第一章 ――方向音痴の青年と風を読む女性――
白山ダンジョン第五層は、まるで原生林をそのまま切り取ったような場所だった。
ブナとミズナラの巨木が天を覆い、木漏れ日が苔むした地面に斑点を作っている。
空気は湿り気を帯びて、深呼吸すると土と緑の香りが肺に染み込んでくる。
遠くから野鳥のさえずりが聞こえる。
風が葉を揺らし、どこかで清流が流れる音が響く。
「……で、俺はどこにいるんだ?」
俺、橘蒼太は地図を見つめたまま固まっていた。
三叉路だ。右、左、そして真ん中。
どれも似たような森の道が続いている。
地図には「第5層分岐点」と書いてある。
でも、どの道がどこに繋がるのか——全然分からない。
「えっと……この岩の形が地図と一致してるから……いや、待てよ」
俺は地図を90度回転させてみる。
「こっちの木の配置が……あれ? やっぱり違うか」
今度は180度回転。
「うーん……北がこっちで……」
その時だった。
「……おかしいな。この岩の形は合ってるはずなのに」
女性の声が聞こえた。
俺は顔を上げる。
三叉路の真ん中に、一人の女性が立っていた。
◇◇◇
彼女は俺より少し年下に見えた。
二十代前半くらいだろうか。
鮮やかなオレンジ色のアウトドアジャケットに、機能的な登山パンツ。
長い黒髪をポニーテールにまとめていて、トレッキングポールを両手に持っている。
装備は整っている。
でも——
彼女の表情が、妙に不安げだった。
地図を手に持っているけれど、視線がどこか虚ろだ。
地図を見ているようで、見ていないような——
「あの、大丈夫ですか?」
俺は声をかけた。
彼女がこちらを向く。
その瞬間、俺は気づいた。
彼女の瞳が、俺を「通り過ぎて」いく。
焦点が合っていない。
薄い灰色の瞳は美しいのに、どこか遠くを見つめているような——
「あ、はい。大丈夫です」
彼女が明るく答える。
でも声の奥に、わずかな不安が滲んでいた。
「道に迷ったんですか?」
「……はい。ワイヤーフレームだと、どの道も同じに見えて」
ワイヤーフレーム——
俺はその言葉で全てを理解した。
視覚障がい者用の人工スキルカード。
ダンジョン内の物質とモンスターが線画で見えるようになる。
でも色も質感も失われる。
全てが白い線だけの世界。
(この人、目が……)
俺は彼女の瞳をもう一度見た。
薄い灰色。焦点の合わない瞳。
でも——その瞳は決して死んでいなかった。
むしろ、何かを強く見つめようとしているような、意志の光が宿っていた。
「あの……」
俺は言葉を選びながら尋ねる。
「もしよければ、一緒に道を探しませんか? 俺も実は……」
彼女が少し驚いたように首を傾げる。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。もう少し探せば……」
「いや、実は俺も迷ってて」
俺は正直に白状した。
「え?」
「俺、方向音痴なんです。この地図、全然読めなくて」
彼女の表情が少し和らいだ。
「……そうなんですか」
「はい。というか、探索者認定試験も方向音痴のせいで二回落ちたくらいで」
彼女がクスッと笑った。
「それは……大変でしたね」
「まあ、三回目でギリギリ合格しましたけど」
俺は苦笑いする。
「だから、もしよければ……二人で迷子になりましょう」
彼女が目を見開く。
「二人で迷子に?」
「ええ。一人で迷うより、二人の方がマシでしょ? それに——」
俺は正直に続ける。
「俺、地図の読み方も怪しいんです。さっき三回も回転させてました」
陽菜さんが噴き出した。
「ふふ……三回も?」
「はい……方向音痴にも程がありますよね」
彼女が優しく微笑む。
「でも、正直で素敵です」
「じゃあ、まず自己紹介しましょうか。俺は橘蒼太(たちばな そうた)。Dランク探索者です」
「桜庭陽菜(さくらば ひな)です。元Cランクで……今はFランクです」
陽菜——
いい名前だ。
春の花のような、温かい響きがある。
「じゃあ、陽菜さん。一緒に道を探しましょう」
「はい」
◇◇◇
そして十分後——
俺たちは同じ三叉路に戻ってきていた。
「……橘さん」
「はい」
「私たち、同じ場所に戻ってません?」
陽菜さんが穏やかに指摘する。
俺は冷や汗をかいた。
「え? そんなはずは……」
「風の音が同じです。さっきと」
「風の……音?」
「はい。木の葉が揺れる音、清流の響き、鳥のさえずりの方向——全部同じです」
陽菜さんが目を閉じて、風に顔を向ける。
「それに、この岩の表面の温度。日向と日陰の境界線。空気の流れ——」
「全部、十分前と同じです」
俺は絶句した。
彼女は目が見えないのに、俺よりもずっと正確に周囲を把握している。
「...すみません」
