第2話 繋いだ手の鼓動:放課後の告白
体育祭の熱狂が嘘だったかのように、翌日から教室には奇妙にぎこちない空気が流れていた。あの借り物競争の一件以来、俺と結城葵は、クラスメイトたちの好奇と生温かい視線に常に晒されることになった。廊下ですれ違うだけで、誰かがひそひそと噂話をする声が聞こえてくる。俺自身、葵のことをどうしようもなく意識してしまい、授業中に彼女の後ろ姿を見つめていることに気づいては、慌てて視線を逸らすことの繰り返しだった。葵もまた、俺と目が合うと、頬を染めてすぐに俯いてしまう。その度に、俺の心臓は持ち主の許可なく勝手に跳ねた。
このままではいけない。あの一件を、ただの体育祭のハプニングで終わらせてしまっていいはずがない。俺の中に生まれたこの熱い感情に、けじめをつけなければならない。そう頭では分かっていても、内向的な性格が邪魔をして、最後の一歩がどうしても踏み出せなかった。告白して、もし断られたら。今のこの、遠くから見つめているだけでも満たされるような微妙な関係性すら、壊れてしまうのではないか。そんな恐れが、鉛のように俺の身体を重くしていた。
「いい加減、はっきりさせろよ。男だろ」
放課後の部室で、呆れたように言ったのは、親友の藤堂誠だった。彼は、俺の顔を見るたびに同じようなことを言ってくる。
「見てるこっちがじれったいんだよ。葵ちゃんも、絶対にお前のこと意識してるって。な、莉子」
誠が同意を求めると、隣で参考書を読んでいた篠崎莉子は、ぱたんと本を閉じ、鋭い視線をこちらに向けた。
「葵、昨日も相談してきたよ。『高瀬くん、どう思ってるのかな』って。あの子、明るく振る舞ってるけど、根はすごく臆病だから。隼人から言ってあげなきゃ、多分このまま何も始まらない」
莉子の言葉は、いつも的確に核心を突いてくる。葵の、あの太陽のような笑顔の裏にある繊細さを、彼女は誰よりも理解しているのだ。孤独になることを、何よりも恐れている彼女に、これ以上不安な時間を与えるべきではない。俺の心の中で、葛藤していた天秤が、ゆっくりと、しかし確実に傾いていくのを感じた。
数日後の放課後、俺はその瞬間を迎えることになる。最後の授業が終わり、生徒たちが次々と教室を出ていく。俺は、誠に「今日、決める」とだけ短く告げた。誠は、ニヤリと笑うと、力強く俺の背中を叩いた。
「おう、男らしくやれよ。何かあったら、すぐに駆けつけてやるから」
そんな誠の言葉を背中に受けながら、俺は自分の席で、葵が帰る準備を終えるのを待っていた。心臓の音が、やけに大きく聞こえる。手のひらには、じっとりと汗が滲んでいた。教室には、もう俺と葵、そして数人の女子生徒しか残っていない。窓から差し込む西日が、埃の舞う教室をオレンジ色に染め上げ、机や椅子の長い影を作り出していた。光と影が織りなすそのコントラストが、まるで舞台装置のように、俺たちの空間を世界から切り離していく。
葵が、友人たちに「じゃあね」と手を振り、教室の出口へと向かう。今だ。今しかない。俺は、勢いよく椅子から立ち上がった。
「結城!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。教室に残っていた生徒たちの視線が、一斉に俺に突き刺さる。呼び止められた葵は、驚いたように振り返り、その大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「少し、いいか。話がある」
俺の真剣な表情を察したのか、彼女の周りにいた友人たちは、顔を見合わせると、「じゃあ、葵、また明日ね」と、気を利かせて教室を出ていった。静寂が訪れる。夕日が差し込む教室に、俺と葵、二人だけが残された。
俺は、ゆっくりと彼女に歩み寄った。何を言えばいいのか、頭の中が真っ白になりそうだ。練習した言葉は、全てどこかへ消えてしまった。だが、もう引き返すことはできない。俺は、彼女のまっすぐな瞳を見つめ、腹の底から声を絞り出した。
「体育祭の時、俺が引いたお題、何だったか知ってるか」
葵は、小さく首を横に振る。俺は、一つ深呼吸をして続けた。
「『一番大切な人』だった。俺は、迷わず、結城のところへ走った。あれは、ただの偶然じゃない。俺にとって、一番大切な人は、結城なんだ。俺と、付き合ってほしい」
不器用で、何の飾り気もない、あまりにも簡潔な告白。それが、今の俺にできる精一杯だった。沈黙が、永遠のように感じられる。葵は、何も言わず、ただじっと俺の目を見つめ返していた。その大きな瞳が、夕日を反射してきらきらと輝いている。いや、違う。よく見ると、彼女の瞳には、みるみるうちに涙の膜が張っていた。そして、耐えきれなくなったかのように、一筋の雫が、その白い頬を静かに伝った。
その涙を見た瞬間、俺の身体は、思考よりも先に動いていた。俺の中に眠る強い庇護欲が、衝動となって突き上げてくる。俺は、無意識のうちに右手を伸ばし、その大きな手のひらで、彼女の涙をそっと拭った。指先に触れた葵の頬は、驚くほど柔らかく、そして熱を帯びていた。その皮膚の柔らかさが、まるで溶かされたバターのように、俺の武骨な指先から全身へと伝わっていく。俺の手が、触れた部分からじわりと熱を持ち始めるのを感じた。守りたい。この存在の全てを、俺が守り抜きたい。
俺の指が触れたことに、葵の身体がびくりと小さく震えた。そして、俯いていた顔をゆっくりと上げ、涙で濡れた瞳で、再び俺を見つめた。その唇が、わずかに震えている。
「……私も、好き」
鈴が鳴るような、か細く、それでいて凛とした声だった。その震える言葉が、俺の鼓膜を優しく揺さぶる。世界から、音が消えた。俺の耳には、彼女の声と、自分の激しい心臓の音しか聞こえなかった。喜びという感情が、これほどまでに身体の内側から溢れ出してくるものなのだと、俺は初めて知った。
気づけば、俺は彼女の小さな手を、自分の汗ばんだ手で包み込んでいた。初めて触れる、華奢な手。繋いだ瞬間、ピリッとした微細な電気が走ったような錯覚に陥る。手のひらを通じて、お互いの存在が、熱となって流れ込んでくるようだった。そして、はっきりと感じた。俺の心臓と同じくらい、いや、それ以上に速く、激しく脈打つ、彼女の鼓動を。その生命の響きが、触覚を通じて俺の全身に伝わり、俺自身の鼓動と重なり合って、一つの力強いリズムを刻み始めた。
夕日が作り出す長い影の中で、俺たちは、ただ黙って手を繋ぎ、お互いの鼓動だけを感じていた。言葉は、もう必要なかった。この繋いだ手の熱と、伝わってくる鼓動が、俺たちの答えの全てだった。十二年の時を経て、なお色褪せることのない、純粋な愛が生まれた瞬間だった。
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