第9話 すれ違い
あの嵐のような出来事から、三か月が過ぎた。
麻耶の異動で社内は落ち着きを取り戻し、葵と藤堂もようやく穏やかな日々を取り戻していた。
朝、並んでコーヒーを飲み、昼は笑い合い、夜は仕事の愚痴をこぼしながら帰る。
当たり前のように過ぎていく毎日が、葵には何よりの幸せだった。
けれど、そんな日々にも少しずつ影が差していった。
「藤堂主任、今度の企画、次長に昇進の話が出てるらしいですよ」
同僚の言葉に、藤堂は苦笑しながらも忙しそうに書類をめくる。
電話、会議、出張。
その背中を見る時間が、日に日に減っていった。
「ごめん、今週も食事、無理そうだ」
メッセージの文字が、冷たい光を放つ。
——理解してる。
彼は頑張っている。
私も応援しなきゃ。
そう言い聞かせても、夜の部屋でひとりになると、胸の奥が静かに痛んだ。
***
金曜の夜。
久しぶりに藤堂と会う約束をしていた。
少しだけ髪を巻いて、淡いピンクのコートを羽織る。
鏡の前で息を整えた。
「・・・大丈夫。今日こそ笑顔で」
時計の針が待ち合わせの時間を過ぎても、彼からの連絡はなかった。
不安を抱えたまま、会社の近くの通りを歩く。
そして、ビルの角を曲がったそのとき——
葵は息を呑んだ。
街灯の下、藤堂が見知らぬ女性と並んで歩いていた。
肩を寄せるように、何かを話しながら笑っている。
その女性の手には、小さな紙袋。
藤堂がそれを受け取り、微笑んだ。
時間が止まった。
頭の中が真っ白になった。
「・・・そう、なんだ」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
そのまま背を向け、足早に夜の街を歩いた。
冷たい風が頬を刺す。
心の奥が、あの頃の痛みを思い出す。
——また、信じることを間違えたのかもしれない。
***
翌週。
藤堂は昇進の内示を受けていた。
周囲の祝福の声が響く中、葵だけが笑顔を作れなかった。
彼は忙しさの合間を縫って何度も声をかけてくれたが、
葵はどこか上の空だった。
「葵、どうした?」
「……なんでもない。ただ、少し疲れてるだけ」
本当は聞きたかった。
——あの夜、あなたは誰といたの?
でも、聞いてしまえば、何かが壊れてしまう気がした。
それでも彼は、変わらず優しかった。
資料を運んでくれたり、体調を気遣ってくれたり。
その優しささえ、いまは怖かった。
優しさで誤魔化されるような真実が、どこかにあるのではないかと。
***
週末、ふとしたきっかけで、葵は社内の廊下で噂を耳にした。
「藤堂主任、この前ジュエリーショップで女性といたらしいよ」
「え、彼女いるのに? やっぱり昇進したらモテるんだねぇ」
その一言で、葵の胸が締め付けられた。
頭では信じたいのに、心が拒んでいた。
その夜、帰宅しても眠れず、スマホを握りしめたまま時間だけが過ぎていく。
未送信のまま残るメッセージ。
——“あの人、誰?”
送れなかったその一文が、胸の奥で燃えるように痛んだ。
***
翌朝、会社の玄関前で藤堂が声をかけてきた。
「葵、今夜、少し話せるか?」
その目はいつもより真剣で、どこか迷いを含んでいた。
「・・・うん」
葵は小さく頷いた。
けれどその胸の奥では、
“この恋が終わる”予感が静かに鳴り響いていた。
春の風が吹き抜ける。
まだ咲ききらない桜のつぼみが、揺れていた。
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