞かせたが、声は震えていた。何かが俺の魂を掴んでいるような感覚があった。部屋の空気が重くなり、呼吸が苦しくなった。


 二回目の測定に集中しようとした。4、5、6番から4番と5番を選んで天秤に乗せた。手が震えている。金貨が皿に触れる音が、やけに大きく聞こえた。息を呑み、天秤の動きを見守る。時間が引き延ばされたように感じられた。


 天秤は動かなかった。完全な平衡だ。針は中央を指したまま、微動だにしない。ということは——軽いのは6番だ。


「よし、これだ。6番が偽りの金貨だ」


 俺は6番の金貨を掴み上げた。勝利感が込み上げてきた。完璧な論理で謎を解いた。遺産は俺のものだ。その表面を見つめると、微かに人の顔が浮かんでいるように見えた。苦しげに歪んだ顔——だがそれは彫刻なのか、それとも——


 だが、それよりも奇妙なことが起きた。


 部屋の温度が急激に下がった。吐く息が白く凍る。凍てつく冷気が肌を這い上がり、全身が粟立った。指先の感覚がなくなっていく。金貨を握る手が凍りつくように冷たい。


 そして、記憶が蘇った。


 それは俺の記憶ではなかった——いや、忘れていた記憶だった。幼い頃の俺。雨の降る夜。見覚えのある部屋——この部屋だ。古い天秤の前に立つ俺。手には金貨のように鈍く光る何かを持っている。それを天秤の皿に乗せる——なぜ?何のために?記憶は断片的で、まるで夢のように曖昧だった。


「そんな、俺はそんなことを——」

「間違いです」


 声が聞こえた。物悲しく、静かな怒りを含んだ女性の声。それは空間全体から響いてくるようだった。壁から、天井から、床から——あらゆる場所から声が聞こえる。


 振り返ったが誰もいない。部屋には俺と天秤と金貨があるだけだ。だが、確かに声は聞こえた。幻聴ではない。


「あなたは約束を守りませんでした」

「何の約束だ?誰だ、お前は?」


 震える声で尋ねた。喉がからからに乾いていた。


「天秤を二度だけ使うこと。あなたは三度使いました」

「三度?馬鹿な、俺は二度しか——」


 その時、鮮明な記憶が雪崩のように蘇った。部屋に入った瞬間、古文書を読む前、俺は確かに一度天秤を使っていた。なぜか手にあった一枚の金貨を、何の躊躇もなく天秤の皿に乗せていたのだ。右の皿に。それは無意識の行動だった。まるで操られたかのように。そして天秤は——傾いた。わずかに、しかし確実に傾いた。


 その記憶は、まるで意図的に消されたかのように、今まで俺の意識から完全に抹消されていた。だが今、全てが鮮明に思い出された。古文書を読む前に、俺は既に一度、天秤を使っていた。


「そんな……俺は……なぜ忘れていた?」


 記憶が激しく混乱する。何が現実で何が幻なのか。俺の意識は底なし沼に沈んでいく。時間の流れが歪んでいる。ここに来たのは今日だったのか?それとも昨日?一週間前?記憶が曖昧で、はっきりしない。


 改めて金貨を見た。6番の表面を凝視すると、微かに文字が刻まれているのに気づいた。深く繊細な文字。彫刻刀で一文字一文字、丁寧に刻まれたような——


『源蔵』


「源蔵……黒沢源蔵?」


 遺産相続の手紙に書かれていた、この屋敷の故人の名だ。なぜ金貨に名前が?他の金貨も確認した。どれにも注意深く見ると、表面に名前が刻まれている。


『太郎』『花子』『一郎』『美代』『健二』『良子』『昭夫』『千代』


 八つの名前。そして最後の一枚——手に取ると、まだ何も刻まれていない。真っ新な金貨。表面は完璧に滑らかで、鏡のように俺の顔を映し出している。だが、映っている顔は俺の顔ではなかった。誰か別の人間の、絶望に歪んだ顔が——


「これが……第九の金貨」


 その金貨を握りしめた瞬間、手のひらから冷たい何かが流れ込んできた。それは液体のようにぬるりと這い上がり、腕を伝い、肩を越え、首筋を這い、そして頭の中に侵入してきた。魂を直接凍らせるような感覚。俺の意識が、何か別のものに侵食されていく。


「あなたもここに来たのですね」


 今度ははっきりと声が聞こえた。すぐ隣で囁かれているかのように。耳元で、誰かが直接語りかけている。


 ゆっくりと振り返ると、薄汚れた着物を着た老婆が立っていた。いつの間に現れたのか。扉は閉まったままだ。深い皺に刻まれた顔。虚ろな目。生きていないような表情。肌は蝋のように白く、まるで死体のようだった。だが、その瞳の奥には限りない悲しみと諦めが宿っていた。そして——憎悪も。


