第2話 やさしさの理由

翌朝。

会社に着くと、デスクの上に見慣れないメモが置かれていた。


「昨日の資料、助かりました。ありがとう。——藤堂」


彼の字は、きれいだった。

きちんと揃った文字なのに、どこか温かい。

その小さな紙切れだけで、胸が少しだけ軽くなった。


けれど、周囲の視線は相変わらず冷たい。

早紀の机の周りには笑い声が絶えず、

私の方には、誰も話しかけてこない。


昼休み。

ランチに行く気力もなく、また屋上へ向かった。

空の青が広がり、風が少し強い。

ベンチに座って、カップスープの蓋を開けたその時——


「また、ここにいると思いました」


驚いて顔を上げると、藤堂が立っていた。

紙袋を片手に、にこりと笑う。


「一緒にどうですか?」

「え?」

「コンビニで買いすぎちゃって。おにぎり、余ってるんです」


断る理由が見つからず、彼の隣に座った。

風が吹いて、二人の間に春の匂いが流れた。


「このビル、風通しはいいけど冷えるんですよね」

「そうですね。ここ、好きなんです。誰も来ないから」

「僕も、こういう場所が落ち着きます」


他愛もない会話なのに、不思議と穏やかだった。

でも、ふと沈黙が訪れる。


「昨日、あんなこと言って……すみませんでした」

藤堂が目を伏せた。

「あなたに会いに来ました、なんて。変ですよね」

「……ちょっとびっくりしました」

「でも、本当なんです」


その言葉に、心臓が跳ねた。

「前に、別の部署にいたときに、あなたの企画書を見たんです。

 丁寧で芯が通ってて……なんていうか、誰かのために書かれてる感じがして。

 名前を見て、忘れられなくなりました」


「……そんなこと、覚えててくれたんですか」

「はい。だから、異動が決まったとき、嬉しかった。やっと会えるって」


彼のまっすぐな目が、真正面から私を射抜いた。

視線をそらせばいいのに、できなかった。


「……でも、どうしてそこまで?」

「理由、いりますか?」


その答えが、優しすぎて苦しくなる。

——そんな言葉、信じてはいけない。

裏切られた痛みが、まだ消えていない。


「……すみません、そういうの、信じられないんです」

「いいですよ。信じてもらおうなんて思ってませんから」


彼は微笑んだ。

「ただ、もう少しだけ話せたら嬉しい。それだけです」


そう言って、おにぎりを一つ差し出す。

海苔が少し曲がっていて、思わず笑ってしまった。

「不器用ですね」

「よく言われます」


二人で小さく笑った。

風が、少し暖かくなった気がした。


***


午後、仕事に戻ると、デスクに妙な違和感があった。

引き出しの中の書類が、一部なくなっている。

探しても見つからない。

焦りながら辺りを見回したとき、早紀の視線が一瞬だけこちらをかすめた。


——気のせい、じゃない。


「佐伯さん、大丈夫ですか?」

藤堂の声がした。

「顔色、悪いですよ」

「……平気です」


そう言いながらも、手は震えていた。


藤堂は何も言わず、ただ静かに立っていた。

その存在だけで、少しだけ救われる。


優しさは、時に痛い。

信じたいのに、怖くて手が伸ばせない。

でも彼の笑顔だけは、なぜか“懐かしい”と感じた。


夜、帰宅してもその感覚が消えなかった。

あの目を、どこかで——確かに見たことがある。


けれど記憶は霧のように掴めず、

ただ、胸の奥で静かに何かがざわめいていた。

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