俺は頭を下げた。
「実は俺、地図を逆さまに見てました」
「え?」
「それで右と左を完全に間違えてて……」
陽菜さんが一瞬固まって——そして、クスクスと笑い始めた。
「ふふ……あはは……!」
「笑わないでください……!」
「ご、ごめんなさい……でも、逆さまって……」
彼女の笑顔が、朝日のように明るい。
俺も思わず笑ってしまった。
「まあ、方向音痴にも程があるってことで」
「はい……でも、私もワイヤーフレームで三時間も迷ってたので、人のこと言えないです」
「三時間!?」
「はい……どの道も白い線に見えるだけで、全然区別がつかなくて」
陽菜さんが少し照れたように頬を染める。
その仕草が、妙に可愛らしかった。
「じゃあ、今度こそ正しい道を……」
「橘さん、地図は私が見ます」
「え? でも……」
「大丈夫です。私、音と風で道を判断できますから」
陽菜さんが自信を持って言う。
「それに、橘さんは地図を正しい向きで見てください」
「...はい」
俺は素直に従うことにした。
◇◇◇
陽菜さんの指示で、俺たちは右の道を選んだ。
彼女は時々立ち止まっては、風の音を聞き、地面の傾斜を感じ取る。
「この道で合ってます。風が山の上から下りてきてる」
「すごいですね……俺には全然分からない」
「慣れですよ。目が見えなくなってから、他の感覚が研ぎ澄まされたんです」
陽菜さんが微笑む。
その笑顔には、強さと優しさが同居していた。
「陽菜さんは……どうして一人で白山に?」
俺は恐る恐る尋ねた。
「……祖母との約束なんです」
「約束?」
「はい。祖母と一緒に、昔この山に登ったことがあって」
陽菜さんの声が少し遠くなる。
「祖母は最期まで心配してたんです。『陽菜はもう山に登れないんだね』って」
「でも違う。目が見えなくても、山は登れる」
「それを証明したくて……山頂で、祖母に報告したいんです」
俺は胸が詰まった。
彼女は強い。こんなにも強い。
「……俺も、山頂まで行きます」
「え?」
「一緒に行きませんか? 俺も山頂まで行く予定でしたし」
俺は少し嘘をついた。
本当は第十五層くらいで帰るつもりだった。でも——
「それに、一人より二人の方が安全です。お互い助け合えますし」
「でも……橘さんの邪魔になるんじゃ」
「邪魔なんかじゃないです」
俺は真剣に言った。
「むしろ、陽菜さんがいてくれた方が助かります。俺、本当に方向音痴なので」
陽菜さんが少し考えてから——
涙ぐんだ笑顔で頷いた。
「……ありがとうございます、橘さん」
「蒼太でいいですよ」
「じゃあ……蒼太さん」
その瞬間、俺の心に何かが芽生えた。
守りたい。
この人を、山頂まで連れて行きたい。
そして——彼女の笑顔を、もっと見たい。
「じゃあ、改めて。山頂まで、一緒に頑張りましょう」
俺は手を差し出した。
陽菜さんは少し迷ってから、その手を握った。
細くて、少し冷たい手。
でも、確かな強さを感じる手だった。
「はい。よろしくお願いします」
こうして——俺たちの旅が始まった。
方向音痴の青年と、目の見えない少女の、白山への登頂。
この時の俺は、まだ知らなかった。
この出会いが、俺の人生を変えることを。
本当に大切なものは、目で見るものじゃない——
そのことを、彼女が教えてくれることを。
◇◇◇
森の奥から、フォレストラビットが顔を覗かせた。
友好的な白いモンスター。兎の姿をした、ふわふわの生き物。
陽菜さんが立ち止まる。
「……何かいますか?」
「ええ、兎のモンスターです。でも友好的みたいで」
「フォレストラビットですね。この子たち、可愛いんです」
陽菜さんが微笑む。
フォレストラビットが二人の周りをぴょんぴょん跳ねる。
「触ってもいいですか?」
「大丈夫だと思います」
陽菜さんがゆっくりと手を伸ばす。
フォレストラビットが警戒せずに近づいて、彼女の手に顔を擦り付けた。
「わあ……ふわふわです」
陽菜さんの笑顔が、花のように咲いた。
俺は思わずカメラに手を伸ばしかけて——やめた。
(いや……今は写真じゃない)
この瞬間を、心に焼き付けよう。
陽菜さんの笑顔。
白山の森の美しさ。
そして——この出会いの奇跡を。
「蒼太さん、次の分かれ道に着きましたよ」
「あ、はい。えっと、地図によると……」
「蒼太さん、また地図が逆さまです」
「あ!」
陽菜さんがクスクス笑う。
俺も笑った。
こんな風に笑ったのは、いつ以来だろう。
カメラマンの夢を諦めてから、ずっと笑えなかった気がする。
でも今——
俺は心から笑っていた。
そして思った。
この旅は、きっと特別なものになる——と。
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