「私は美代。この屋敷の最初の犠牲者です」


 美代の声は、どこか遠くから響くような、現実感のない響きを持っていた。まるで録音された声を聞いているかのようだった。


「犠牲者?何の犠牲者だ?」


 俺は一歩後ずさった。背中が壁に当たった。


「この部屋で間違いを犯した者は、金貨の中に封じ込められるのです。魂を抜かれ、軽い金属の中に。そしてそれが『偽りの金貨』となって次の挑戦者を待つ」


 美代の言葉がゆっくりと浸透していく。あまりにも恐ろしく、現実離れした話。だが、身体を支配する異常な冷気と断片的に蘇る記憶が、その恐ろしい真実を裏付けていた。


「つまり……この八つの名前は」

「全て、ここで間違えた者たちの名です。太郎は江戸時代の商人。花子は明治の華族の娘。一郎は大正時代の軍人。そして私、美代は昭和の初めに——」


 美代は悲しげに微笑んだ。その笑顔は、あまりにも人間離れしていた。


 震える手で握りしめた金貨を見つめた。真新しい第九の金貨。そこに、刻まれていないはずの名前が、じわりと浮かび上がってくるような錯覚に陥った。まだ文字にはなっていない。だが、もうすぐ刻まれる。俺の名前が——


「つまり、俺が選ぶべきだったのは——」

「その通り。軽い金貨こそが前の挑戦者の魂。あなたは正しく見つけなければならなかった。しかしあなたは天秤を三度使った。最初の一度を忘れていた。それは反則です。この屋敷のルールに背いたのです」


 記憶が次々と蘇っていく。恐ろしい速度で脳裏を駆け巡った。まるで封印されていた記憶の蓋が、一気に開け放たれたかのようだった。


 俺はここに来たのではない。ずっと前から、ここにいたのだ。何度も何度も、この部屋で同じことを繰り返していた。天秤を使い、金貨を選び、間違え、記憶を失い、また最初から——そうだ、記憶を失うのだ。そして再び部屋の前に立ち、扉を開け、古文書を読み、天秤を使う。終わりのない悪夢のように。俺は永遠に、この屋敷の檻に閉じ込められていたのだ。


 記憶の奔流の中で、自分自身の姿を何度も見た。初めてこの屋敷の扉を開けた時の俺。いや、それは初めてではなかった。二度目、三度目、四度目——何度も何度も、俺はこの屋敷を訪れていた。借金に苦しみ、金のために魂を売ろうとしていた俺。そして毎回、古文書を読む前に、無意識に一枚の金貨を天秤に乗せていた。その軽率な行動の記憶は、毎回この屋敷の呪いによって塗り潰されていたのだ。


「今度こそ……今度こそは正しい答えを」


 震える声で呟いた。まるで祈るように。だが美代は首を横に振った。その動きはゆっくりで、まるでぎくしゃくした人形のようだった。


「無駄です。あなたの魂は既に抜かれています。その証拠に」


 促されるまま自分の体を見下ろした。足が透けている。床の木目が俺の足を通して見えた。いつからだろう?手も腕も、次第に半透明になっていく。霧のように、俺の存在が希薄になっていく。まるで消しゴムで消されていくかのように、俺の輪郭が曖昧になっていく。


「俺は……もう死んでいるのか」


 その言葉は、もはや喉から出た声ではなく、意識の奥底から湧き上がる思念のようだった。


「ええ。でも安心なさい。すぐに次の方がいらっしゃいます。その方があなたを見つけてくれるでしょう。そうすれば、あなたは解放される」


 美代の言葉は慈悲深い響きを持っていたが、その中に潜む絶望が俺の心を深く抉った。解放——だがそれは、別の誰かが俺の代わりになるということだ。


 俺はもはやこの屋敷の住人。九枚の金貨の一つ。魂を抜かれ、軽い金貨となって次の犠牲者を待ち続ける存在。それが俺の運命。


 扉が開く音がした。軋んだ音は新たな獲物を迎え入れるかのようだった。重い足音が廊下を進んでくる。


 足音。若い男の足音。希望に満ち、それでいてどこか焦燥感を帯びた足音。かつての俺と同じ足音。


「こんにちは。遺産相続の件で来ました」


 新しい挑戦者が部屋に入ってきた。若い男だ。二十代後半だろうか。顔には微かな不安と期待が入り混じっている。服装は安物のスーツで、袖口がすり切れている。俺と同じように、金に困っているのだろう。


 俺は彼を見ることができる。彼の顔、表情、全身。しかし彼には俺が見えない。俺はもう金貨の中の魂でしかないから。美代も見えていないようだ。彼の目には、この部屋に天秤と金貨しか映っていない。


「さあ、始めましょう」


 美代の声。しかしその声は新しい男には聞こえていないようだった。彼の顔は古文書に集中している。緊張で額に汗が滲んでいる。


 男は古文書を読み上げた。その声はかつての俺と酷似していた。いや、全く同じだ。この屋敷は、同じような境遇の人間を選んでいるのだろう。


「目の前に天秤と九枚の金貨がある……」


 俺は気づいた。九枚の金貨の中で一枚だけ軽いもの——それは俺の魂が入った金貨だ。あの真新しい金貨。今はもう真新しくない。俺の名前が刻まれているはずだ。


 もし彼が正しく俺を見つけてくれれば、俺は解放される。この屋敷の呪縛から解き放たれる。魂は天に昇り、安らぎを得られる。もし間違えれば、彼が新しい金貨となり、俺はここに留まり続ける。永遠に。この暗闇の中で、次の挑戦者を待ち続ける。


「頼む……正しく見つけてくれ。俺を解放してくれ」


 心の中で必死に願った。もはや声にならない、ただの思念だった。だが、その思いは金貨を通じて、微かに男に届いているような気がした。


 男は論理的に考え始めた。眉間に皺を寄せ、金貨を一枚一枚手に取って確認している。九枚を三つに分けて、まず3対3で天秤にかける。額に薄っすらと汗が滲んでいる。手が震えている。


 天秤に金貨を乗せた。澄んだ音が響いた。男は固唾を呑んで見守っている。


 天秤が傾いた。俺のいるグループが軽い。


「いいぞ……その調子だ。間違えるな」


 俺は祈るように見守った。金貨の中から、必死に念を送った。


 次に、俺を含む軽い三枚から二枚を選んで天秤にかけた。俺ではない二枚を。男の手つきは慎重で、完璧な論理に基づいている。彼は賢い。きっと成功する。


 天秤は平衡を保った。針は中央を指している。


「残った一枚……これが軽い金貨だ」


 男は震える手で俺の金貨を手に取った。その金貨の表面には、確かに俺の名前が刻まれていた。そして俺の顔が、苦悶の表情で浮かび上がっている。男は一瞬、その顔に気づいたようだった。だがすぐに、それを錯覚だと思ったのだろう。


 彼の指先が金貨に触れた瞬間、温かい光が差し込んできた。それは金貨の中を満たし、俺の魂を包み込んだ。長い間感じたことのなかった温もりだった。


「ありがとう……やっと自由になれる」


 俺の存在は光の中に溶けていく。透明度が増し、やがて完全に消滅した。解放感——それは死にも似た、しかし圧倒的な安堵だった。長い悪夢からようやく目覚めたような感覚。魂が軽くなり、上へ上へと昇っていく。


 だが光の中で、俺は気づいてしまった。男の背後に、新しい古文書が静かに現れている。いつの間に?さっきまではなかった。それはこれまでよりもさらに古く、重々しい雰囲気を持っていた。羊皮紙は黄ばみ、端が焦げているようにも見える。


 そこには新しいルールが、血のようなインクで書かれていた。文字は這うように、まるで生きているかのように蠢いている。


『おめでとうございます。第一の試練を突破されました。しかし真の試練はこれから。今度は十枚の金貨があり、その中の二枚が軽い。天秤を三度だけ使って両方を見つけなさい。間違えれば——貴殿の魂は永遠にこの金貨に囚われるだろう』


 男の顔が青ざめた。手から血の気が引いていく。瞳に絶望の色が宿った。彼は自分が陥った地獄をようやく理解したのだ。これは終わりではない。始まりに過ぎない。


 俺は光の中で、全てを理解した。これは終わりではない。始まりでもない。永遠に続く循環なのだ。この屋敷は魂を求める飢えた獣。誰かが正解すれば次のレベルへ。より複雑な、より絶望的な試練へ。誰かが間違えれば金貨となって待ち続ける。その魂は永遠に解放されることなく、新たな挑戦者を待ち続けるのだ。


 そして、もし全ての試練を突破したとしても——その先に何があるのか?さらなる試練か?それとも本当の解放か?誰も知らない。なぜなら、誰もそこまで辿り着いたことがないから。


 男は新しい十枚の金貨を見つめている。その中の二枚には、既に名前が刻まれているのだろうか?それとも……


 この屋敷では今日も、新しい挑戦者を待っている。完璧な論理も、無慈悲な運命の前では意味をなさない。天秤は常に平衡を保とうとする。生者と死者の、希望と絶望の、永遠の均衡を。


 真実の重みを量れる者は、果たして存在するのだろうか——


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